…最初に書いたトンネルの中でのやりとりは、その後の話だ。
もっとも、その間にトンネルを三十分以上歩かされている。
風もないし、空気も冷たくはない。線路はずっと直線で、勾配もごく緩い下りに変わっていた。
けれども駆け足に体力を取られたのが尾を引いて、ナギに後れを取ったままだ。
足の痛みをこらえながら少しずつ早歩きして、ナギの影が見えるぐらいにまで距離を縮める。
でも、それ以上差を縮めようとすると、ナギがスキップみたいな早足をし始める…
相変わらず、その繰り返しだった。
…最初に書いたトンネルの中でのやりとりは、その後の話だ。
もっとも、その間にトンネルを三十分以上歩かされている。
風もないし、空気も冷たくはない。線路はずっと直線で、勾配もごく緩い下りに変わっていた。
けれども駆け足に体力を取られたのが尾を引いて、ナギに後れを取ったままだ。
足の痛みをこらえながら少しずつ早歩きして、ナギの影が見えるぐらいにまで距離を縮める。
でも、それ以上差を縮めようとすると、ナギがスキップみたいな早足をし始める…
相変わらず、その繰り返しだった。
ハイキングじゃないんだぞ…ていうか、少しは申し訳なさそうにしろよ
出口の見えない穴の中で、じゃりっ、じゃりっ、という二つの足音が響き続ける。
先をゆく方が明らかに軽快で、後ろのそれは引きずるような響き。
ナギぃー、もしかして、またトイレ我慢しとるのぉ?
十数メートル先の影に向かって、私は尋ねてみる。
違うよ
短い返事が、煤みたいな匂いのする薄闇にこだました。
なら、何でそんなに急ぐんじゃあ
だって、早く着きたいけぇ……
あ、しのちゃん、置いてけぼりにされそうで恐いの?そんなことせんて
こ、恐くなんかない!
実は、暗いのが恐くて仕方なかった。でもそれだけにかえって、単刀直入に
恐いの?
なんて聞かれるとムキになってしまう。それで三十分以上の間、ずっと「待って!」と強く求めることができなかった。
暗い。本当に暗い。
明かりといえば、忘れた頃に弱々しい蛍光灯がポツリと一つ現れるだけだった。目が慣れたおかげで、すぐ目の前がなんとか見えてるだけ。お化けが出るとかの前に足元が恐くて、それもナギに追いつけない原因だった。道路のトンネルなら、必ず両側に照明がずっと並んでいる。森の中でさえ月や星が灯っていた。こんな暗さは生まれて初めてだ…。
ひゃあっ!
突然、首筋を冷たい何かが撫でてきた。
しのちゃん、ただの水だってば
水の滴りがところどころで、ぴちゃっ、ぴちゃっ、と砂利を叩いている。いちいちパニクってしまうのは不意打ちのせいもあるけど、なにしろ飛び上がるほど冷たいのだ。
シュン、シュン……
という小さな音が、また聞こえ始めた。足音の隙間に辛うじて聞く、かすかな響き。
…だから、何の音なの?
お湯が沸き始めて薬缶がシュンシュン言い出す音に、強いて言えば似てるような気もする。
でも、トンネルの中で薬缶が煮立っているはずがない。
汽車が来る時に聞こえる、レールがきしむ音にも少し似ていた。
それなら鉄道のトンネルで聞こえてもおかしくはないけど、だったら、とっくに汽車と対面してなきゃいけない。音はトンネルに入ってからずうっと、何度も現れたり消えたりしているのだ。
…結局、何の音だかは、今になっても分からない。
どこから聞こえてくるのかも謎だった。進むにつれて大きくなるか小さくなるかで判断しようにも、音は常に一定のボリュームを保っている。あたかも、私の歩みに合わせて音源が移動しているような…
何かが、ついて来てるってこと?!
ビクッとして周囲を見回す。しかし見回しても、壁や天井すら見えないのに他の物が見えるわけがない。
気流のイタズラとか…そういうのが、時々聞こえてるだけだ。きっと、そうだ…
そう考えて自分を納得させると、そのうちに音は聞こえなくなる。謎だけど特に実害もないから、聞こえなくなると私もあまり考えなくなって、あとはただ、重たい足を前へ運ぶのに専念するのだった。
…でも、今、音にハッキリとした方角があるのに私は気づいた。
前からだ…
短い間の比較では分からなかったけど、トンネルに入って最初に聞いた時と比べると、音は少しだけど、たしかに大きくなっている。
音は私の横や後ろで鳴ってるんじゃなくて、前方から私たちに向かって響いてきてるんだ…。
…なら、ナギにはもっとよく聞こえてるはずだ
そう確信した私は、結び髪を立てたシルエットに呼びかける。
なあナギ、これって何の音じゃろ?
え?
間の悪いことに、ナギのその返事と同時に音が止んでしまった。でも私は意に介さない。
つい今まで、聞こえとったでしょ?シュン、シュン…っていう小さな音
ナギの足音が、一瞬乱れた。
その乱れが収まってから、鼻声の、ごまかすような調子を含んだ返事。
…そ、そんな音、聞こえんかったよ
ウソ?さっきから何度も聞こえてたじゃん!
…わ、私には、聞こえんかったよ。しのちゃん何言ってんの?
……………
語尾に妙な意地を感じたので、私はそれ以上問い返さなかった。
でも、もちろん納得なんかできない。前から響いてくるあの音は、絶対にナギの耳にも届いている。
なによりの証拠が、動揺して、必死にウソをついていると言わんばかりの態度だ。
…なんで、そんなウソつくの?
ジョークは別にして、ナギが私にウソをついたのは初めてだった。
ナギには今までいろんな目に遭わされてきたけど、悪気はないのは理解できた。だから許せた。
でもウソは、わざとじゃないとつけない…
裏切られた、という思い。
疲労と苦痛と不安の中で、それが独り歩きを始める。
ひょこひょこ先へ進む後ろ姿に、私は敵愾心を覚え始めた。これまでの、間抜けで空気を読まない言動にムカつくのとは違う、自分に悪意を持つ相手への警戒と憎しみ………
私は疲労を押して、ナギに追いつこうと足を速める。と、それ以上に彼女の足が速くなる。
いいかげんにせぇよ!ぶち殺すぞ!
言った自分が驚くぐらいの怒声が響き渡る。ナギは無言のまま、おびえるように足取りを緩めた。
そのまま追いつくこともできたけど、私はわざと立ち止まって、その場で足踏みして駆け足みたいな早い足音を出してみせる。
と、たちまちナギが駆け出した。
そして私が足音を止めるや、ナギはスッと歩みを元に戻した。
やっぱり、たまたまじゃなかったんだ…
彼女の早足は、私に追いつかれるのを避けるためだったのだ。
………なんで、私を避けるの?!
ナギは何か、私に言えないような汚い思惑を抱いてて、それを隠してる…
思えば今だけじゃなくて、ずっとナギは変だった。
たとえば、さっき私が転んだ頃からしばらく続いた急ぎ足。トイレを我慢してたってオチだったけど、ヤツはおしっこ我慢してるのを恥ずかしがるようなタマじゃない。それどころか、もし私が目の前でおしっこしろと言ったら平気でやりかねないヤツだ。それに、あの涙…我慢してたおしっこ済ませた快感ぐらいで、目が腫れるほど泣いたりするか?
そのあと一度は普通に戻ったけど、かと思ったらトンネルの前で、また私を置き去りにしようとした。あんなに遠くに行っちゃってから、あんな小さな声で呼ぶなんて…もしかして半分ぐらい、本気で置き去りにするつもりだったんじゃないのか…。
もしかして…私を恨んでて、不安がらせて喜んでるの?!
私、何か悪いことした?だったらハッキリ言いなさいよ!
思惑を測りかねるあまり、私はそんな推測すら本気でし始めていた。
…シュン、シュンという音が、またナギの方から聞こえている。
何考えてるのか知らないけど………こんなの、私の知ってるナギじゃない!
…結果は考えないわ、状況は見ないわ…疫病神みたいな困った幼なじみだけど、ウソをついて自分だけ助かろうとしたり、ましてや人を陥れたりなんて真似だけは一度もしなかった。
むしろナギの行動は、常に誰かへの好意やサービスから出発していた。今日だけを振り返っても、楽器を触らせ始めたのは子どもたちへのサービスだったし、煮汁まみれの鶏肉を握らせたのも私への好意だった。
とはいえ、結果が結果だ。今日もフルートの子ににらまれてたけど、人から本気で恨まれることも多い。
真っ先に思い出すのは五年生の時の、友達の好きな異性の名前を男子に言いふらした事件。その友達に絶交されたばかりか、ひどいヤツってことでクラスの女子全員からいじめられた。さすがの私も
なんてことするんよ!
と彼女を問いただしたけど、
取り持ってあげようと思ったんじゃ…あの子いい子じゃけぇ。伝われば、相手も絶対好きになるじゃろ
澄み切った瞳でまじまじとそう言われて、私は結局、それがナギの気持ちなんだと思った。だって当時のナギは、自分が誰かを好きになったのも自分でアピールして回っちゃう子だったから。発想が変なだけで、ナギにとっては本気で友達を応援したつもりだったんだ…だから私は一人、必死で彼女の味方になった。
ただし困りものなのは確かで、学年が変わって一段落着くや、ナギはお礼だと言って、今度は私の片想いの相手を広めて回った。内臓が煮えくり返ったけど、でも結局、彼女の誠意までは否定できなかった…。
…そうやって一生懸命あんたを信じてきた私を、あんたは今、裏切ってる…バカにしてる!
気がつくと、私は痛いはずの脚を平気で思いっきり前へ踏み出していた。
じゃりっ!雄叫びのように砂利が鳴る。
足首が痛みに悲鳴を上げたけど、もう片足が素速く次の一歩を踏む。さらに速めてもう一歩。
ザッ!ザッ!ザッ!ザッ!……私はナギに向かって突進していた。
来ちゃダメ!やだってば!
ナギが涙声で叫び、足を速める。
カチンと来て、私の足はそれ以上にスピードを上げる。もう暗いのは恐くも何ともなくて、つまずく気も全くしない。
闇に溶けていた後ろ姿の輪郭が鮮明になって、靴下の白がハッキリと見えてきた。続いてスカートのひだ、ブレザーの生地の色、うなじの生え際、そしてアホみたいな結び髪の一本一本が明らかになってくる………
待ちなさいよッ!
両腕を伸ばして肩をガッチリ掴んだところで、ナギが前のめりに転んだ。とっさに体をひねって彼女の胴体をかばう。叩き付けられる衝撃を背中に覚え、砂利が飛び散る音がして、そして、静かになった。
痛ったぁー……
斜めに着地した私に、ナギの温かい背中が覆い被さっていた。額に、彼女の首筋が触れている。
…ゴメン。大丈夫?
ナギを前抱きにして、一緒に上体を起こす。斜め上に、折よく蛍光灯の明かりがあった。後ろから首を伸ばして、私は彼女の顔を覗き込む。
…真っ赤に泣き腫らしたナギの顔が、蛍光灯にほの白く照らし出されていた。
ど、どうしたんよ?!
擦りむけそうなぐらいに赤く腫れた目元は、ついさっき泣き始めたという様子じゃなかった。
そして今もそこへ、まん丸い目からあふれた涙がボロボロ流れ続けている。ひくっ…ひくっ…という短い痙攣が、ナギの背中から絶え間なく伝わってきていた。
……………
戸惑う私をよそに、ナギは目のまわりを手で拭いながら鼻をすすった。すぐにもう一度すする。
シュン、シュン、という音が小さく、あたりの闇にこだました。
音は、ナギのすすり泣きだった。
…トンネルに入った頃から、ずっと、泣いてたん?
………
こくりと、ナギがうなずく。
こんなの見せたら、しのちゃんを…余計に、心配させちゃうけぇ…じゃけぇ見られんように…
辛いのをこらえるような顔でそこまで言うと、あとは嗚咽だけになった。
どうしたんよ!何があったんよ!
私はそう聞きたかったけど、言葉が出なかった。ナギがこんなに泣くのを見るのが初めてで、そのことに私はうろたえていた。あの、クラスの女子全員からいじめられている間でさえ、私の前で少し落ち込んでみせる以外は、何事もないような顔で毎日過ごしていたのだ。
ナギを前抱きにしたまま一緒に腰を下ろして、私はナギの嗚咽が止むのを待った。
やがて膝に乗ったナギが、うつむいたまま、かすれた涙声で私に言った。
しのちゃんは……なんで昔から、ずっと私と一緒に、いてくれるん?
え……
なあ、なんで?
声は弱かったけど、あいまいな答えを許さない気迫を感じる。
なんで、って…
急にそんなこと聞かれても、困る。
…六歳の時、東京から越してきて最初に話した子がナギだった。どう出会って何を話したかは忘れたけど、同じよそから引っ越してきた同士で、そのくせこの土地の言葉を話してて、他人に物怖じする様子のない彼女が心強かったのを覚えている。
やがて学校に慣れて他にも友達ができて、この土地が自分のホームグラウンドになっても、ついてくるナギを私は拒まず、そして自分もナギについて歩いた。通学路、休み時間の居場所、クラブ活動、私の家の部屋……ずっとナギの顔が空気みたいにそこにあって、私はその空気を吸うのが心地よかった。
さっき書いたけど、小学生の間に二度、ナギと離れ離れになった。
ナギが生まれた、お母さんの実家がある村…つまり今目指してる場所のことだが、家の事情でそこへ引っ越すという話だった。当時はナギに
すごく遠いところじゃ
と聞かされていて、転校の話を聞いた時はおんおん泣いた。ナギがいなくなった後は自分が転校しちゃったみたいな気分になって、そして帰ってきた時には抱き合って喜ぶほどうれしかった。
…でも、なんでそんなに、ナギと一緒にいたいって、ずっと思ってきたんだろう?
他の子と比べて、特別に共通の話題が多いわけでもない。彼女の物怖じしない行動も、もう心強いなんて思えない。今日もそうだったけど、バカで何も考えてないから何も怖くないだけだった…。
…私、いっつも、しのちゃん怒らせてきたじゃろ?他の子にして絶交されちゃったようなことを、しのちゃんにも、しちゃったことがあった。なのに…
けどナギは、ずるいことしようと思って何かしたことは、一度もなかったじゃろ
口をついて出た私の言葉が、ナギの弱々しい声を遮った。
そうだ。ずるいどころか、ナギのすることは、いつも自分以外の誰かを助けようとしたり、大事にしようとしたりするためだった。だから私も彼女を信じて、ずっと付き合ってきたんだ。
けど、それだけに…さっきから続いていたナギの変な態度は気になる。その真意を確かめたい。
ナギの頭をじいっと見つめながら、私は言葉を付け加える。
…それにナギは、ウソついたり何か隠したりとか…そういうことを私に一度もせんかったし
ピクリと、ナギの結び髪が動いたような気がした。
じゃけぇ、今ナギが思ってることも、私に教えて
……………
二十秒、いや三十秒ほどの間、しいん、という音が聞こえそうなほど静かになった。
ナギは顔を上げると、私の膝から立ち上がって、すぐ隣へ腰を下ろした。
わかった。話すね
うつむきがちな横顔。戸惑いを浮かべた眼。
でも両手が思い切りよく、頭のてっぺんに伸びる。
バサッ。
あ……
竹箒みたいに逆立った結び髪が、バサリと解かれた。耳のすぐ上、額の端…残る二つの結び目も一つずつ解放されて、うなじが濡れ羽色の髪に覆われた。
初めて見る、髪を下ろしたナギ。
予想していたとおりの、襟元できれいに揃う真っ直ぐな黒髪。思いのほかボリュームがあって頭が大きく見えるけど、ちゃんとカットして、すいてあげればいいだけの話だ…。
ん?
その艶光りする黒髪が一箇所、ボコッ、とへこんでいる。頭頂部から少し下がったあたりだ。
触って、いいよ
横顔のままのナギに言われて、私はそこへ手を伸ばす。頭皮の温もり。指先でへこみの元をたどる。
つむじの少し後ろ、さっきまで髪が束ねられていたあたりに、毛穴も髪の毛もない部分があった。四センチか五センチぐらい…ミミズ腫れみたいな醜い縫い跡が赤黒く盛り上がっていた。
………!
気持ち悪くて、思わず顔をそむけてしまった。
…ご、ゴメン
ううん。私も自分で見た時、気持ち悪くなったけぇ。
ここの他にも、おでこの端っこや耳の上にこんなんがあってな、髪の毛集めて隠しとかんと見えちゃうけぇ…それであんな風に結んどったんじゃ
ナギは、むしろ話して楽になったというような顔色をしていた。ただ、もちろん笑ってはいない。
………それ………どうしたの?
私がちっちゃい頃、お母ちゃんがキレて、机の角でバンバン殴ったんじゃ
えぇ?!
こっちの、おでこのヤツは階段から落とされた時ので、耳の後ろは…
こともなげな顔で、ナギは髪をかき分けては醜い傷跡を見せていく。
ウソ………
あのお母さんは、そんなことする人には見えない…
ううん、それ以前に、ナギが電話でお母さんと仲良く話してたのを思い出す限り、そんなことがあったなんて絶対に考えられない。記憶に残らないような頃の出来事だったとしても、あんな傷が残っててその原因が母親だったら…私なら、一生口なんか聞けない。
……い、いつぐらいの、話な?
えーっと…なんて言ったら、いいかなあ…ぶったり蹴ったりはもう長い間ないんじゃけど…
答えながらナギの両手はブレザーとチョッキのボタンを外し、ブラウスのボタンも外していく。指がタンクトップの襟とブラをずり下げて、柔らかそうな丸みを中ほどまで露わにした。
え……?
ポツリと一箇所、溶けてゆがんだ皮膚が円形に盛り上がっている…夕食で見た、あの少年の顔に盛り上がっていた火傷の跡と同じだ。直径が煙草の火を連想させて、何をされたのかがすぐに分かった。
怒って何かしたんは、これが最後じゃ。たぶん、もうない…お母ちゃんが約束してくれた
さ、最後って…
ついこの前の夏、水泳の授業で着替えた時に、ナギの胸にこんな傷跡はなかった。
これ、つい最近じゃろ!なんで『もうない』なんて言えるん?!そんな約束信じちゃダメじゃろ!!
もうないったらないんじゃ!何も知らんのに、お母ちゃんを悪く言わんで!
とても強い声がトンネル中に響いて、私はたじろいだ。
いや、声の強さよりも、『何も知らんのに』という言葉が私にはキツかった。
ナギのお母さんのことを、たしかに私は何も知らない。スーツ姿を見て「どこかの会社へ働きに行ってる」と決め込んで、あとは話題に出ないのをいいことに、厳しいのか優しいのか、だらしないのかキッチリしてるのか…そんなこと聞こうともしなかった。挨拶程度以上に、直接話した記憶もない。そういえば、ナギの家で遊んだことは一度もなかった。それを言うとナギが必ず他の場所を提案してきて、結局そこで遊んできたのだ…。
とにかく私は、ナギのお母さん、そしてナギとお母さんとの関係を全く知らない。
でも……お母さんにこんなことさせて……お父さんは一体何しとるんよ?!
お父ちゃんは夜遅くまで会社じゃし…それにお母ちゃんにデレデレで、私は放ったらかしじゃったけぇ…
はぁ?!
思わず叫んでしまった。会社で遅いのは私の父親も同じだけど、後半は一体どういうことだ。本当だとすれば、まるで子どもじゃないの………
そして、だからしょうがないと言わんばかりに語るナギもどういう神経してるんだろう。こんなことされて放っとかれて、あんたは何とも思わないの?!
私のお父ちゃんはな…後から、お母ちゃんの彼氏になった人じゃけぇ。それでお母ちゃんと私はお父ちゃんに連れられて、今住んでる町に越して来たんじゃ
え………?
そんなの言い訳にもならないが、これも初めて聞いた。知らなかった。
…でもこの火傷の時にな、お父ちゃんが初めてお母ちゃん叱ってくれたんじゃ。じゃけぇ、もうない
だから一安心だと言わんばかりに、ナギが明るい目つきを私に向ける。
でも、もちろん私には、
今までずっと何やってたのよ?いくら連れ子でも親でしょ?!
そうとしか思えない。どんな事情があるにせよ、お母さんもお父さんもいい大人じゃないの!
それに、そんな人たちが反省したって続くかどうか疑わしい。そうだ、今晩だってナギを一人にして大阪に遊びに行ってるっていうじゃない…。
…ナギは、お母さんのこと憎くないん?…なんにも言ってくれんかったお父さんも、憎くないんか?
向き直ってブラウスのボタンを留めるナギに、私はようやく尋ねる。
お父ちゃんは強く言えんかっただけで、ぜんぜん何も言わんかったのとは違う
力のこもった声に、私の首が思わずすくむ。
それに、お母ちゃんには弱くても、一緒になって乱暴したりはせんかった
そんなん当たり前な!
あのな…さっきのお家の…住職さんから聞いたんじゃけどな、まずお母さんの彼氏の方が乱暴し始めて、そのうちにお母さんも…っていうのが普通で、あのお家にもそういう子が多いんだって。
……………
それに比べたら、私は恵まれとるじゃろ?
チョッキの前を合わせながら話す声は静かで、目を閉じた顔は微笑んでいるようにも見えた。
でも……
お母ちゃんも普段は優しい…ううん、乱暴してくる時も、私のこと大事じゃって思ってくれとる
ど、どういうこと?
しのちゃん、私のケガや火傷、今まで気がついたことある?
ううん。初めて見た
じゃろ。ああいうんが、見せた場所の他にもあるんじゃけどな……顔とか、どうやっても隠せん場所には一つもないんじゃ
……………
もしそうなら、たしかに偶然にしては出来すぎている。
けど、虐待を隠蔽しようという冷静な悪意の結果かもしれない。
でも、そこまでしてナギは親のことを「優しい」「私を大事に思ってくれてる」と言い立てる。対する私は、ナギの親との生活について、何を知ってるわけでもない。知ろうともしなかった…。
ナギの手が上着のポケットからゴム輪を出して、きれいな長い髪を結びにかかっている。
…結んじゃうん?
そう私が言いかけて、ためらっているうちに、ナギはテキパキと三箇所の結び目を作る。
そして元どおりの髪型になると、私の肩に寄りかかってきた。ちくちくする結び髪に思わず顔を背けたけど、かわいそうな気がして姿勢を戻した。
…でも、なんで今、親のことで急に泣き出したんだろう?
そのことに気がついてナギの横顔を見ると、目は迷うような色をしていて、口が何か言いたげに開いたり閉じたりしている。
言葉を促したくなったけど、なんだか恐ろしい答えが飛び出てくるような気がして、それで私は前を向き直ってじっと黙っていた。