ようやくそう言うと、ナギは体を起こして私の方を見た。
顔がさっきまでとは一転、元の泣き出しそうな表情に戻っている。どうしたんだろう。
あのな…今日、ずうっと話さなきゃって一番思っとったのは、ケガや火傷のことじゃないんじゃ
ようやくそう言うと、ナギは体を起こして私の方を見た。
顔がさっきまでとは一転、元の泣き出しそうな表情に戻っている。どうしたんだろう。
あのな、しのちゃん…
なに?
上目遣いになったり伏せたりする両目の下で、桃色の唇がためらいがちに開く。
私な、お母ちゃんやお父ちゃんが、そんなじゃったけぇ…
うん
頭の傷を見せた時に比べて、ひどくじれったい。逆に私は、大概のことではもう驚かないつもりだった。
じゃけぇ…
今日、ボランティアに行った家………私もな、あの家に預けられとったんよ。私もあの家の子だったんじゃ
え……………
まだ田舎におった頃と、あと、しのちゃんと会ってからも二回お世話になっとる。覚えとるかな…小学校の時、急に『おばあちゃん家へ引っ越す』て言って…あれウソだったんじゃ。ゴメンな
……………!!
頬を思い切り、殴られたような気分がした。
『さんざんだったなあ』
『いいことしてあげた』
『生理的に嫌』
『あそこん家は、もういいよ』
…ナギの前で吐いてきた、あの家や子どもたちに対する感想がぐるぐると頭を回る。
しかも私は本音でそれを言って、おまけにナギに同意まで求めていた…。
見つめてくるナギの顔を、正視できない。
だって……私、知らなかったし………
そんな台詞が浮かんだけど、自分に対する言い訳にすらなる気がしなかった。
あそこの子だからって、ナギを見下したりするつもりなんかないよ
そう言おうとしたけど、恥ずかしくて口が動かなかった。今の私がそれを言ったところで、説得力なんて全然ない。
謝りたい、許してほしい…でも気持ちがこみ上げてくるばかりで言葉が思い浮かばない…
下顎を震わせたまま、たぶん私はこう言った。
…なんで、もっと前に……言って、くれんかったの………
勝手なことをつぶやいた私に、しかしナギは優しかった。
ゴメンな。しのちゃんには言っときたかったんじゃけど、結局言えんかったし…それに、あの家に演奏しに行ったらみんなにバレちゃうかもしれんけぇ、それで私、行くの嫌がっとったんよ
……………
じゃけぇ前の日に、先生…住職さんに相談に行ったんじゃ。そしたら先生がな、
大丈夫。みんなの前で言ったりせんて。
けど、その大事なお友達に話すにはいい機会じゃな…よし、まかせとき!
それで用意されたのが、夕食への招待だった。
毎日大変だったけど、みんなが優しい、楽しいお家だった…それを見てもらってからなら打ち明けられる!って、私も思っとったんじゃけど…
そこでナギは言葉に詰まったけど、その先を聞く必要はなかった。
演奏会がメチャクチャになったのを不満に思ったままの私。他人事として物珍しそうに食卓を眺めて、手が汚れた小さい子や火傷の少年にビクビクしてた私………そんな私に向かって
「自分もここの家の子だったんよ」
なんて、口が裂けても言えなかっただろう。
先生は、『志乃ちゃんは、きっと分かってくれる子じゃよ。また連れておいで』って言ってくれたんじゃけど…私は、せっかく決心したけぇ、今日中に打ち明けたかったんじゃ
…なのに、その私が
「さんざんだったなあ」
「生理的に嫌だ」
なんて平気で言ってくる。しょげて当たり前だった。
トイレを済ませた時に見えた涙の跡…あの時も泣いてて、それを見られたくなくて離れて歩いてたんだ。
そして何も知らない私はまた、今度はトンネルの手前で
「あそこん家は、もういいよ」
……………。
人をバカにしてたのは、私の方だ…
夕食の席で見せていた緊張。小さい子を扱う時の慣れた様子。住職さんのナギを見る目…真相に行き当たれないまでも、なんか変だと思わなきゃいけなかった。
ううん、ナギが演奏しに行くのを嫌がってた時に、もっと突っ込んで話を聞いてたら……
ナギは、ヘタクソだからって演奏を嫌がる人間じゃない。それは私が一番よく知ってたはずなのに、あの時の私は、無事にボランティアへ行けそうなことで頭が一杯だった。
違う。頭が一杯じゃなくたって…
今まで八年近く、ナギと毎日のように顔を合わせてきた。
正確には二度の中断があって、まさにその間ナギはあの家にいたんだけど、私はナギがするウソの説明や土産話をただ聞いて信じてた。ナギがどんなに変なことしても、彼女に悪意はないんだから…で済ませてきた。
でも振り返ると、
「コイツ何か変だ」
と思う機会はいくらでもあって、そこでちゃんと話してたら、ナギから過去を聞けてたたかもしれない。
それを見過ごし続けてきたのは、私がナギに、その程度の関心しか持ってなかったってことだ。
ナギのことを分かった気になって、勝手に信じたり許したりして…その挙げ句に今日、こんなに辛い形で…。
ナギ………
ん?
うつむいたまま口を開けたものの、言葉が浮かばない。
謝りたいのに、それすらおこがましい気がして、何も言えない。
どんどん目のまわりが熱くなって、視界の中にあるレールや砂利がぼやけてきた。
し、しのちゃん、なんで泣くん?!
ゴメン………私、ナギに今……何言っていいか、分からん………
気がつくと、さっきと反対に私が泣きじゃくって、ナギに肩を支えられていた。今度は自分が鼻をすする音が、シュン、シュンと闇にこだましている。
しのちゃん、泣いちゃやだってば!
だって…私、すっごく悪いこと…
しのちゃんは悪いことなんか、なんにもしとらんけぇ…
だって、しのちゃんは、あの子たちがどんな風に暮らしとるのか、ちゃんと見にきてくれたじゃろ?昔の私がどんなとこにおったのか、見にきてくれたじゃろ?
見たけど…ぜんぜん他人事で、なんにも分からんかった…
ううん。演奏を聴くとかの前に、初めて目の前で見る楽器が面白そうでしょうがない……そういう子たちじゃってこと、しのちゃんに分かってもらえた。
あそこじゃ一人になって音楽なんか聴けんし、ピアノぐらいはあるけど取り合いでボロボロな。自分専用の楽器なんてあり得んし、あっても家で練習なんか無理じゃ…
じゃけぇ私もあの頃は、自分専用のホルンができて、それを吹けるようになるなんて思いもせんかった
楽器を吹くのが楽しい、っていうナギの言葉の重みも知らずに、私はただ彼女のヘタクソ加減をバカにして、挙げ句に『スカせ』なんて教えてたんだ…。
ナギが、見開いた目で私を覗き込む。
けどな、だからって私もあの子たちも『かわいそう』じゃないんよ
……………
みんながおるし、ご飯はおいしいしな、先生も奥さんも、そのへんのお父ちゃんやお母ちゃんに負けんぐらい優しい…
ならなんで隠すって思うかもしれんけど、私は、あのお家で先生やみんなと暮らせてよかったって、ホントに思っとる!
……………………
分かったって、言ってあげたい。
でも今の自分はやっぱり、今の自分の暮らし以外は考えられなかった。
小さい子の面倒を見ながら大勢で食事をする毎日…その中にいることを想像すると、とてもじゃないけど耐えられない。部屋だって何人部屋なんだろう。それに、あそこで暮らしてるってことは、落ち着いて暮らせる家がないってことだ…
赤ちゃんを見ていた私と同い年ぐらいの女の子も、両手をカボチャまみれにした小さい子も、そして火傷の少年も、誰を思い出しても『かわいそうだ』という感情しか湧いてこない…。
…ゴメン。今はどうしても、いいとこじゃって思えん……ホントにゴメンな……
ううん。適当に分かったとか言われるより、しのちゃんが正直なんがうれしい…
私やっぱり、しのちゃん大好きじゃ!
ナギが勢いよく、私に抱きついてきた。
そして、たまりかねて彼女も泣き出す…と思ったけど、震えも感じなければ嗚咽も聞こえない。
………?
こわごわと薄目を開けると、私の顔のすぐ下に、うっとりするような笑顔があった。
幸せそうに閉じられた目には、涙の兆しすら見えない。
ナギ、無理せんでいいよ。もう、泣いとるの隠さんでもいいけぇ
泣く?…私、ホントにうれしいんじゃけど
キョトンとした声が聞こえてから、ギュッ、と、抱きしめる力が強くなる。
それに、しのちゃんは必ず、分かってくれる
……………
抱きつく力はどんどん強まるけど、苦しくない。ナギの肩や腕は、ただただ暖かかった。
ナギって、こんなに強かったんだ……
薄情きわまりない私を、ナギはなおも信じようとしている。そして、ひどいことを言った私に対して、ナギは本当に優しい。親たちにも、ヤバいぐらいに優しい…
そうだ。
親たちがさっき聞いたような有様だとすれば、ナギをこんなに強くて優しい子に育てたのは…あの家だ。
あの家の、あの住職さんや子どもたちが、ナギをこんな風に育てたんだ。
…そういう、ことか
あの家の子だったのは不幸じゃない、っていうナギの言葉が、少しだけ見えてきたような気がした。
でも、それを口に出してしまうのは恐い。ナギはこんなに私を大事に思ってくれてるのに、私はナギのことをろくに知らず、知ろうともしなかった。簡単に理解しちゃったら、また同じことを繰り返す。
…懸命に涙と嗚咽を止めて、私は彼女を強く抱き返す。
そうする以外に、私は何もできなかった。
私たちは、ふたたび歩き始めていた。
体を休めたせいか、歩くのがずいぶん楽になっていた。
ごぽっ、ごぼごぼ…左手に豊かな水が流れる音。水の冷たさが想像されたけど、体はもう凍えてない。
今度こそあと少しじゃけぇ、がんばろ!
元気な高い声が、すぐそばで響く。
歩くのが楽になったのは、もちろん休んだせいだけじゃない。
線路の幅は一メートルぐらい。並んで進むわけにはいかないけど、それでも、上着の襟がくっきりと見える距離にナギの小さな背中がある。
!
ピリッとする冷たい風を一筋、久しぶりに感じた。
ひゃっ!
私と同時に、ナギも小さく叫ぶ。風は進行方向からだった。
今の風、雪の匂いがした!
…雪の、匂い?
うん!
じゃりっ、じゃりっ、じゃりっ…ナギの足が速くなり、また間隔が開く。
でも私はもう呼び止めたりせずに、彼女と同じペースで砂利を踏む音を響かせていく。
足下が、恐くない。
相変わらずの暗闇なのに、なぜか枕木を留める金具や砂利の一粒一粒までが目に映ってて、そしてレールの上が鈍く光っている。トンネルの壁が描く丸みも、わずかだけど見えるようになっていた。
そこでまた、肌を裂くような風。それが通り過ぎるのを待ってから、風が吹いてきた方…ナギの肩のさらに向こうを私は見る。
あ………!
ずうっと遠くに真っ白な円がポツリと見えて、それが壁を照らし出し、二本のレールを光らせていた。
出口じゃ!
うん!
二つの足音は、さらにペースを上げる。
風がまた吹いて、マフラーをなびかせた。ナギの予告どおり、出た先は吹雪いているんだろう。
…でも、私の目を塞いで、何もかもを見えなくしていた長い長い暗闇が、いよいよ終わる…途中でしゃがみ込んでいた何十分かを含めて、一時間以上も続いてきた闇。
手足は早くも風に凍え、外へ出ればこれに吹雪も加わるはずだけど、それでも、この暗黒から一刻も早く抜け出したい。痛む脚、疲れた体、鞄と楽器の重さにしびれる腕…出たらそこで倒れていいから、あともうちょっと頑張れ私…
…ん?
シュン、シュン、シュン…
砂利を踏む音の合間に、あの音がまた聞こえている。
ナギは五メートルほど前を、結び髪を揺らして小走りに駆けていた。
ナギ、また泣いてるん?
心の中で私は問いかけた。何もかも解決したわけじゃないけど、さっきあれだけ泣いて、そして自分から泣き止んでくれたのに……でも逆光のせいで薄暗い後ろ姿を見てると、自信がなくなってくる……。
なあなあ、しのちゃん!
…え?
聞こえたナギの声は、涙とはほど遠かった。
そして、シュン、シュン…という音はナギとは関係なしにまだ聞こえている。
しのちゃん、まだ泣いとるん?…あ、分かった!ずっとトイレ行ってないけぇ漏れそうなんじゃろ?
ナギが立ち止まってアホ面を向けたのと、遠くの出口に強い光が差したのとが同時だった。
シュン、シュン、キシュン……足下の線路がきしむ音だった。プァン、と小さく警笛が聞こえた。
ナギ!き、汽車っ!
へ?
ああ、もう!
ナギの腕を掴んで転がるように線路を降り、とりあえず壁際にへばりつく。でもトンネルの幅はギリギリ一杯な感じがして、まだ怖い。
ゴオォォー…という地鳴りのような音が聞こえ出す。私は夢中でナギを押し倒すや、ナギの体の上に身を伏せた。顔を上げて汽車の影の大きさを確かめ、これでやり過ごせそうだと分かると、あとはナギに抱きついたまま無事を祈るしかなかった。
シュン、キシュン……カタン、タタン、ダタン……ギュッと閉じた目の向こうで、レールの響きが刻々と大きくなっていく。グオォォォ…というエンジン音が壁を震わせ始めた。
しのちゃん…
耳のすぐそばで、妙にもじもじとしたナギの声。見ると、目を閉じて顔を真っ赤にしている。
私、女の子に興味ないんじゃけど…しのちゃんがそんなに私のこと好きなら、どうしようかな…
お前は今何が起きとるか分かっとらんのかー!
思わず顔を上げて怒鳴った瞬間、頭の真上を汽車の車体がビュッと通り過ぎた。
……ひ……ひぃ………
ダタン、タタン、カタン……グォン、グオォオォォォ………風と排気ガス、そして車体にこびり付いた雪を私たちに浴びせて、一両きりの汽車はトンネルの奥へと勾配を登っていく。恐怖から立ち直った私が振り向くと、テールライトは早くも豆粒みたいだった。
あれほど苦労して歩いてきた長い道のりを、汽車は一瞬にして…
ん?待てよ。
…汽車、動いたじゃん
そうじゃな、よかったなあ
アホか!『今夜は絶対動かん』て言ったんはどこの誰な!やっぱ待っとればよかった……ん?
異様な冷たさに足下を見ると、壁際を流れる溝に片足がはまっていた。靴の中まで水びたしの感触。
やっぱナギは、私の疫病神だ…
へたり込む私をよそに、ナギは風に立ち姿をさらして真っ白な出口を見つめていた。
しのちゃん…なんで汽車、動いたんじゃろ?
聞いとるのはこっちじゃ!おかげで吹雪ん中を、こんなびしょ濡れの足で…
あ………!
しのちゃん大丈夫!吹雪の中を歩かんで済みそうじゃ!
え?!
ナギはレールの間へ上がるや、そのまま勢いよく駆け出した。
ま、待ってってば!
私も荷物を持って線路に上がり、後を追う。ナギは私の呼びかけにも答えず、ザックを揺らして走りまくる。
だいぶ近づいた出口には真っ白い光があるばかりで、他に何も見えない。猛烈な吹雪以外の景色を私は想像できなかった。
…なのに、「吹雪の中を歩かないで済む」って…どういうことだろ?
それも気になるけれど、まずは彼女に追いつくので精一杯だ。私の視線は、三本の結び髪を風にさらすナギの後ろ姿だけに集中している。
やがて冷たい風が吹きっぱなしになり、かわりに足下がぐっと見やすくなった。
レールの銀色はいよいよハッキリしてきて、トンネルの壁が煤や苔で黒ずんでいる様子までが分かる。
足下の不安さえなければ、歩幅がある分だけ私の方が速い。大股で十歩分、同じく七歩分、五歩分…たちまちナギとの距離が縮む。いつの間にかナギの後ろに影が這うようになっていて、背丈の倍ぐらいのその影を私は踏むことができた。てっぺんの結び髪が強風になびいて、耐えかねたゴム輪が上へずれていくのが見える…。
痛っ!
何かが飛んできて頬をかすった。
次の瞬間、立ち止まったナギの背中に私は体ごと衝突した。ナギの体が突きのけられて視界が開けた。
……………………
氷水みたいな空気が、外から流れ込んできている。
目の前はまだトンネルの中だけど、吹き込んだらしい雪が砂利にうっすらと積もっていた。
二、三十メートル先に、大きな大きな出口がぽっかりと口を開けている。
…そこから先が、とにかく真っ白だった。
といっても、吹雪が荒れ狂ってて真っ白なんじゃなかった。
それどころか夜空はツンと晴れて、まん丸い月が浮かんでいる。
その空の下………地上の何もかもが真っ白で、それが月の光を受けて明るく光っていた。
真っ白な明かりは、これだったんだ…
冷静に考えたら、いくら雪が白くても、天気が大荒れなら真っ暗闇のはずだった。
トンネルを出た先で左へ反れていく線路、その向こうに広がる田畑らしき平野、それからその平野を囲む山々………すべてが粉雪にまんべんなく覆い尽くされていて、そして、まだ誰の足跡にも汚されていない。平野の中に、ポツリポツリと家の明かりが見える。その家々の屋根にもずっしりと雪が降りていた。
唯一、さっき汽車が通ったせいで、線路敷の雪面が削られて二本のレールが光っている。でも月に輝くその銀色は、ほどよいアクセントになっていた…。
これが、おばあちゃんのいる村
体を起こしたナギが、一歩前へ踏み出しながら私の方を向いた。さくっ、という小気味のいい足音がした。
私もここで生まれて、ここに住んどったの。きれいじゃろ
………うん
ついさっき、吹雪が止んだんじゃ。降りたてのホヤホヤ!
ナギの頭から、結び髪が一つ消えている。さっき頬に飛んできたのは、強い風で外れかかってたゴム輪だったらしい。
うっすら積もった雪の上を、ナギについて私も歩き出す。靴底と砂利の間に、何とも言えない柔らかい感触がある。
さくっ、さくっ…ぱふっ、ぱふっ……煤けた壁や天井がなくなり、靴の下が完全にふかふかの雪だけになる頃には、村を間近に見下ろせるようになっていた。
星空と月明かりの下、山に囲まれた静かな雪野原が広がる。ところどころに、暖かそうな家の明かり。
なんか、不思議…
月に照らされて光る、できたての雪野原。こんなの、生まれて初めてだった。
カーブしていく線路から外れて、村を見下ろす斜面の縁で私たちは立ち止まる。
ここで、ナギは生まれたんだ……
うん
いいなあ…
氷の粒だなんて絶対に信じられない、ふわっとした雪。それが地上をくまなく覆って、誰にも踏まれないまま、ひっそりと月に照らされている。
体が、芯から洗われていくような気分。
私の町にも少しは雪が降るけど、ぜんぜん違う。
いいじゃろ…けど、こんなん私もあんまり見たことない。夜に降り出したら、普通は一晩中続くんじゃ。いくら雪は白くても明かりがないけぇ、普段の夜よりも真っ暗で怖くてな…
今までで一番冷たい風がスカートやマフラーを煽り、下着の内側にまで染み込んでくる。
なのに、急いで村にたどり着きたいとは思えなかった。
…しのちゃんに今日、こんなん見せたげられるなんて思わんかった
ナギの茶色い瞳に、雪がはね返してくる明かりが映っている。
あんな傷が残る乱暴を、ここにいた頃からナギは受け続けていた。そのせいで見ず知らずの人ばかりの家に預けられて、挙げ句に親の勝手な都合で急によその町へ連れていかれて…ここはナギにとって悲しい思い出が詰まった場所でもあるはずなのに、彼女の眼に辛そうな色はみじんもなかった。
…どれもこれも、今のナギには辛い思い出じゃないんだ
どうして辛い思い出じゃないのかは、やっぱり私にはまだ分からない。
でも、ナギが今までの人生を辛いと思ってないってことは、今のナギを見て確信できた。
ナギって、強い。そして優しい。
ここまでナギと一緒に歩いてきて、本当によかった。
行こっか
ナギが雪をかき分けながら斜面を降り始めた。きゅっ、きゅっ…という足音に私はついていく。
すぐにナギが、思い出したように話し始める。
あのな、さっきの駅を出る時にちょっと思って、結局言い忘れたんじゃけどな…
ん?
汽車を乗り間違えたってのは伝わっとるけぇ、ひょっとすると、しのちゃんのお母さんが津山から順番に駅を探して回って、さっきの駅まで来てくれてたかもしれんな
あ………
そんなバカな………でもそう言われると、ズバリそのとおりだった気がしてくる。
だったら、これまでの苦労はいったい何だったんだ…
言い忘れるなよっ!
追いついて一発はたいてやろうと思ったものの、足が滑りそうで思うように動けない。
…それでも、一緒に歩いてきてよかった……よかったんだよ、きっと………
懸命に納得しようと努める私をよそに、ナギの二本に減った結び髪が楽しげに揺れている。
風は凍りつきそうなぐらいに冷たくて、雪に埋もれている足首の方がむしろ暖かいぐらいだ。雪野原の片隅に、いくつかの窓明かりが灯っている。その中に、目指す家はあるという。
あの中に、ナギのおばあちゃん家が…もうすぐだ
ナギのおばあちゃん家に着いたら、まず……やっぱり私も、熱ーいお風呂に入りたい。
そしたら、ナギに残り二つの結び目も解かせて、櫛できれいにすいてあげる。
ナギが自分でも見とれちゃうぐらいの髪型に、絶対になる。だから、もう変な結び髪で傷跡のデコボコを隠させたりしない。もし何か言ってくるヤツがいたら、私が許さない。
それから、明日になったらその足で…それが無理でも、とにかく明日のうちに、ナギと一緒に楽器を持って、あの家へ行こう。
行って触れ続けて、いつか、ナギが強くて優しい子に育った家を、私もいい場所だって思えるようになりたい。ナギが生まれたこの場所を見て息を呑んだみたいに、素敵だって思いたい。
だって…
しのちゃんは必ず、分かってくれる
私は、こんな私をそこまで信じてくれる大事な友達を、今度こそ、それと同じぐらい大切にしたいから。