線路から降りて、さっき汽車が去った方へと歩き出す。すぐさま、真っ黒い森が両側に迫ってくる。
恐かったけど、落ち着いてよく見ると、四、五人並んで歩けそうな空間がずっと先まで保たれていた。
それに、月の光があるから真っ暗闇でもない。
ザックを背負ったナギの後について、鞄と楽器のケースを持って二本のレールの間を進む。枕木をまたいで砂利を踏むたびに、小気味よい足音が鳴る。

ナギ

な、結構平気じゃろ

しの

うん。なんとか行けそうじゃな

坂のキツさも、しばらく歩いてみて初めて『あ、登ってるんだ』と気がつく程度だ。手足がしびれそうなぐらい寒いけど、気分は楽だった。
気楽になったところで、私はナギの背中に向けて雑談を振る。

しの

なあ。今日はさんざんだったねー…
まあ、いいことしてあげた、ってことにはなったけど

一瞬、ナギの足取りが止まったみたいに見えた。

ナギ

……うん

だいぶ遅れて、蚊の鳴くような小声の返事。

しの

けど、前の日まで嫌がってたナギが、結局一番頑張ったな。
それにナギって意外な才能があるんじゃなぁ…ほら、子どもの相手。私ああいうの、なんか生理的に嫌でさ…

ナギ

…そう、かな……

返事はやはり遅れがちで、そして上の空みたいな、しょげたような口調。どうしたんだろう。

しの

あ。ひょっとして…

私は素直に感想を言っただけなのだが、ナギにすれば『演奏の途中で小突いたりしといて、何を今頃調子のいいこと言って…』と思えたかもしれない。
けど私に怒られるなんて年中行事で、普段のナギならすぐ忘れるはずだけど…
でもまあ、私も一杯一杯だったから、普段より怒り方がキツかったのかもしれない。

しの

あのさ…最初の曲のとこで、怒ったりしてゴメンな。大事な本番だったけぇ、私も必死だったんじゃ

私が謝ると、ナギは考えるような沈黙の後でポツリと言う。

ナギ

……怒られたっけ、私?

やっぱり、ナギはナギだった。
ただ、そのボケた台詞すら声が小さく、口調にもどこか影がある。そしてナギは、それ以上何も言わずに黙々と前へ歩き続ける。

しの

じゃあ一体、何を気にしてるんだろ…?

背中で揺れるザックを見つめながら、私はナギが落ち込む原因をあれこれ考えていたが…

ナギ

それよりさ……おばあちゃん家着いたら、まず何したい?私は、熱ーいお風呂に入りたいなぁ…

ナギが気持ちを切り替えるような口調でそんな話を振ってきて、それに応じている間に忘れてしまった。
ちなみに、『まず何したい?』への私の答えは、
「家に電話」
だ。所在も分からぬまま切れた電話。そのまま何時間経っても帰ってこない娘…私のお父さんとお母さんは大騒ぎを始めているだろう。怒られるなら少しでも早いうちがいい。

それから、どのぐらい歩いただろう。

しの

痛ったぁー……

枕木につまずいて転び、私は右腕をレールにぶつけた。痛みが体中に響いて起き上がれない。
手探りで眼鏡を拾う。じゃりっ、じゃりっ………前に、ナギの足音が聞こえ続けている。

しの

ナギ…

呼び止めようとして顔を上げると、ナギの姿が見えない。かわりに前方には、ただただ漆黒の闇が広がっていた。

しの

…え?

両脇の木々が濃い影を落とし、行く手の線路を覆っている…いや、真っ暗で、線路が続いているのかどうかすら怪しかった。何度かカーブを曲がるうちに方角が動いて、光の射し方が変わっちゃったらしい…。
おそるおそる目を凝らすと、暗がりの中に、結び髪を三本立てた後ろ姿がボンヤリと見えた。

しの

ナギぃ!

激痛を押して必死に叫ぶ私。なのに彼女は足を止めず、髪を揺らしてヒョコヒョコと歩いていく。少しずつ小さくなる足音、闇に薄れていく背中………無視?!置き去り?!どういうつもり!!

しの

ナギってば!

二度目の叫び声から少し遅れて、ようやく砂利を踏む音が止んだ。振り向いてくれたのは何となく分かったものの、顔はよく見えなかった。

ナギ

どうしたん?

しの

……………

声が、出ない。真っ暗闇で置き去りにされかけた私の心臓は、まだ飛び出そうなほど激しく鳴っている。

ナギ

そんな格好で休憩したら、おなか冷えちゃうよ

しの

これが休憩に見えるんかっ!

ともあれ、痛みが落ち着いて立ち上がれるようになるまで、ナギは待っていてくれた。
でも、私が歩き出すと彼女もすぐに歩き出し、十数メートル開いた距離は縮まらない。
心細くなった私はピッチを上げようとしたけど、思うように足が速まらなかった。脚が石みたいに重たくて、無理に大きく上げようとすると鈍い痛みが走る。砂利のデコボコのせいで、足首や足の裏も痛い。

しの

うわっ

また転びそうになった。いつの間にか歩幅が縮み、枕木の間隔と合わなくなっている。脚の重さは疲れのせいだけじゃなくて、勾配が最初よりもキツくなっていた。

しの

寒っ!

山から降りてくる風が、時々、びゅううっ!と強まる。山の向こうに大雪を降らせたばかりの冷たい風。
それが顔はもちろん、マフラーや上着の隙間を縫ってなめ回すように体を冷やしていく。膝上までソックスに包まれているはずの両脚、そして靴が守っているはずの足先までが焼けるように冷たい。

しの

ケースが重いよぉ………重いの、かな……?

両手にいたっては、もはや他人の物みたいだった。鞄や楽器のケースを持ち替えては、手に息を吐きかける。でも手袋のせいで逆に効き目がないばかりか、その繰り返しがさらに私の足取りを遅くさせた。
また、風が強まる。生き物みたいにざわめく木々の群れが不気味で、思わず足が止まる。
風が止んだら止んだで、今度は静けさが恐ろしい。そして行く手は吸い込まれるような暗闇………狭い空に輝く星たち、それにジャリジャリというナギの足音がなければ、私はパニックに陥っていただろう。

しの

ナギ…待ってってばぁ!

叫んだつもりが、小声にしかならなかった。
同い年で同じ性別の二人が、同じ場所を歩いている。荷物をザック一つにまとめているとはいえ、体はナギの方がずっと小さい。スカートや靴下も私より短くて、見るからに寒そうだ。なのに、なんでナギだけ平気で歩いてるんだろう。そして、歩いていってしまうのか…。

しの

…ん?

と、ナギの影がレールの間ではなく、左の線路脇を歩いているのに気づく。

しの

そっか。脇を歩けば、枕木を気にしなくていいんだ

枕木を意識するのに疲れていた私は、彼女に習って、線路脇のこんもりした砂利の上へ足を踏み出した。

しの

わぁっ!

途端に砂利がガラガラと崩れ、私は森の方へ前のめりに倒れかけた。とっさに近くの木の幹へしがみつく。
森の中には月光が木漏れ日のように差し込んでいて、木々の向こうにある地形を私に見せてくれた。

しの

……………

口から、魂が飛び出すかと思った。しがみついている木のすぐ先は、絶壁に近い急斜面。はるか下の方で小さく、ザー……という速そうな瀬音が鳴っていた。

しの

もし、そのまま転げ落ちてたら………

破裂しそうな動悸をこらえて、私は四つん這いで線路の真ん中へ戻る。
すると、ナギの姿が消えていた。
行く手の薄闇には何も見えず、砂利を踏む音も聞こえない。

しの

まさか……今の私みたいに転んで、そのままあの谷底へ………

思うや、私は前方へと駆け出していた。砂利を踏むのに疲れた足が悲鳴を上げたが、必死にこらえた。

しの

ナギー!

数字の書かれた四角い標識を左に見ると、やがてレールがカーブを描き始め、どんどん急になる。
そうだ。私が木にしがみついてる間に、カーブの先まで行っちゃったんだ……きっとそうだ。そうだよね………お願い!そうであって!
急カーブを曲がり終えると、月が射してきて視界が明るくなった。その先は見晴らしのいい直線。
…けれどもナギの姿は、どこにも見えなかった。
残酷なまでに冷たい風。流れの速そうな瀬音が、かすかに耳に届いている。

しの

ナギ!ナギってば!!………ウソ……そんな………お願いだから返事してー!!

ナギ

はーい!

すぐ横から返事が帰ってきた。
あわてて振り向くと、高い枯草の間に後ろ頭と丸めた背中が見えた。

しの

…ど、どうしたん!

ナギ

おしっこ!…あ、こっち見ちゃダメ!変態!

谷底からの瀬音だと思っていた響きが、そこで止んだ。

しの

誰が見るか。このドアホ……

疲れと凍えが一気にぶり返してきて、私はへなへなと座り込んだ。しばらく立ち上がれそうにない。

ナギ

あーっ、めっちゃスッキリしたー!でけーペットボトル一本ぐらい出た!

堂々とパンツの裾を直しながら、ナギが戻ってきた。見開いた目のまわりは赤く、頬に涙の跡がある。

しの

少しは恥ずかしがれよ…しかも涙なんか流しちゃって、どんだけ我慢しとったん

ナギ

歩き始めた頃から、ずうっと!

ともあれ、ひさびさに間近で見るその顔は明るい。急に元気がなくなり、ずんずん先へ歩いていってしまった理由を悟って、私は脱力もしたけれど安心もした。
けど、なんでそんなに我慢してたのよ…トイレ行きたかったらそう言ってくれればいいし、いつもは平気で言ってくるじゃないの…。

しの

寒い……おなかすいた……

さらに歩くうちに、風の強まるサイクルがだんだん狭まってきた。体の震えが止まらくなる。

ナギ

しのちゃん頑張れ!もうすぐトンネルじゃ!

しの

もうすぐって、いつじゃあ。もう一時間ぐらい歩いとるがぁ

足が思うように上がらない。というかもはや足に感覚がなくて、惰性だけでどうにか歩いている状態だった。そのくせ、足の裏の痛みだけは律儀に伝わってくる………ただ、枕木につまずく心配はもうない。わずか六十センチほどの枕木の間を歩くのに、ちょうど二歩を費やすようになってたからだ。

ナギ

もうすぐったら、もうすぐじゃ

ナギが言ったとたん、また風が吹き降りてきた。身構えても体に力が入らず、後ろへ転がりそうだった。
先の方で、月明かりに輝く線路がカーブを描いている。

しの

あれを曲がったら、今度こそ、今度こそはトンネルが見えるような気がする…

カーブのたびに期待しては裏切られていたが、今度こそはと強く願った…いや、絶対になくっちゃ困る。もし今度も違ったら、もう歩けそうにない。
かたやナギは、そこにトンネルがあってもなくても構わないという様子だ。てっぺんの結び髪を風に遊ばせたまま、私のすぐ前を遠足みたいな足取りで進んでいく。少なくとも不安とは無縁な雰囲気だ。

しの

なあ。ひょっとして、このへんを歩いたことがあるん?

場違いな元気さに少しムカつきながら、私はナギに聞く。

ナギ

ううん。歩いてみたかったけどな、おばあちゃんが…

しの

どうしたの?

ナギ

このへんの山はな、熊がよく出るらしいんじゃ。じゃけぇ絶対に入っちゃダメって言われて…

足が、思わず止まってしまった。
心臓も止まりそうだったが、それは免れた。

しの

…そんな話、聞いとらんぞ

ナギ

ゴメン。私も忘れとった

しの

なによその謝り方!おまけに謝って済んだら…

ナギ

あ!でもほら、熊って冬眠する生き物じゃけぇ!

明るく転じた声でナギが言った途端、すぐ近くからガサッ!という音。

しの

で、出た………

腰が抜けるというのを、私たちは生まれて初めて体験した。一刻を争う危機なのに、尻餅をついたまま起き上がれない。仕方なく、そのまま両腕の力を振り絞って必死に後ずさりする。
木の間から、ぬっと黒い影。
反射鏡のように光る二つの眼…

ナギ

うわ、た、助けて……食べるんなら、しのちゃんの方が太ってておいしいよ!

しの

こらー!

…枝分かれした角のある、細長い首が見えた。
続いて、熊ではあり得ないしなやかな胴体が出てくるや、足早に線路を横切って反対側の森へ入っていく…
熊じゃなかった上に、見向きもされなかった。

ナギ

…しのちゃん。昔も、こういう見間違えした人がおってな…それで熊と鹿で、バカって読むんじゃよ

しの

読まん

幸い熊ではなかったが、もちろんナギも私もしばらく動けなかった。

しの

ナギのバカ!この先どうするんよ!冬だってスキー場の奥の方で人が熊に襲われたりするじゃろ!

おりしも、そういう事件が隣の県で起きたばかりだった。昔よりも冬が暖かくなって、冬眠の入りが遅くなっているとテレビでは言っていた。

しの

しかも、めっちゃ鼻が利く動物じゃけぇ、こっちが気づかんでも…

私が説明すると、さすがのナギも不安そうな顔を見せた。

ナギ

じゃあ…血の匂いとかしとったら、黙っとらんよな?

しの

当たり前じゃ!

ナギ

生理の、血とかでも?

しの

ナギ、あんたまさか…

ナギが黙ってうつむくのを見るや、私は彼女の腕を掴んで走り出した。
じゃりっ!じゃりっ!じゃりっ!…それでなくても歩きにくい上に、カーブを過ぎると勾配が一段とキツくなった。でも私は引き剥がすようにして重い足を上げ続ける。裂けそうな鼓動。呼吸が追いつかない。またもや視界が薄暗くなり、さらにそこへ強い風。風は殺意を感じるほど冷たくて、それこそ死にそうだったけれども私は我慢した。熊に襲われたら、死にそうじゃなくて本当に死ぬんだから…。
…そのまま、距離も時間も分からないぐらい走った。
気がつくと、ナギが何か叫んでいる。

ナギ

しのちゃん!聞いてってば!ウソじゃ、冗談じゃ!

しの

えぇ?!

全身の力が抜けていく。駆け足が歩きになり、斜めに線路から反れたかと思うと、体が崩れ落ちた。

ナギ

なあ、ホントにゴメン。じゃけぇ、そんな怒らんで

しの

言っていい冗談と、悪い冗談がある…

私は倒れたまま、線路脇で転がっている。半分はもちろん、彼女のしたことに対してふてくされている。

ナギ

しのちゃん、起きてよ。疲れたじゃろけど、こんなとこで寝ちゃったら死んじゃうよ!

疲れさせたのは、どこの誰だよ……揺すられれば揺すられるほど、私の気持ちはひねくれていく。
でも、それを抜きにしても、もう起き上がる気力が湧かなかった。
ただひたすらに眠くて、『死んじゃうよ!』と言われても、寒くも何ともないから現実味がない。ナギの呼ぶ声も、涙でぼやけつつある星空も、夢の中の出来事みたいにしか思えなかった…。

しの

…ん?

不意に、耳元でホルンが鳴った。

『ダニーボーイ』。私が最初に覚えて、今も指慣らしに使っている曲。

ナギ

しのちゃんが吹くの思い出して、時々真似しとるんよ。ふふっ、うまいじゃろ?

…音の外れ加減が、我慢ならなかった。

しの

…違うって!

寝そべったまま、私はケースを引き寄せて開く。手袋を外して楽器を持つと、上体を起こすことができた。リードを取り付け、目を閉じて息を吹き込む。感覚をなくしたはずの指が、ひとりでにキイを押さえていく………
ナギがホルンを吹き始めて、合奏になる。と、すぐに耳障りな不協和音が現れた。

しの

分かった?

ナギ

うん

目を閉じたまま最初から吹き直すと、ナギがついてくる。そして前と同じ場所を同じように外した。

しの

もう一回

ナギを止めて、三度目。また同じ場所で引っかかった上に、まるで変わってない…私はムッとして目を開き、彼女の顔を見やった。

ナギ

♪~

しの

……………

無心に演奏を続けるナギの顔が、青白い月の光に映し出されていた。
つぶった目があまりにも気持ちよさそうで、壊すにはあまりにも惜しかった。音が時々外れるなんて、どうでもよかった。
いつしか私も目をつぶって、ナギに合わせて続きを吹いていた。

しの

気持ちいい…楽器を吹くって、こんなに気持ちが良かったんだ

感覚を取り戻した体が寒さに悲鳴を上げていたけど、呼吸と指だけは、ホルンに誘われるまま演奏を続けていく…。

ナギ

ゴメン、手ぇ凍えてきた

やがてナギがそう言って、楽器を抱えたまま手に息を吐きかけた。私もあわてて楽器を離し、両手を上着の胸元に突っ込む…こんな寒さの中で眠ろうとしていた自分が思い出され、胸がドクドクと脈打った。
寒がりつつも、楽器を胸に抱くナギの顔はいつまでも得意げだ。

しの

ナギ。楽器吹くの、そんなに楽しい?

決して皮肉じゃなしに、私はそう聞いてみる。

ナギ

うん。ヘタなんは分かっとるけど、めっちゃ楽しい。こんな楽器吹かせてもらえるなんて、前は思ってもみなかったけぇ

幸せそうにニッコリと笑って、ナギは声を弾ませた。

しの

ふぅん…

…初めて音が出せた頃や、最初に曲が吹けるようになった頃は、私も楽器自体が楽しくて仕方なかった。だけど、それはその頃の思い出だ。今はそれよりも、曲をいくつも覚えて上手に吹けることの方が楽しいし、新しい曲の難しいところをクリアした時の方がグッと来る。

ナギ

上手じゃなくても、楽しいし、うれしい…

無邪気な微笑みのままナギはそう言って、それから目を開け、私を覗き込むようにして言葉を続ける。

ナギ

しのちゃん。今日だって、いろいろあったけど面白かったでしょ

しの

そうじゃな…

さんざんだったけど、それだけだったと言えばウソになる。
何はともあれ、子どもたちの役に立てたんだから。あの子たちは吹奏楽の生演奏なんかとは無縁な、食べてくだけで一杯一杯のかわいそうな暮らしをしてる…夕飯に呼ばれたおかげで、私はそれを実感できた。もし見ずに帰ってたら、
「演奏をぶち壊しにされた」
ということしか頭に残らなかっただろう…先に帰った三人は、そうとしか思ってないはずだ。

ナギ

なあ、またあのお家へ、吹いたり教えたりしに行かん?

私を覗き込んだまま、ナギはそんなことを言ってきた。

しの

あそこん家は、もういいよー

私は苦笑いしながら、そう答えて目を閉じる。役には立ったけど、それでも一度で十分だ。ただ、ナギは小さい子の相手が得意みたいだから、彼女がまた行きたがるのは分からないでもない。
そこで、強い風が吹いた。ナギが楽器をしまう音。

しの

……………

気力は回復し、危機感も元に戻っている。けれども私は、あえて座り込んだまま腰を上げない。

しの

もうちょっとだけ困らせて、こりごりだって思わせなきゃ…

元気づけてくれたことで帳消しになったけど、だからって二度とあんなことされちゃ困る。私は震えをこらえながら、ナギの『行こう』という声を待った。

しの

…あれ?

なのに、いつまで経っても声がかからない…
不安になってきたところで、風にかき消されそうな小声。

ナギ

ほら。しのちゃんが一生懸命走ってくれたけぇ、早く着いたよ。入ろ

しの

え?!

目を開けると、ずいぶん先にナギの後ろ姿が見えた。
後ろ姿の奥には蔦を這わせた石積みがそびえてて、その真ん中に、半円形の大きな穴が開いている………。
それが、山越えのトンネルだった。
その真っ暗な穴の高さは、優にナギの背丈の三倍以上はある。

しの

ちょっと待って!すぐ行くから待ってて!

私が叫んだのに、ナギは黙ってトンネルの中へ消えていく。もう困らせるどころの騒ぎじゃなかった。

しの

あんな遠くから…聞き漏らしたら置き去りじゃないの!やっぱり、許さないんだから…

サックスを片付けてケースを持ち上げると、私はナギを追って線路を駆ける。
足場は相変わらず悪くて、勾配はいよいよ厳しかったけど、私は真っ白な息を弾ませながら夢中でトンネルを目指した…

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