あれから私も子どもたちと遊んだりして、お寺を出たら七時半を回っていた。このあたりでは、もう中学生が出歩く時間じゃない。
すっかり遅くなっちゃったな…しのちゃん、お家大丈夫?
あれから私も子どもたちと遊んだりして、お寺を出たら七時半を回っていた。このあたりでは、もう中学生が出歩く時間じゃない。
うん、ご飯の前に電話したけぇ。ナギこそお母さんに電話したん?
電話は、充電が切れそうじゃけぇ…
電池、何本なん?
一本。たまに二本になるけど
それのどこが『切れそう』なんじゃ!さっさと電話せんかいっ!私なんかラスト一本が時々赤くなるけど余裕だったが!
足を止めて、ナギに電話をさせる。
…あ、もしもしお母ちゃん?
ナギは学校を出てからの出来事を最初から順番に話し始めた。ああじれったい。もしかして今日のこと親に言ってなかったのか?
…それでなお母ちゃん、ここだけの話な、ふふっ、しのちゃんたら今日、学校行く時に木の枝にスカート引っかけてパンツみんなに見せちゃったんよ…アホじゃろ?
雑談は帰ってから!おまけに『ここだけの話』になってない!
電話を切らせると、ふたたび底冷えのする道を駅へと進む。
道の両側には、黒っぽい板塀に囲まれた日本家屋が並んでいる。来た時にはすてきな町並みだと思ったけど、夜に通ってみるとなんだか恐い。
表通りに出て、風に凍えながら橋を渡ると、ようやく津山駅に着いた。
駅前広場はしいんとしてたけど、この時間になっても窓口が開いていて、改札に駅員さんがいる。四つの方向へ汽車が出る大きめの駅だけあって、ホッとするぐらい明るい。
あ、もう八時じゃん!しのちゃんがあんなとこで止まらせるからじゃよ!
誰のために止まってやったんじゃ!
お寺でナギがメモしてきた駅の時刻表によると、帰りの汽車は八時六分。最終じゃないけど、その次は一時間半も先だ。
私たちは券売機に飛びついて切符を買い、大急ぎで改札を抜けた。柵の向こうに線路とホームが見える。一両きりの汽車がエンジンの音を響かせて発車を待っていた。
あれ…かな?
きっとそうじゃ!急ご!
駅にはホームが二つあって、家の方へ行く汽車は、改札口に近い方のホームから出る。ナギの言うとおり、今見えている汽車がそれだろう。だったらまっすぐ駆けていきたいけど、地下道を回らなきゃいけないのがもどかしい…
そこで、発車メロディが聞こえ出した。私たちは大あわてで地下道に下りてホームへの階段を駆け上がり、すぐそばの汽車の窓明かりを目指す。
乗ったら逆方向だったりとか、せんよな?
大丈夫、家へ行く汽車な!
頭のてっぺんの結び目を揺らしながら、ナギが自信たっぷりに汽車を指差す。
私たちの帰る方角は東だ。そして汽車は西から駆けてくる私たちに赤いテールライトを見せている。おもちゃみたいな短い車体も、その車体がまとう暖色系の帯も、家のそばを通る汽車のそれだった。
よし、間違いない。そうと決まれば乗るっきゃない。額の汗が一瞬で冷やされて、顔が痛いぐらいに冷たかった。そんな寒空で一時間半待つなんて絶対嫌だ…
バタン。
飛び乗って、へたり込むように近くの長椅子に座ったところで、入口の折り戸が音を立てて閉じた。
ふはぁ…
汽車はちゃんと、帰る方角に向かって動き出した。
駅を抜け出し、闇の中を軽快に加速していく。暖房の心地よさが、じわじわと体に染み入ってくる。気がつくと、体中がくたくただった。
なあ、前行こ
ナギが立って、私の手を引く。前の方にはボックス席がある。頭の高さまである背もたれに寄りかかると、体がとても楽になった。長椅子のエリアには高校生が何人か座ってたけど、ボックス席は私たち二人だけ。個室にいるみたいで気分も和らぐ。
行きは座れもせんかったのに、夜はこんなに空いとるんだねー
ナギは斜め向かいに座るや、靴を脱いで背中をずり下げ、広げた両脚の先を私の横に投げ出した。
ちょっと、ナギ!
注意しようと思ったものの、ろれつが回らない。そして瞼がものすごく重たい………
急にリラックスしたせいか、真っ逆さまに落ちていくような眠気に私は襲われていた。でも勝間田までは二十分ぐらいしかない。
「寝ちゃ…寝ちゃダメだってば!」
そう思ってみても、もう頭が言うことを聞かなかった。早くも意識が飛び飛びになっている…。
着いたら起こしたげるけえ、寝とっていいよ
私を覗き込みながらナギが言った。パチリと開かれた目は、およそ眠気からは程遠い。
ありがと…
安心すると同時に、頭から最後の力が抜けていく。ジリリリン、キンコンキンコンキンコン…運転席のベルが聞こえて、ブレーキがかかるのを感じた。夢うつつに、まもなく次の駅だという自動放送……家まで、えーと…あと三つか………あ、携帯が床に落ちた……けど、ナギが拾ってくれて、る……………
なぁなぁ、しのちゃん
ん……?
揺り起こされると、そこにナギの顔があった。
それは当たり前だとして、ふと横目に入った車窓を見て私は驚いた。
どこよ、ここ?!
かなり上流らしい細々とした川の流れと、それを囲んでそびえ立つ針葉樹の山々が、丸い月にボンヤリと照らし出されていた。
山の上にはたくさんの星明かり。
かわりに、家の明かりが全く見当たらなかった。
…どう見ても、家の近くじゃなかった。私たちの町も田舎には違いないけど、山の中なんかじゃなくて、田んぼや畑が広がる平らな土地だ。それに、新しめの住宅が線路から見える場所に建ち並んでいる。都会から移ってきた大きな会社や工場で働く人々の家で、我が家もその一軒だった。
すぐ近所に、こんな大自然があったんじゃなあ…
なワケないじゃろ!ナギのアホっ!起こしたげるとか言っといて、結局ナギも寝ちゃったんでしょ!
寝てない!起きてたが!
ムキになって言い返すナギ。目はさっきと同じにパチリと輝いてて、たしかに寝起きだとは思えない。
じゃあ、なんでこんな山ん中に来るまで…
携帯に入っとったゲームが面白くてな、それで気がついたら…
このドアホーッ!おまけにそれ私の携帯な!
落としたの拾ったげたんよ!『ありがとう』は?!
……………
でも一体、どこへ来ちゃったんだろう…乗り過ごしたんだろうけど、でも勝間田から先にもこんな深い山奥はなかったはずだ。
乗り間違えか…
そこで私はようやく、津山から東へ向かう路線がもう一本あったのを思い出した。
乗った駅じゃなくて次の駅、つまり私が寝入ってしまった駅から北の方に分かれていく、謎の線路…汽車なんて友達だけで津山へ行く時に乗るだけだったし、その時もあのホームの汽車に乗れば家へ帰れていたから、すっかり忘れていた。
…川が、さらに細くなったような気がする。後ろの長椅子には誰一人座っていない。ギュイィィーン…というエンジンの唸りと、レールの継ぎ目を踏む音だけが車内に響き続けている。
…とにかく、次の駅で降りよ!
それで家に電話して車で迎えに来てもらうしかない、と、この時は思った。ナギもコクリとうなずいた。
しかし、なかなか次の駅に着く気配がない。町の明かりが見えてくるどころか、そのうちに森が迫ってきて外は真っ暗になった。カーブで速度を落とした車体に木の枝が触れて、バリバリという音が響く。
やだ…大丈夫なの?
やがてトンネルをくぐると、ふたたび景色が見えてきた。でも月にキラキラ光る川の流れは、さっきよりもずっと下の方に見えている。そういえばエンジンがあえぐように唸っているのに、スピードが上がらない……汽車は山を、ひたすら奥へ奥へと登り続けているのだった。
どこまで、連れてかれるんだろ…
たまらず身を乗り出して運転席の方を見る。ヘッドライトが照らす先にも人工の光はなく、真っ黒い森の間に線路が見え続けるだけだ。また急カーブで減速し、木の枝がバリバリ当たる。ひょっとして、このまま山のてっぺんまで登り詰めて、そこで降ろされちゃうんだろうか……もし、そこに道路がなかったら………
あっ、そうじゃ!
な、なによ?!
さっきのゲームどこで取ったん?私もほしい~
…思わず殴りかかりそうになったが、そこで前方に駅らしき蛍光灯の明かりが見えた。
とりあえず次で降りて、電話して迎えに来てもらうしか…
私はナギの手を引っ張って、ボックス席から立ち上がる。冷静に考えたら運転士さんに事情を話して対処方法を聞くへきだったけど、この時は気が動転していた。
私たちを降ろした汽車は、なおも山を奥へと登っていった。この先に、一体何があるというんだろう。
寒ぅ~!
うん、寒いな
マフラーを巻きながら真上を向くと、澄んだ星空が見えた。つまりホームには屋根もなかった。
月明かりが、野ざらしの駅名標を鈍く照らしている。
美作河井…もちろん、聞いたこともない。
ホームから見えるのは、魔物でも出てきそうな漆黒の密林。
そして反対側を振り向くと、やや距離を置いて木造の小さな駅舎が建っていた。待合室に蛍光灯が灯っているものの、人の気配はない。
そしてその駅舎の他に、人工的な光は一つも見えなかった。青白い月明かりが、谷を挟んだ向こうの山々を照らすだけ。
とりあえず、あっち行こ
駅舎を指しながら、ナギはそちらへ歩き出す。私にも異論はない。風は弱いながらも異様に冷たくて、むき出しの顔や手が寒さでちぎれそうだった。
十歩も歩かないうちにホームの端にたどり着く。真向かいに駅舎が見えるけど、階段もスロープもない。
ここを、下りるしかないみたいじゃな
ナギがピョンと跳んでホームを降りた。大丈夫かなと思ったけど、ホームのこちら側には線路がなくて、そして気軽に降りられるような高さしかなかった。だから私も降りて、茂った枯草の上へ足を踏み出した。
痛っ!
そこで何かに足を取られたかと思うと、転びざま、固い物体が脛に思い切り当たった。激痛が体を駆け抜け、呼吸が止まる。
あ。草の下に古い線路があるけえ、気ぃつけてな
前を歩いていたナギが思い出したようにボソッと言った。
最初に、言わんかい…
寒空の下だけに痛さは格別で、私は曲げた脚を押さえたまま起き上がれない。やがてナギが駆け戻ってくる足音を聞いて救いを覚えたものの…
しのちゃん!こんなとこで寝ちゃダメじゃあ。ほら、パンツ見えとるよ!
誰が寝るかー!…あたたっ
…脚を引きずりながらようやく駅舎に着くと、ちゃんとした通路がホームの別の場所から伸びてきていた。
エへッ!しのちゃんも私もアホじゃな!
なんで私が先なんじゃ!
待合室に入って、建て付けの悪い引き戸を内側から閉める。
ふぅ…
暖房もないし、寒くないといえばウソになるけど、外気から遮断された明るい空間は私たちを落ち着かせた。時計は八時半過ぎ。私たちは三十分ほど汽車に乗ってたことになる。
とにかく、電話電話
分かっとるって
携帯の画面を開くと、電波は十分に届いていた。私はお母さんの番号を呼び出し、電話機を耳に当てる。
もしもし、お母さん?……それがな、帰りに違う汽車に乗っちゃって……うんゴメン、次からは気をつけるけぇ。それでさ、今、えーと…
ホームで見てきた駅名を思い出そうとした瞬間、ブツリ、と通話が途切れた。
…やっぱ山の中だと、電波が不安定じゃな
かけ直そうと画面を見ると、電源が落ちている。あわてて電源ボタンを押す。無事に起動画面が点灯。
ビックリしたぁ…
が、そこで『充電が必要です!』という赤い文字が現れるや、ふたたび画面は真っ暗になった。
そして、二度と立ち上がらなくなった。
…お寺を出たとこで、電池マークはラスト一本。汽車はたぶん、圏外だろう山深い場所を長々と走ってきたはずだ。そしてその間、携帯は単に電源が入ってただけじゃなく、ずうっとナギがゲームを…
ナギぃぃ………!
あ!しのちゃん、私がお母ちゃんに電話するけぇ!な!
当たり前じゃ!
ナギが電話を取り出すのを見ながら、私は楽器のケースと一緒に木の長椅子へ座った。向こう脛がまだ、しみるように痛い。
もしもし、沙凪!あのな………え?そうなん!…ずる~い!!なんでお母ちゃんだけ……
雑談は帰ってから!
そうだった…でな、帰ろうとしたんじゃけど、乗る汽車間違えちゃってなぁ。うん、それで今な…
そこでナギは駅の名前をハッキリと伝えた。これでもう大丈夫だ。
…と、そこで急にうわずった大声。
えぇ!…おばあちゃん家が?ホント?!………そっか、そうなんじゃ、へーぇ!知らんかった!
本題に戻れっ!
ったく、ナギもナギだけど、お母さんもこんな時に雑談をしてくるなんて…
ナギのお母さんは働いてるから、遊びに行ってもあんまり話したことがない。けど、ナギの親とは思えないほど知的な感じのする美人で、大事な電話で雑談をするどころか、冗談一つ言いそうに見えないんだけど…。
…それでなお母ちゃん、しのちゃん家の車で迎えに来てもらいたくて………あれ?もしもし聞こえとる?もしもーし!
ナギはしばらく叫び続けた後、携帯を耳から離して画面を見る。瞳の色が暗くなった。
私のも、イッちゃった
ずいぶん減るの早くない?
古いんよ。お母ちゃんのお下がりじゃけぇ
でも、とにかく私たちの居場所は伝わった。時間がかかるかもしれないが、とにかく迎えは来る。
じゃけえ、もう大丈夫じゃ。ナギありがと!
…えーと、それがな……お母ちゃん、しのちゃん家の電話番号…たぶん知らん
電話がダメでもすぐ近所じゃろ。それに私ん家へ連絡できんでも、ナギん家の車が来てくれればいいだけだし
そら近所じゃし、車もあるけどな………
お母ちゃんもお父ちゃんも、今朝から大阪に行っとるんよ
ええ?!
じゃ…じゃあさっき、『これから帰る』いう電話しとったんは?
あれは、しのちゃんが『電話しろ』って言うけぇ。変なことさせよるなあ…って思ったんじゃけど
そんならそう言わんかい!
それより聞いてよ!お母ちゃんたちだけ明日USJに行きよるんよ!ずるいと思わん?!
思わんわっ!
私は立ち上がり、ナギを突きのけるようにして駅の外を目指した。扉の取っ手は飛び上がるほどに冷たくて、外気は冷凍庫の中みたいだった。
駅なんだから、きっと電話ボックスがあるはずだ。雑木林に囲まれた、舗装もされてない小さな駅前広場を見回す。
あった!
思わず歓声を上げて、私は電話ボックスの明かりに駆け寄った。
…でも明かりの下にあるはずの電話機は取り外されていて、季節外れの虫が舞っているだけだった。
引き返して元の長椅子へ腰掛けると、隣にナギが座ってきて、椅子の上で膝を抱えた。
しのちゃん、寒いなぁ
うん………
外よりマシだというだけで、決して暖かいわけじゃないのは来た時に分かっていた。
でも連絡手段が尽きたその瞬間から、寒さが急に身にしみてきた。乾き切って艶を失った木の壁。黄ばんだカーテンが下りた木造の窓口…太陽の下で見れば『ほどよい古び加減』なんだろうけど、夜、この状況でたたずむには心細い。
ただ、完全に帰れなくなったわけじゃないことを、ナギは見つけてくれていた。
ほら!戻る汽車があるじゃろ!
ナギが指差す壁の一角に、アクリル板に収められた時刻表があった。一日に上下六本ずつしかないのは驚きだったが、津山行きの欄に、小一時間後に汽車があることが記されていた。勝間田の駅にあるのと同じスタイルの、きちんとしたカラー印刷。昔のヤツだったというオチはなさそうだ。
ありがと、ナギ
精一杯の笑顔を作りって私はお礼を言った。でもナギは申し訳なさそうに下を向いて言葉を続ける。
それとな…メモしてきた帰りの汽車、八時六分ってヤツ……あれ、たしか〇分じゃった。ゴメンな
生徒手帳の汚い走り書きを見せられる。なるほど、0とも6とも読めた。つまりあの時、目的の汽車はすでに出ていて、さらに間の悪いことに、今乗ってきた汽車がその直後にあったのだ。
…まあ、私も悪かったけぇ
深呼吸してから私は答えた。
私にも落ち度がある………そう、ナギを信用したという落ち度だ。
ありがと…しのちゃんは優しいなぁ
私の真意をどこまで分かっているのか、ナギは甘えるように寄りかかってきた。三本の結び髪たちが私の頬や首筋に当たって、チクチクする。
…なんで、こんなアホみたいな髪型にこだわってるんだろ?
耳の上、その逆側の額の端、頭のてっぺんの少し斜め下。変な位置で短めに束ねた髪が、ぴょこぴょこと頭の輪郭から突き出ている。まるで頭に竹箒が三本、上下逆さに刺さっているみたいだ。
しかも私が知る限り、お風呂でもそのまま頭を洗って、寝る時も解かない。出会った頃は気にならなかったけど、小四ぐらいからは、さすがに変だと思えてきて、
アホみたいじゃから、やめよぉよ!
と何度も言ってきたのだが、
これじゃなきゃヤダ!
ナギはそう言い張るばかりで、中二になった今も結局このヘアスタイルのままだった。小柄で幼く見える外見のせいで『かわいい』と言う向きもあるけど、それもそろそろ限度だろう。第一、私が恥ずかしい。
下ろせばきっと、肩に届くかどうかぐらいの長さ。きれいなストレートの黒髪なんだから、下ろしたら絶対かわいいに違いないのに…。
な、なあ……いくら何でも、遅くない?
じゃなあ…
予定の時刻を十五分以上過ぎても、なぜか汽車は来なかった。
むなしく待合室に引き返してきた私たちの困惑をよそに、時間ばかりが静かに過ぎていく。
冬に汽車が遅れるといえば、雪だ。でも窓の外には、天の川がそれと分かるぐらいの見事な星空が見えている。星がないのは、くっきりと光る月のまわりだけだった。
じゃあ、風のせいか…いや。空気が低く鳴ってはいるけど、汽車が止まるような強風じゃない。
とはいえ風は、震えが止まらないほど冷たかった。それは今、こうして待合室の中にこもっていても嫌というほど分かる。
なぜ分かるのかというと…
あ、少しドアが開いとる。だから寒いんじゃ
…さっきナギがそう言って改札側の引き戸をガタガタさせた挙げ句、外してしまったからだ。
だから私たちは、背中を丸めて縮こまったままガクガク震えていた。
もし、このまま汽車が来なかったら……間違いなく凍え死ぬ
氷水みたいな空気。吐く息は真っ白。引き戸がなくなる前の寒さなんて、これに比べたら天国だった。
外にあるトイレへ行ったついでに、あたらめて周囲を眺めてみる。やはり人家らしき明かりは全くなくて、木立の間に見える細い下り坂には外灯が一つもない。実はその坂道を降りていけば小さな集落があったんだけど、そんな真っ暗な道を試しに降りてみようなんて、この時はとても思えなかった。
戻ってくると、改札の柵の向こうに、遠くを見つめるナギの姿が青白く照らし出されていた。
震えをこらえながら、その横に私も立ってみる。森から出てきた線路が鈍く光っているばかりで、そこに汽車が来る気配は一向にない。
…もはや、山で遭難したのと変わらなかった。
…汽車、ずうっと来ない気がする
私が言おうとしたことを、ナギが先回りした。
だとすると、とりあえず…
私たちは、壁に立て掛けてあった引き戸に駆けつけた。重たい戸板を二人でやっとこさ持ち上げて、必死に桟にはめ込もうとする。
でも、いくらやっても上下のどちらかが収まらない…さっきも二人でさんざん頑張ってダメだったんだから、無理もなかった。
疲れてきた私は小休止したくなって、ナギに声をかけ、引き戸の戸板を元どおりに壁に立て掛けた。が、立て掛けたそばからナギが、
やっぱり、もうちょっと頑張ろ!
と言うや、勝手に戸板を一人で持ち上げた。というか持ち上げる前に手を滑らせた。
うわぁ!
戸板が地面に叩きつけられ、大きな音とともに窓ガラスが粉々に割れた。
引き戸は、外気を防ぐことのできないタダの板になった。
……………
しのちゃん、ボーッとしとらんで頑張ろ!あきらめたら悪くなるばっかりじゃけぇ!
お前は自分のしたこと分かって言っとんのかー!
…ただ、動いたおかげで体は暖まった。
そうじゃ!雪!
弾む呼吸を整えていると、急にナギが叫んだ。
へ?……何言っとるん?雪なんか全然……
こっちの山の、向こう側
ナギは、汽車が来るはずの方角を指した。
線路を吸い込んでいる森が真っ黒い壁を作り、その森がそのまま高い山になって星空を狭めている。
山の向こうはな、冬に、雪がいーっぱい降るんじゃ。
この風…きっと向こう側は雪が降っとるよ。たぶん…すごい大雪で、それも吹雪!
壁のような黒い山を見たまま、ナギは自信たっぷりに言った。
なんで、そんなん分かるんじゃ?
さっきお母ちゃんに聞いたんだけど、山のすぐ向こうがな、おばあちゃんの住んどる村なんだって!
…私も小さい頃そこにおったけぇ、よう覚えとるんよ……そうだ。おばあちゃん家の行き帰りに、汽車がこんな駅を通ってた…
お母さんと電話した時に『おばあちゃん家が?!』って叫んでたのは、そういうことだったのか。
きっと吹雪で、汽車が止まっとるんじゃ…だとしたら、今夜はもう動かんよ
ホント?
うん。おばあちゃん家は線路のすぐそばなんだけど、吹雪いた日は汽車が来んかった…そらそうじゃな。降り出すと、二時間もせんうちに線路が埋もれちゃうけぇ
……………
星空や月明かりを見る限り、すぐ先で大雪が降っているなんて信じがたい。
でも、山を境にそういう変化があるということは、社会の時間に教わっていた。日本海から来た雲が山にぶつかって雪になり、乾いた冷たい風だけが太平洋側へ降りてくる。そして私たちの住むすぐ北側に気候を分ける山地があって、その向こう側は冬の初めから大雪だという。
ナギの話はそれに符合しているし、現に、氷みたいな風が山の方から吹いてきている…。
なあ!おばあちゃん家に行こ!
だしぬけにナギの大声。振り向くと、見開かれた両目が明るく輝いている。
えぇ?
山のあっちまで一駅だけ、線路を歩くんじゃ…ううん、一駅も歩かん。おばあちゃん家は駅よりずっと手前にあるけえ
発想のとんでもなさに、私は言葉を失った。
いくらその向こうに人里があるからって、この気温の中、山をさらに奥へ入るなんて自殺行為だ。しかも越えた先は吹雪だと、ナギが自分で言っていた。
…あのさぁ、どうせなら、市内へ戻る方へ一駅歩くとかさぁ…
一つ前の駅も山の中で、家なんか見えんかったよ。それで不安になって、しのちゃん起こしたんじゃもん
あ!ほら、ナギのお母さんが一一〇番してくれとるとか、調べて私ん家へ電話してくれとるとか…
『しのちゃん家の車で迎えに来てもらい』で切れちゃったけぇ、迎えに来てもらえてると思っとるよ
言われてよく思い出すと、たしかにそうだった。私の親が一一〇番してくれるとしても、私は居場所を親に伝えられていない。
でも、あんな真っ暗な山奥に向かって、歩いていくなんて…
…とにかく、私は山越えなんて嫌だし…
じゃあ、ここにずっとおるん?
ナギが、不安げな顔で私を覗き込む。
たしかに、このままこの駅にいても凍えるばかりで、ひょとしたら死んでしまうかもしれない。
かといって駅前から出ている真っ暗な下り坂を降りてみる気は、やっぱり起こらない。道自体が怖いのはもちろん、やっぱりその先に人家があるとは思えなかった。
しのちゃん。山を越えるって言ってもな、あの高さをそのまま越えるんじゃないよ。線路じゃけぇ登山みたいな急坂はないじゃろし、途中からはトンネルでな、その中は平らじゃ。風や雪も入って来ん
トンネルを、出た先は?
おばあちゃん家からトンネルの出口が見えよる。じゃけぇ降られても、ほんの少しの間じゃ!
…いちいち筋が通ってるけど、なにせ言ってるのがナギだから、私はなかなか踏み切れない。
本当に、この線路の先に、おばあちゃん家があるんじゃな?もし間違いじゃったら…
言ったんはお母ちゃんじゃけぇ。私のお母ちゃん、そんないい加減に見える?
ナギのお母さん…
スーツ姿で颯爽と出かけていく、細身の真面目そうなその女性を私は思い浮かべる。ちょっと神経質な感じはするけど、そのかわり、いい加減なことを言う人には絶対に見えない。
そして、ナギの田舎だというその場所に私は興味を抱き始めていた。
そこはナギの田舎だというだけじゃなくて、実は小学生の間に二回、ナギがそこへ引っ越すということで私たちは離れ離れになっていた。
とってもいいとこだよ、とナギは言っていた。
当時はそれ以上その話をすることはなかったけど、目の前だと聞くや、ナギの『故郷』を一度見てみたくなった。
…おばあちゃん家が留守、っていう可能性は?
まわりに家が何軒もあるけぇ、それが揃って留守なんてあり得ん!それに、みんな優しい人じゃし!
……………
トンネルの向こうに凍えずに済む場所が確実にあって、そして、そこ以外に凍えずに済みそうな場所はない…
ようやく、私も決心がついた。
待合室から荷物を持ってきて、手袋をはめてマフラーをきつく巻き直すと、私たちはホームに向かった。