しの

ぴょこぴょこ跳ねながら駆けていく相手を追って、私は真っ暗な穴に飛び込んでいた。穴は、とても長かった。もう地球の真ん中あたり、ううん、もうじき地球を突き抜けて、頭を下にして歩いてる人たちのところへ………

しの

なんて、二世紀前の小生意気な女の子みたいなこと言ってる場合じゃない。

第一、この穴は下じゃなくて真横に延びてるし、私も前へ向かってる。
それに私が追っかけてるのも、ぴょこぴょこ跳ねてるけど、例のウサギとはだいぶ違う。
頭の上で揺れているのは耳じゃなくて、上や横に向かって何本も突き出た不細工な結び髪。チョッキや上着を着てはいるけど、他に、小柄な割に長過ぎなマフラーが首にぐるぐる巻きついている。時計も金の懐中時計なんかじゃなくて、たぶん千円ぐらいの安っちい腕時計だ。

しの

ナギぃー、待ってってば!
そんなに早く歩かないでよ!

私は、前を歩くその生き物に向かって叫ぶ。自分の声が、暗闇の中にこだまする。

ナギ

あ、しのちゃんゴメン

子どもじみた高い声を返して、ナギは飛び跳ねるような小走りをやめた。枕木だけを踏んでいたリズミカルな足音が、じゃりっ、じゃりっ、という音に変わる。
足の痛みをこらえて大股で歩いていた私は、やれやれと歩幅を元に戻した。ずり落ちかけてた眼鏡を直す。
ナギの背中まで、たったの十メートルぐらい。なのに私の目には、彼女の小柄なシルエットが辛うじて見えるだけだ。それぐらいにトンネルの中は真っ暗だった。

しの

なぁ、出口まだなん?

このトンネルだけで、もう三、四十分。
その前を含めると、かれこれ二時間近く、私たちは二本のレールの間を歩き続けている。

ナギ

もうすぐじゃけぇ、大丈夫大丈夫

しの

さっきもその前も『もうすぐ』って言ってたじゃろが!
マジな話、一体あどれぐらいな?

ナギ

えーっとなぁ………あ!

しの

ん?

ナギ

なあ。小さい頃にな、汽車でトンネルへ入るたんびに、息止めて頭の中で、いーち、にーい、さーん、て数えんかった?…自慢じゃないけど私な、四歳ん時にもう百まで数えられたんよ!エヘッ!

…だからどうしたの?
こめかみを震わせつつ、私はそう叫びたいのを飲み込む。

ナギ

けどこのトンネルはな、百まで三回数えてもまだまだ続きよるけぇ、やになって私、泣いちゃったんよ

しの

めっちゃ長いが!ぜんぜん『もうすぐ』じゃないし!

でも、もう戻るには遠すぎた。
それに今は、ナギについていく以外に助かる方法はないのだ。
ぐったりと頭を垂れて腕時計のバックライトを点けると、本当なら家でお風呂に入っている頃だった。

しの

お風呂か…

湯船に浸かって体を伸ばす感触を思い出すと、嗚咽がこみ上げてきそうになった。

寒さは、さっき森の中を歩いてた時よりずっと楽だけど、膝上までソックスに守られているはずの脚はまだ冷え切ったままだった。
砂利の上を歩き続けてきたせいで、足の裏が悲鳴を上げている。アルトサックスのケースを持ったままの左手はしびれ、さっき転んでレールにぶつけた右腕がじんじんと痛む。
そして、はらわたが絞られるような空腹。

かたや、十数メートル先をゆくナギは元気そのものらしい。
横や斜めに突き出た三本の結び髪が、かすかに見えるシルエットのてっぺんで楽しげに揺れている。砂利を踏む足音は軽やかで、マーチのリズムを聞いてるみたいだった。

でも、その元気さに私が励まされず、むしろイラついてさえいるのは…
ヤツが、この悲惨な状況を作った張本人だからだ。

しの

今度だけは、絶対に許さないんだから…

六つの時に、同じ町へ越してきた同士。
それ以来ナギと行動を共にするたびに、私は彼女が起こすトラブルに巻き込まれてきた。溝に落ちたり学校に遅刻したり、はたまた蜂の大群に追われたり…
ただ、彼女に悪気はないのが伝わってくるから、結局いつも苦笑いで済ませてきた。

…でも、今回はあまりにもひどすぎる。
今から三時間あまり前、津山で汽車に乗って以来のナギの行動は、ヘタをすれば命にかかわることばかりだった。
挙げ句にこうして山の中を線路沿いに何時間も歩く羽目になり、その道中でもさんざんな目に遭わされてきた…

…と、ナギの足音がまた速まった。
枕木から次の枕木へ飛び移るみたいに、結構なハイペースでぴょこぴょこと跳んで歩くナギ。ヤツにもホルンという荷物があるはずだけど、いつもケースごとザックに入れて背負ってるから身軽そのものだった。

しの

ナギ、待ってってば!走るな言うとるじゃろ!

ナギは惜しむような気配とともに軽やかなステップを止めて、また普通の歩幅でレールの間を進む。
ため息をついてから、私もその十メートルほど後ろを歩いていく。

闇の中に、ナギと私の足音が響く。
時々、落ちてきた水滴がビシッと砂利を叩く。
それともう一つ、
「シュン、シュン、シュン…」
というとても小さな音が、私の耳に届いてくる。

しの

なんだろ?この音

湯気が漏れ出す音…違う。
金属が擦れ合う音…でもない。
音の正体どころか、音源の距離や方角も分からない。

でも、とにかくトンネルに入った頃から、ふと気づくと
「シュン、シュン、シュン…」
というその音は聞こえていた。
はじめは汽車が向かってくる音かと思って焦ったけど、何度も聞こえたり止んだりするばかりで、何も現れなかった。

しの

一体、何の音だろう………

ナギに尋ねてみようと何度か思ったものの、音はあまりにもかすかで、彼女もそれを聞いているという自信が持てなかった…

話はいったん、今日のお昼すぎに戻る。

放課後に、勝間田の駅から汽車に乗って、津山の街中にあるお寺まで演奏をしに行った。
メンバーは私とナギと、同じ吹奏楽部の三人の子たち。
そのお寺の住職さん夫妻は、里親…つまり、親がいないとか、いろんな事情で家で暮らせない子どもたちを預かって育てる仕事をしている。
私たちはそこへ、ボランティアでミニコンサートをしに行った。

私が通う中学には
「ふれあいの時間」
という授業があって、二年生全員が二学期に、五人の班でどこかを訪ねてボランティアをしなければならない。
同じクラスの吹奏楽部員からなる私たちの班はミニコンサートをすることに決め、意気揚々と選曲や練習を始めたものの、訪問先の割り当てからあぶれ続けていた。
二学期中にどこへも行かなかった人は、冬休みに町内のゴミ拾いを丸一日させられるらしい…
私たちは焦り始めてたけど、なぜかそれ以上に担任の先生は焦っていた。

担任

なあ。コンサートにばっかこだわらんで、他のことも考えてや。頼むで!
たとえば…あ、ゴミ拾いじゃったら頼める先がいくつかあるけぇ、な!

しの

おい………

ところが十二月に入ってから急に、お寺へ演奏しに行く話が飛び込んできた。

しの

やったー!

担任

無理にお願いして見つけた相手先じゃけぇ、くれぐれも、失礼のないようにな!

はぁーい!

私たちは大いに喜んだ。
ゴミ拾いじゃなくて、好きな演奏でボランティアができる。「里親をしている家」というのがどんなだか想像もつかなくて少し不安だったけど、とにかく、必死に曲を探して大急ぎでアレンジして、一生懸命練習して…という今までの苦労が無駄にならないで済む…

ただ、ナギだけは違っていた。

ナギ

…しのちゃん。
どうしても、演奏しに行かんといかんの?

私と二人だけの時に、彼女はとても不安そうな顔で、気乗りしないことを告げてきた。
耳の上や脳天からいくつも突き出た結び髪が、垂れ下がり気味に見えた。行き先が決まるまでの間、演奏に行くのを一番楽しみにしてたのはナギだったのに…少なくとも私にはそう見えてたから、ちょっと意外だった。
でも、私はすぐに嫌がる理由の見当がついた。

しの

ふふっ、大丈夫な。コンクールや定期演奏会じゃないけえ、ミスっても心配いらんて!な!

ナギ

……………

ナギは、早い話がものすごくヘタクソだった。
本番や全体練習の時、サックスの右端の私はホルンの左端のナギと隣同士になる仲だけど、ナギは時々とんでもない音程を平気で吹く。そのくせ曲調と無関係に息が人一倍強くて、違うパートの私が釣られそうになるぐらいだから、同じパートはたまらないだろう。ナギ以外のホルンは全員おとなしい一年生の男子だったから、文句を言いたくても言えないだけだった。

しの

そこは『ド』じゃろ!ナギが吹いとるのは『ミ』!

ナギ

え…『ド』なん?

しの

譜面見たら分かるじゃろぉ!

ナギ

…分からん

あっさりとナギは私に言った。彼女は楽譜が全く読めなかった。

しの

これじゃ、音外して当たり前じゃあ…

手を替え品を替えて読み方を教えてみたけどナギはぜんぜん覚える気配がなくて、結局、音程が外れているという自覚を彼女に持たせるのがやっとだった。
あとは、
「スカす」
…つまり、無理そうな場所をこっそり吹かずにやり過ごすテクニックを教えたけど、それすらナギはあまりしてくれずに、相変わらずズッコケたくなるような音を平気で出し続けていた…

しの

…そんなナギが、『これじゃ恥ずかしい』って思うようになってきたんだ…!

その時は、そうとしか思えなかった。
だから、むしろ私はうれしかった。
正直、最初は『調子が狂うからナギを入れたくない』という空気もメンバーの中にあって、それをどうにかここまで持ってきたのは私だ。ナギを不安がらせるのは本意じゃないけど、そのぐらいの気持ちは持ってくれなきゃ私の立場がない…

…で、終業式のちょうど一週間前の今日が、そのお寺で演奏する日だった。
学校の用事だから、親の車じゃなくて汽車に乗る。
それも珍しくて、私たちは意気揚々と津山に出かけたんだけど…

しの

こんなとこで楽器吹いて…大丈夫なの?

お堂の隣に建つ、木造の二階建て。
会場になった部屋は、私の家のリビングより少し広いだけの、ただの居間だった。しかも窓のすぐ先に、隣や裏手の家が見えている。
そこに、上は小学校の高学年ぐらいから下は三歳ぐらいの小さい子まで、十人近くの子どもが集まっていた。
対するこちらのレパートリーは、半世紀前のジャズやポップスのヒットナンバー。老人ホームみたいな場所を考えてばかりいたせいだ。

住職さん

さあ。今日は勝間田から、中学のブラスバンドのお姉さんたちにわざわざ来てもらいました。素敵な楽器から出る素敵な音を、みんなで楽しみましょう

白髪混じりの優しそうな住職さんが私たちを紹介すると、子どもたちが一斉に挨拶してきた。
先生の長い挨拶、そして班長である私の一言が終わって、いよいよ本番。
オープニングは、私のソロで始まるジャズの名曲。
譜面を開きながらリードに口を当て、ふと視線を斜めへ振ると、楽器に目を輝かせた小さい子が至近距離に二、三人。

しの

…うれしいけど、そんな近くで聞いたら驚くよ

そう思って私はいくらか弱めに出だしを吹いたのだが、それでも小さい子たちは驚いて飛びのき、泣きそうな顔になった。

しの

まずい!

あわててさらに息を絞り、テンポも落とす。
出だしのソロを吹く私がそれだから、続く他のメンバーたちも忍び足みたいな演奏になる。
たぶん世界一陰気でスローな『イン・ザ・ムード』。

…いや、空気を読めないパートが一人だけいた。
ホルンだけが、これでもかというぐらい力強く天井を震わせている…あっ、また外した。

しの

ちょっと、ナギ!

ギュッと目をつぶり、真っ赤な顔で必死に吹きまくるナギを、私は肘で思いきり小突いてにらみつける。ホルンの音量が少しだけ絞られたような気がしたが、でも、さっき驚いた子どもたちの一人がついに泣き出した。
泣き叫ぶその子を誰かが連れ出し、演奏は続けられる。チラリと隣を見ると、ナギの浮かない顔が目に入った。

ナギ

……………

しの

ちょっと強く言い過ぎちゃったかな…?

…とにかくどうにか一曲吹き終えて、パラパラと鳴る拍手に私たちは顔を上げた。

しの

……………

後ろの方に座る小学四、五年ぐらいの男の子と女の子が手を叩いてたけど、でも顔が明らかに楽しそうじゃなかった。
残りの幼い子たちは、進行と無関係に駆け回ったり寝そべったりしている。
人の良さそうな住職さんは拍手しながらニコニコ笑うだけで、駆け回る子たちを止めようともしない。
そして廊下から響いてくる泣き声は、いつの間にか三人分に増えていた…。

ナギ

あーあ、泣いちゃった

しの

お前が泣かせたんじゃろ!

…でも、ナギの音だけが原因だとは言えなかったし、だから私は次の曲をどう始めたものか迷ってしまった。裸で人前に立っているような頼りない気分が、私を包む。

しの

ねぇ、なんかフォローしてよ!

たまらず私が副班長の子に目くばせすると、

トロンボーンの子

しの班長でしょ!頑張ってよ!

向こうも同じ目でこっちを見つめてきた。
じゃあ担任の先生はというと、

担任

えー………あのー………

オロオロした顔で住職さんと私たちとを交互にうかがうばかり…。

すると突然、隣で楽器が鳴った。
振り向くと、ナギが桃色の唇を懸命にゆがめて、どっかで聞き覚えのあるメロディーをホルンから絞り出している。

子どもたち

あ!『ドラえもん』じゃ!

五つぐらいの子どもが指差して叫んだ直後、ナギの音が甲高く外れた。満場の笑い声。
トランペットの子が、楽器から外していたマウスピースでとっさに後を引き継ぐ。吹き口だけでメロディーが奏でられることに息を呑む少女。音が面白いのか、踊るような足取りで駆け寄ってくる小さい子…。

子どもたち

キャハハハッ!

子どもたち

おもちろ~い!

こうして、なんとか場は持った。
けど会はそのまま、楽器を使った一発芸の発表会になってしまった。

ナギ

うんっ!

ぷぅ~~~う!

子どもたち

ギャハハハハハ!

身振りと楽器でオナラの真似をするナギに、子どもたちが沸きに沸く。幼稚な男子たちが練習の合間にふざけてやってるバカな遊びと変わらない。

子どもたち

ねー!お姉ちゃんたちもアレ、やってよー!

子どもたちは私たちにも何かやるように迫ってきて、私たちも流しの豆腐屋やラーメン屋の真似を演じ続ける羽目になった。
一人だけとても楽しそうなナギに、私を含む残り四人は憎しみの視線を集める。子どもと一緒になって公演をぶち壊した張本人。しかも、あんたが吹けるように曲をアレンジするのに、どれほど苦労したと思ってるんだ………

子どもたち

わたちも、吹く~

と、幼い女の子がナギに歩み寄ってきた。

ナギ

ん、吹きたいか?

目を合わせて笑顔で答えながら、ナギは吹き口を女の子に差し出す。女の子はマウスピースを奥までくわえ込んでしまい、バルブを全部押さえながら必死に息を送る。もちろん音は鳴らない。

ナギ

ふふっ。まずはな、口の当て方が違うんじゃ

ナギは楽器を自分の手元に戻すと、女の子の唾で輝くマウスピースに唇を当て、フォン、と柔らかい音を出してみせた。そして女の子の口にマウスピースをあてがい、唇の形を見せて真似させようとする…
と、そこで彼女は、何かに気づいたように周囲を見渡した。

ナギ

あ…みんなも楽器吹きたいんか?

さも気軽な口調で、他の子たちに呼びかけるナギ。

子どもたち

吹くー

子どもたち

僕もー

子どもたちが、たちまち私たちのところへ集まってきた。

しの

え?!

ちょ、ちょっと…

私の前へ来たのは真面目そうな女の子一人だったけれど、トランペットやフルートはあっという間に二、三人に囲まれてしまう。
よちよち歩きの子がトロンボーンに目を輝かす。目当てはもちろん、前後に大きく動かせるスライドだ…。
メンバーの誰もが、焦った。キイやバルブが壊れたり奥の方へ唾が入ったりしたら、万単位の出費になる。親に怒られること請け合いで、その間練習もできない。
ひとりナギだけが、女の子を抱きかかえてホルンを好きに触らせている。犠牲を厭わぬ美しい心の持ち主…と言いたいとことだが、彼女は手先だけは器用で、楽器の分解掃除を自分でできてしまうのだった。

住職さん

こらこら。高い楽器じゃけぇ…

ようやく住職さんが、子どもたちを注意し出した。
と思ったら…

住職さん

…大事に触らせてもらうんじゃぞ

子どもたち

はーい!

…もはや、ダメだとは言えなかった。このクソ坊主。そしてナギ。
住職さんが見ていることもあって、子どもたちもそう無茶はしなかった。
けど、好き勝手にいじり回されるのはやっぱり怖いから、なんとか「楽器教室」という形に持ち込んだ。

トロンボーンの子

な。今からお姉ちゃんがする口の形を見て、真似するんよ

そう簡単に音が出るものじゃないと知りつつ、子どもの前で唇の形を作ってみせる。

子どもたち

ギャハハハハ、変な顔~!姉ちゃんアホじゃあ~!

笑いながらバカにしてくる男の子を相手に、トロンボーンの子がプルプル震えている…お願い、耐えて。

子どもたち

さっきのあの人みたく、お手本見せてください

私が相手を務める少女が、ナギを指差しながらサックスを向けてきた。もちろんリードは少女の唾液でテラテラと光っている………悪気がないのは分かるけど、こういうのは生理的に苦手だ。

トランペットの子

きゃあっ!唾入れちゃダメ!

叫びながら楽器を取り上げるトランペットの子。もちろん、取り上げられて泣く子どもにも悪気はない。

フルートの子

……………………

フルートの子に至っては言葉すらなく、半べそをかく寸前だった。音楽室のスリッパを一組、自分専用にしている潔癖性。唾どころか、キイに人の指紋が付くだけでたまらない気分だろう。

やり出しっぺのナギだけは、相変わらず平気で吹かせたり触らせたりしている。ピリピリしている私たちを気遣う気配もない…というか、ピリピリしていることすら気づいてないはずだ。
と、そのナギが懸命に教えていた女の子が、一瞬だけホルンを小さく鳴らした。

子どもたち

うわすげー!

子どもたち

私も吹きたーい

…やっとサックスに飽き始めてくれていた私の前の少女も、ふたたび熱を取り戻してしまった。

しの

ナギのアホ…ドアホ……あんたのせいで……

やがて、帰る時間になった。
子どもたちに見送られて外へ出ると、日はほとんど暮れていた。この土地特有の底冷えが膝を冷やし、肌を裂くような北風が顔をなでる。

ナギ

あ、しのちゃんと私は買い物していくけぇ。みんな先に帰っていいよ

門を出たところで、ナギが私以外の三人に向かって呼びかけた。

しの

え?

私は、ナギと買い物の約束なんてしてない。

しの

ちょっと、どういうこと?

ナギ

いいから、そういうことにして

茶色の両眼が私を見上げて、私の袖をギュッと引いた。それからすぐに残り三人の方を向き直る。

ナギ

じゃあね。さよならー

しの

お疲れ。じゃあまたー

トランペットの子

お先にー。また明日

トロンボーンの子

明日土曜だし。また来週ー

トランペットの子

そうだった。とにかくバイバーイ

それが済むと彼女たち三人は、そそくさと駅の方へ歩いていった。
三人も私と同じく、せっかくの演目が無駄になったことや楽器を触られまくったことに不満を感じてるはずだ。
それでもトランペットとトロンボーンの二人は、

トロンボーンの子

まあ、しょうがないな。お疲れ!

と慰めてくれたけど、

フルートの子

……………

フルートの子は始終無言だった上に、最後に刃物のような眼差しでナギをにらみつけていた。休み明けにどう声をかけるか考えると、頭が痛い。

担任

じゃあ、気をつけて帰ってな!さようなら!

遅れて出てきた先生は笑顔でそう言ってから、いそいそと車に乗り込んで私の前から走り去った。盛り上がったから大成功だと信じてるんだろう。ホントに調子のいい先生だ。

ナギ

しのちゃん、あのな…

澄んだ、でも自信のなさそうな小声が耳元で響く。

しの

ん?

振り向くとナギが、まん丸いはずの目を心細そうにゆがめていた。うつむきがちにしているせいで、額の端でゆわいた彼女の髪がチクチク触れてくる。細くて短い指が、弱々しく私の袖をつまむ…
いつも人の意向なんかお構いなしに動き出すナギが、こんな態度を取るなんて珍しい。

ナギ

実はな、ここの住職さんと奥さんから、晩ご飯に誘われとるんじゃ。でもな…一人じゃ淋しいけぇ、しのちゃんもって言ったら、「ぜひどうぞ!」って…

しの

……………

悪い気は、しなかった。
予定は台無しになったし、自分の楽器を人にくわえさせるのも嫌だったけれど、喜ばれて、それで場が持ったこと自体は、実はちょっとうれしかった。
そして喜ばれるのも無理はなくて、私が飽きるほど吹いたり触ったりしているサックスも、さっきの女の子にすれば、めったに目にすらできない物かもしれない…
いや、きっとそうだ。きっと親から捨てられるとかして、こんな粗末な家で大勢で暮らしてるんだもの。
かわいそうな子たち…今日ぐらいは、ナギと二人でもう少しいてあげて、サックスやホルンを教えてあげてもいいかな…。

しの

うん、いいよ

ナギ

やった!しのちゃん、ありがとな!

古い二階屋の前で待つ子どもたちの方へ、私たちは戻っていった。

子どもたちが食器を運ぶのを少し手伝って、それから夕食になった。

住職さん

いただきます!

子どもたち

いただきまーす!

手を合わて、全員揃って食前の挨拶。
そして食事が始まった。
手元にあるのはご飯と取り皿だけで、おかずは全部真ん中で鉢に盛られている。

しの

……………

座卓をいくつも並べた居間に、いろんな年の子どもが十人以上集まっていた。
思いのほか行儀が良くて、おしゃべりや取り合いなどはしないけど、それでも、箸やスプーンの音だけで十分に騒がしい。おしゃべりしないのも、よく見ると行儀のせいじゃなくて、食べるのに夢中でしゃべれないのだった。
とにかく子どもたちの人数と食欲とに、私は最初から圧倒されていた。

住職さん

東山さん。今日はありがとう。

住職さんが、私のコップにお茶を注ぎ足しながら話しかけてきた。私の名前は東山志乃という。

住職さん

でも大変だったじゃろう?

しの

いえ、楽しかったです

住職さん

いやいや、無理せんでいいけぇ…それより、食べんさい

笑う住職さんの手で、大きな鉢に盛ったカボチャと挽肉の煮物が、私の取り皿へ。

しの

あ、はい…いただきます

うまみと甘辛さが、じわっと口に広がる。抑え込まれていた食欲が目を覚まし、私はご飯に箸をつけた。

住職さん

あんたは、一人っ子かな?

しの

は、はい

住職さん

ハハハ、びっくりしたじゃろ

そのとおりだった。
人数もそうだし、私の家では、おかずは全部一人ずつ盛り分けられている。もちろん大皿から取って食べるぐらいは見れば分かるけど、ひっきりなしに箸が伸びてくるので勇気がいった。
隣を見ると、ナギもどこかオドオドしていた。時々私の顔をうかがっては、五目豆を一粒ずつ、すぼめた口に運んでいる。人目も気にせずリスみたいに口一杯に頬張って、あっという間に食べ終える昼休みの彼女とは大違いだ。

住職さん

それにしても…

住職さんは思い出したように子どもたちを見渡し、そして一段と細めた目で私を向き直ると、

住職さん

楽器を触らせるっちゅう企画、よう考えてきてくれたなぁ…子どもらが、あんなに楽しそうにするのは久しぶりじゃった。ホントにありがとう

しみじみとそう言って、白髪混じりの頭を丁寧に、本当に丁寧に下げてきた。

しの

いえあの、そんな…

もちろん予定してきた企画なんかじゃない。けど、いいことしたんだ…という充足感が、さっきの煮物のおいしさみたいに、じわーっと頭に広がっていく。

しの

……………

でもやっぱり、何ヶ月も準備してきた曲が無駄になったのは虚しかった。
楽器を持ってきて子どもと遊ぶだけなら、誰にだってできる…いや、できたって二度とゴメンだ。自分のサックスや、それに他の子の楽器が無事かどうかが心配になってきた。特にフルートにもし何かあったら、あの子とナギや私の人間関係が修復不能になる…。
と、そんな胸の中を見透かしたようなタイミングで、住職さんが口を開く。

住職さん

なぁに、あれぐらいで壊れたり錆びたりゃせんて。楽器ちゅうのはああ見えて結構丈夫じゃけぇ…ま、ワシも部活でトランペット吹いとったけぇ、心配なんは分かるけどな!

いたずらをした少年みたいな目が、笑って私を覗き込んでいた。

しの

このクソ坊主…分かっててわざとやらせたんか…

もちろん、口には出せない。

住職さん

沙凪ちゃんも、ありがとうな

住職さんは優しげな表情に戻り、ナギの方を向く。
ナギが本名で呼ばれるのを久しぶりに聞いた。

ナギ

あ、はい

住職さん

ホルン、上手じゃったぞ

いかにも心のこもった声音と、将来を楽しみにするような眼差し。あんた耳おかしいのか?

住職さん

…それと、あの子にホルン教えてくれて、ありがとな

ナギ

ううん…私は、ホルンを貸したげただけ、です

はにかみながら、下を向くナギ。彼女も一人っ子だから、この場が落ち着かないんだろう。ふと座卓の下を見ると、いつも平気でアグラや立て膝をする脚が、制服のスカートの下できちんと正座していた。こんなナギ、めったに見られるもんじゃない。

赤ちゃん

だー

と、よちよち歩きの子がナギの肩に手を突くや、いきなり彼女の結び髪の一つをギュッと引っ張った。
おまけに小さな両手はカボチャまみれで、ナギの髪と制服がべったりと汚れた。

ナギ

お、こんばんはあ…けど、ご飯の途中で遊びに来ちゃダメじゃ

でも、ナギは構わずその子をあやしながら、布巾を取って、子どもの手を丁寧に拭く。斜向かいで別の子に食事をさせていた奥さんが立ち上がりかけたものの、ナギの対応を見るや、安心したように座り直す。
…あたりを見回すと、わりかし年長の子は全員ナギみたいに、幼い子の面倒を見ていた。
私と同い年ぐらいの女の子が、噛み砕いたご飯をスプーンに出しては、慣れた手つきで赤ちゃんに食べさせている。食べたい盛りだろう男の子が自分の食事もそこそこに、むずかる子ども相手に悪戦苦闘する…。

しの

なんか、あり得ない……

自分の暮らしとは、無縁な世界。いつの間にか食卓がにぎやかになってたのは、そうやって小さい子をみんなで見ているせいだった。
その中から十歳ぐらいの少年が一人、こちらへやって来る…

しの

………!

一瞬目をそむけてから、私は目をそむけた自分を恥じた。
つぶらな瞳の、かわいい男の子。
しかしその色白の顔のそこかしこに、溶けて変形したような赤黒い皮膚がボツリボツリと盛り上がっていた。火傷の跡らしかった。

少年

ゴメンな、大丈夫か姉ちゃん?

その少年はナギに声を掛けて、遊びに来てた子を引き取ろうとする。 

ナギ

うん大丈夫な。それよりこの子もう、ごちそうさまじゃろ

ナギは平然と答えながら子どもを引き渡し、それからようやく、裏返した布巾で自分の汚れを拭き始める。

しの

…さっきの楽器教室といい、ナギ、子どもの相手めっちゃ上手だ。それによく我慢できるなあ…

彼女の一連の動きに、私は感心するばかりだった。
もし自分が汚い手で制服を掴まれたりしたら、あやすどころか、ビックリして子どもを突き飛ばしてしまいそうだ。それに、あの火傷の男の子を目にしても、まるで前から見慣れてるみたいに…
これってもしかして、ナギの隠れた才能なんじゃ………

ナギ

しのちゃん、これおいしいよ!

そこでナギが、私に何かを握らせた。

しの

ぎゃあっ!

ぬるっとした感触に驚いて手元を見ると、茶色い煮汁だらけのナギの手が、骨つきの鶏肉を私の手に押しつけている。顔を見ると、口のまわりも煮汁だらけ。

しの

手に持たせんでもいいじゃろ!

ナギ

だって、これ手で食べるもんじゃけぇ

澄んだ茶色の瞳には、「おいしいから食べなよ!」という無邪気な好意だけが充ち満ちていた。

しの

…やっぱり絶対、才能なんかじゃない!頭の中が小さい子と一緒なせいで小さい子と仲良くできるだけじゃ!

必死に手を拭く私に構わず、ナギはふたたび近寄ってきた幼い子を胸に抱いて歌う。

ナギ

♪ゲンコツ山のー、タヌキさんー、おっぱい飲んでー、ねんねしてー…

いつの間にか席を外していた住職さんが、私たちの向かい側へ戻ってきた。
優しく、そして頼もしげに目を細めて、住職さんは子どもと歌うナギをじいっと見つめる………
…もしかして、あんたも「才能がある」とか思っとるの?
あのさ、初めて会うからそう見えるんだろうけど、ナギにココの仕事の手伝いなんかさせたら大変なことになるよ?

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