スマフォを片手にマンションを出る。
 僕に電話を掛けた時点で恐らく車を回していたのだろう。マンションの前には車が止めてあり、東雲がその前で待っていた。

神城 鋭

あーあ。笹宮さんに挨拶できなかったな。
今度埋め合わせしないと。

 一応帰る前に部屋の扉はノックしたのだが無反応だった。さすがの集中力。こちらからけしかけた以上、無理に部屋に押し入るわけにもいかず……まぁ、冥にはよろしく言っておいたので今回の所はそれで勘弁してもらおう。

東雲 和真

お疲れ様です、神城様。
急にお呼び出しして申し訳ございません

 僕は謝罪なんて欲していない。
 そして、東雲がイリスを殺れなかったとしてもそれもまた仕方のない事だ。不可能な事を強制する程不毛な事はない。

 そもそも、仮に何とか殺れたところで生きて脱出するのは難しいだろう。お嬢様は馬鹿でもGEMの組織としての巨大さは疑いようもなく、容赦の無さもまた疑いようはない。
 いや、容赦がなかったからこそ、GEMは巨大組織に成長できたのだ。

 東雲に視線を向けると、僕の意図を察して後部座席のドアを開けた。対戦車砲でも耐え切れる特殊構造の送迎車だ。笹宮さんとの出会いの後、すぐに研究させた特注品。

 これから赴く先は間違いなく戦場である。命と金は天秤に掛けられない。以前までは余裕で掛けられたのだが、今の僕には守るべきものができてしまった。
 そう。やっと人生面白くなってきた所なのだから。

神城 鋭

謝罪は不要だ。東雲の責任じゃないよ、これは。
あのお嬢様の命とお前の命を天秤にかけるつもりもない

東雲 和真

はっ

 言葉短に返事をする東雲を傍目に車に乗り込む。

 広々とした後部座席。座席に座るやいなや、荷物からモバイルパソコンを取り出し、膝の上に置いた

神城 鋭

東雲、酒だ

東雲 和真

イリス様と会われるのでは?

神城 鋭

素面でやってられるか。
大丈夫、瓶で後頭部を殴ったりはしないよ

 取るならもっと確実な方法を取る。証拠も残さない。
 座席の一部が変形し、小さなテーブルがせり出してくる。防音防弾は完璧だ。駆動音も外界の煩わさも車内までは入ってこない。乗る者の安全性と快適性を追求した特注の車も僕の悲しみを癒やしてはくれない。
 テーブルが自動的に変形し、ラベルのない黒い瓶が出てくる。僕はそれを無造作に掴み栓を開けると一気に口内に流し込んだ。

 燃え盛る炎のような熱が喉を通り抜ける。
 僕の身体にアルコールは効かない。何ガロン飲もうと足がふらつきさえしない。だから、もし心の底から酔おうと思ったのならば、市販のアルコール以外の手段を取らねばならない。

 酒は娯楽だ。神城の会長たる僕がそれを知らないのはまずい。常備されている酒は特製だった。神城の持つ技術の粋を尽くした、強いという域を越えた、危険すぎて他の人間には飲めない酒。神城家では神の酒と呼んでいる。

 だが、残念ながら酔いも今の僕を救ってはくれないようだった。
 身体が燃え盛り、しかし意識だけは凄まじく鋭敏に研ぎ澄まされる。思考の混濁もなく、テンションも微塵も上がらない。
 半分程ラッパ飲みして、瓶を乱暴にテーブルに置く。親指で濡れた唇を拭い取った。

 窓の外では薄暗闇がただ静かに流れている。

神城 鋭

駄目だ。度数が低いな。
この間まではこれで酔えていたんだけど

 僕の肉体は人間として屈指の強度を誇るが、同時にまだ十七歳のただの人間でもある。
 まだまだ身体は発展途上だ。この間飲んだ時は前後不覚に陥ったアルコールが全く効かないのがその証拠。どこまで成長するのか、シュミレーションはさせているし、定期的に検査もさせているが完璧には予想できていない。

東雲 和真

研究させましょう

神城 鋭

任せた。
アルコールだけじゃもう効かないかもしれないな。薬を混ぜよう

東雲 和真

もう混ぜてます

神城 鋭

……

 無言でもう一口、中の液体を口に含み、パソコンの画面に向き直った。

 ネットワークを通じて、神城グループのシステムの中枢にアクセスする。

 我儘お嬢様の暴挙は別にこれが初めてではない。笹宮さんを見つける前までは別にどうでもよかったので放っておいたのだが、それが悪かったのかもしれない。

 GEMCorporationは大企業であり、オリクト家もまた常軌を逸した資産家である。権力、財力、軍事力。その規模はどう低く見積もっても世界で五指に入るだろう。所詮、日本という小さな島国で二位である神城とは比較にならない。
 故に、そのご令嬢であるイリスの身の周りに関しても下手な王族より余程厳重な警備が敷かれていて、本来こんなぱっとした思いつきで動いていい人間ではない。何故彼女のような人間がオリクト家に生まれ落ちてしまったのか、神様はくそったれだ。

神城 鋭

面倒だなぁ。笹宮さん笹宮さん笹宮さん

 パスワード『SASAMIYA』を入れ、指紋認証を併用してシステムにアクセスする。
 神城のシステムの中枢を通して、モバイルの画面に表示されたのは上空からのリアルタイムの動画だった。神城の打ち上げた監視衛星から取得されている映像で、僕の乗っている車に赤のマークが記されていた。

 日本は神城の縄張り。神城当主だけが使用を許される日本全域を対象とした高精度の監視システム、『千見』は人の顔が解る精度で情報の取得を可能にする。
 日本にいる限り何者をも僕の眼を掻い潜る事は出来ない。

神城 鋭

さすがGEM、相当動員しているな……ご苦労様だね

東雲 和真

イリス嬢に何かあったら首が飛ぶでは済まされませんからね

 待ち合わせ先として指定された高級ホテル『シレンシオ』。
 世間一般にはあまり知られていないが、要人の会談などによく使われるホテルで僕も何度か立ち入ったことがあるが、その周囲はイリスの手先で埋め尽くされていた。都心から大きく外れた所にあり、いつもは人通りの少ない道路に黒塗りの自動車が何台も止められている。

 衛星からの映像は全てを捉えていた。

 オリクトのお忍びは世間一般のお忍びではない。神城が日本の王であるのならば、彼女たち一族は間違いなく世界の王の一人なのだ。
 それは間違いなく王としての力の現れだった。止められた自動車に、周囲をひっそりと軽快する無数の護衛。もはやそれは軍と呼んでいいかもしれない。

神城 鋭

千や二千じゃないな

東雲 和真

裏方も含めれば倍はいるでしょうね

 思いつきの招集で、おまけに自分たちのお膝元でもないにもかかわらずこの動員力。本国ではどれほどの力を誇るのか、これは本来オリクトの持つごくごく一部に過ぎない。

神城 鋭

下らねえ物語だな。どうせ組むんならもっと笹宮さんのみたいに洗練された物語にすればいいのに

東雲 和真

笹宮様の物語の方が面白いですか?

 珍しく、東雲が奇妙な質問をしてきた。
 そんなの、考えるまでもない。

神城 鋭

比べ物にならないね

神城 鋭

……

 ……ふむ。

東雲 和真

どうかされました?

神城 鋭

いや……

 ちょっと色々考えていただけだ。
 一度咳をして、改めて口を開いた。

神城 鋭

イリスと笹宮さんが崖に片手だけで捕まっていて落ちそうになっていたとして、もし僕がその場にいたとしたら……

東雲 和真

いたとしたら……?

 僕はその光景をしっかりイメージして言った。
 空想する事。それはきっと、僕が笹宮さんから受けたいい影響の一つだ。

神城 鋭

僕なら両方助け出せるだろうけど、笹宮さんを助けてイリスを突き落とすよ。
そのくらい、笹宮さんは凄い

東雲 和真

……落とさないでください

東雲 和真

……笹宮様の物語の面白さと全然関係ないし……。
神城様は変わられたな……

 面白くなかったのか、黙ってしまった東雲。

 やはり僕程度が笹宮さんの真似をした所で人を戸惑わせるのがやっとか。
 笹宮さんの才能は珠玉の才能。それを真似しようなど、神をも恐れぬ行為。それを知っていながらつい真似してしまうのもまた人の業と言えるだろうか。バベルの塔を建てた神話の時代より、人は自らの罪を知りつつも天を目指してしまうものなのだ。さすささ、さすささ。

 さて、一通り笹宮関係で気を落ち着かせた所で、手を打つか……。

 顔を上げ、黙ったままの東雲の後頭部に視線を向けた。

神城 鋭

イリスに電話を掛けます

東雲 和真

……へ?

神城 鋭

この数は不利です。
まともにぶつかり合えば局地的な戦績の観点から言っても、負けないまでも大きな被害が出るでしょう。僕は神城当主の責任として、自軍に大きな被害を出させるわけにもいきません

東雲 和真

何故敬語……

 権力はある。金もある。だが、それを自由自在好き勝手に使ってしまえばそれはでただの暴君、独裁者だ。
 被害は抑えねばならない。そうじゃなきゃ、いざというとき笹宮関係で使える力が減ってしまう。人が何人死んでも知ったことではないがそれは不味い。

神城 鋭

ガードを下げさせよう

東雲 和真

下げますかね?

神城 鋭

下げるよ。
護衛は優秀だがイリスは馬鹿だ。多分、ここまで人が動いている事にも気づいてないんじゃないかな?

 資産家の子息・子女が皆優秀であるとは限らない。
 子供の頃から英才教育を受けているとは限らない。
 自らの立場と責任を理解しているとは限らない。

 神城は性質的にたまたまそういう家だっただけで、いくらそれ以上の規模を持つオリクト家だったとしても教育方針はまた別の話。
 何より、ちゃんと自分の立場について理解していたのならば、いくら格下とは言え、いきなり神城家の当主に会おうなどという浅慮を侵すわけがない。

 僕はスマフォを取り出すと、既に登録済みのイリス・オリクトに向けて発信ボタンを押した。

第二十三話:もしも笹宮さんが崖から落ちそうだったら

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