洗い物を終え、戻ってくるや否や、笹宮さんが聞いてきた。

笹宮 明

神城君って紙屋なの?

笹宮 冥

!?

笹宮 冥

お姉ちゃん……何というど真ん中直球ストライクアウト

 ひしひしと感じるこちらを窺うような冥の視線。
 紙屋、紙屋、か。そんな事を言われたのは初めてだ。笹宮さん、さすがコミュ力ない! だがそこに痺れる憧れる!

 あらゆる無礼を浄化する笹宮フィルターがかかっている僕に隙はない。

神城 鋭

まー紙屋だね

笹宮 冥

普通に答えた……!?

 まー紙屋と言っても、紙だけを売っているわけではない。神城グループは多角的な方面に多種多様な業務を展開しているコングロマリットなのだ。発電所だって新聞社だって通信インフラだって出版社だって持ってる。
 だが、その原点を言うのならばそれは間違いなく紙屋という事になるだろう。神城の神は紙とかけているとかかけていないとか。

 多分、笹宮さんは極端な話、僕が笹宮さんの漫画を出版販売している事を知らないだろう。別に明かした所で笹宮さんは笹宮さんであって態度などは変わらないと思うし、隠しているわけではないが、ここぞという時に驚かせるために黙っていたりする。TPOをわきまえるんだよ、僕は。

笹宮 冥

す、すみません、お姉ちゃんがいきなり変な事を……

 冥が何故か申し訳無さそうにしているが、別に構いはしない。笹宮さんが笹宮さんでいる以上、それ以外の事は割りとどうでもいいのだから。
 変な話、僕は笹宮さんが連続猟奇殺人鬼だったりしても別に構わないのだ。

神城 鋭

まー笹宮さんは漫画描いてりゃ笹宮さんだから

笹宮 明

ど、どういう意味よ

神城 鋭

これは褒め言葉だよ

笹宮 明

え……あれ? そ、そうなの?

 笹宮さんは笹宮さんという存在として既に完成している。それ以上の要素は蛇足と言うべきだ。このまま漫画を描き続けていけば彼女は神としての階位を高めていく事になるだろう。

 しかし単純だな。笹宮さんは。

神城 鋭

そういや勉強教えるんじゃなかったの?

笹宮 冥

あ……そ、そうでした……

 邪魔しに来たわけではないが、結果的に邪魔になってしまったのなら申し訳ない。

神城 鋭

冥って一個下でしょ? 馬鹿でも一応二年生の笹宮さんの勉強教えられるの?

笹宮 明

か、神城君って大概失礼ね……まるで私が馬鹿であるかのように……

 天才とは多々そのようないわれのない謗りを受けるものなのだ。まぁ、笹宮さんが創作を除けば破綻者である事は明確だが。

笹宮 冥

お姉ちゃんが勉強できないのは間違いありませんが……。
まぁ、お姉ちゃんが配られている教科書の類は全部確認しているので、基本を教えるくらいはできます

 なかなかどうして優秀だ。
 冥は確か王星学院には通っていないはずだが、王星学院は進学校である。偏差値七十オーバー。特待生で学力が必要とされないとはいえ、そんな学校に通う姉に勉強を教えるのは並大抵の努力ではない。

 まぁ、教えられるくらいの基礎すら笹宮さんは覚束ないという可能性もあるわけだが。というか、多分こっちの線。

 悪いとは思っているのか、どこか申し訳無さそうな笹宮さんの表情を確認し、冥の方を向いた。この華奢な身体に姉のお世話という重責、間違いなくこの女の子も笹宮さんのストーリーテラーの基盤に組み込まれているわけだ。
 ってか、よくこれで姉妹仲悪くならないな。

神城 鋭

まーでもさ、勉強できる必要はないんじゃない?

笹宮 冥

……え?

 ずっと思っていたことをぶちまける。
 僕の辞書に躊躇という単語はない。

神城 鋭

いや、王星学院で特待生には成績が求められないしさ。
今の調子で漫画の連載続けていったら問題なく学校も卒業できるし、もしできなくても笹宮さんのスキルなら十分生きていけるでしょ

笹宮 冥

……

 そもそも、笹宮さんはもう孫世代まで遊んで暮らせる程の財を築いている。今更数学やら古文やらをやる必要はない。
 よしんば、今すぐに彼女の才能が枯渇したとしても何ら問題はないのだ。僕や全世界に抱えるファンにとっては大問題だが、今の僕には『冷蔵庫くん』もあるわけだし。

神城 鋭

人にはそれぞれ得意不得意ってのがあるわけじゃん?
お猿が数学できなくても、魚が英語できなくても別にいいわけだし、笹宮さんが勉強できなくても別に構わないと思うよ

笹宮 明

た、例えが酷すぎる……

 そもそも、そんな事をしている暇があったら箸の使い方とか、配膳すら手伝えない呪われた体質の解消とかを手伝った方がよほどいい。そっちは生活に直に響く。
 

笹宮 冥

……

 冥は数秒、僕の言葉を咀嚼するように考え込んでいたが、短くため息をついて目を開けた。

笹宮 冥

確かに……お姉ちゃんに勉強を教えるのはお猿に数学を教えるようなもんです

笹宮 明

!?

 お猿に数学を教えられる冥はサーカスか何かに就職したほうがいいと思う。

笹宮 冥

ですが、私はそれでもお姉ちゃんに最低限の学力を身につけて欲しいんです!
エゴだとはわかっていますが、妹として!

 その言葉には、熱い情熱が込められていた。今までの苦労とかその辺りも諸々。
 確かに、普通な冥の方からすれば姉の体たらくは目に余るのかもしれない。

笹宮 明

め、冥……? そ、そんな事考えてたの?

神城 鋭

それで、どこまで出来るようになったの?

笹宮 冥

四則演算はマスターしてます……

神城 鋭

四則演算できるお猿か……エンターテイメントの元締めとして非常に興味があるな

 お猿なら天才だが人だとかなり微妙な感じだ。オブラートに包んでしまったが、有り体に言うと、彼女高校二年生だよね?
 高校二年生の勉強を教えるとかそういうレベルじゃないんだが……。

笹宮 明

わ、私の事、馬鹿にしてるの?

神城 鋭

いや、僕はそんな笹宮さんの事が大好きだよ

 四則演算できるお猿と笹宮さんどちらを選べと言われたら僕は躊躇いなく笹宮さんを選ぶし、例えお猿の方がダース単位でもらえると言われて僕は笹宮さんを選ぶだろう。

 彼女は僕の中でオンリーワンにしてナンバーワンなのだ。百億貸して欲しいと言われたら即座に百億貸すくらい好きだ。

笹宮 明

え……!? そ、そう……?

笹宮 冥

お姉ちゃん……ちょろいんだから

 いや、君も同じくらいにちょろいから。

 さておき、そういう事情であれば、及ばずながら僕はもっといい方法を知っている。

神城 鋭

まぁ、笹宮さんに勉強を教えるなら、冥が調教するよりももっといい方法があるよ

笹宮 冥

え……? もっといい方法?

笹宮 冥

神城さんが教えてくれるとか、家庭教師を雇うとか、ですか?

 いくら僕でもお猿に数学を教える自信はないし、一流の家庭教師でも同様だろう。
 仕方ない、僕が手ずからやって見せてあげよう。

 一度、冥の方に頷いて見せてから、何故か構えている笹宮さんにインプットした。

神城 鋭

僕、ずっと思ってたんだけどさ

笹宮 明

……え?

神城 鋭

笹宮さんの漫画のキャラクターって、作者が四則演算ぎりぎりできるくらいの学力しかなさそうなくらいに底が浅いよね

笹宮 明

!?

 笹宮さんの超集中力の志向先を変えてあげるのだ。漫画モンスター笹宮明。種族が人間である以上、その漫画を描いている時の集中力を勉強に向ければ敵なしになれる、と思う。

笹宮 冥

ちょ……神城さん!?

神城 鋭

やっぱり登場人物の考えにも作者の知性が反映されているというか……。
勿論、笹宮さんの漫画は面白いけど、そこが解消されればもっと面白くなると思うんだよなあ、勿体無い。せめて、高校二年生までの勉強くらいはできてないと……

笹宮 明

……

 笹宮さんが無言で立ち上がる。だが、決して怒っているわけではない。そのような無駄な感情、余剰な感情、今の笹宮さんは持ってはいない。
 今の笹宮さんの頭にあるのは、自らの漫画を高めるための術だけだ。

 笹宮さんはそのまま僕と冥の方に視線を向ける事なく、きびきびした動作でリビングを出て行った。

神城 鋭

後は自動的に勉強するよ。
しかし、笹宮さんは相変わらず面白いなぁ

笹宮 冥

神城さん、私のお姉ちゃんの事なんだと思ってるんですか!?

 そんなこと、言うまでもない。
 良心の呵責などあるわけもなく、即答した。

神城 鋭

親友

笹宮 冥

お、お姉ちゃんも変だけど、神城さんも凄い変……私の周りって何でこう癖の強い人ばかりなのかしら

第二十話:それは猿じゃない

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