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次の日の放課後――
俺たちは学校の図書室にいた。テスト期間が終わったばかりのせいか、人はあまり多くない。
このため俺たちは、気兼ねなく話し合うことができた。
ねぇお兄ちゃん! この本見て!
『おに』はもともと、『穏(おぬ)』が変化したものなんだって。
『人間の目に見えない霊的存在全般を指していた』って書いてあるわ
目に見えない存在……そういえば初めて鬼を見たとき、ヤツにこう言われた。
お前……俺の姿が見えるのか?
ということは、俺は何かの拍子に、目に見えない鬼を見る能力を身につけたってことだろうか?
別の本には、こんなふうに書かれていた。『鬼(き)』という文字は、死体をもとにした象形文字で、やがてそれが死者の霊魂を指すようになったと……人が死ぬことを指して『鬼籍に入る』と言うのは、このことから来ているらしい。
――やはりここでも、鬼は姿の見えない存在として扱われている。
……それじゃ、虎のパンツはいて金棒持った鬼のイメージってどこからきたの?
その辺は平安時代あたりからの創作らしいよ。
え? でも待って! 鬼って目に見えないんでしょ? だったら何をモデルにして、あんな姿になったの?
それもこの本に書いてある。陰陽道で鬼がいると言われる方位が『鬼門』と呼ばれていて、それが北東、昔の言葉でいうと艮(うしとら)の方向だったから、頭に牛の角があって虎の毛皮をまとった姿になったらしいよ
ここまで説明して顔を上げると、佳奈がぽかんとした目でこっちを見ていた。
だ、駄洒落? 駄洒落であんな姿になったの?
うん。まぁそんな感じかもな……
鬼門がもし、トラウマの方向だったら、虎のパンツに馬の首?
いや、そもそもそんな方向ないって!
などと時々脱線しながらも、俺たちは図書室にあるそれらしい本をほとんど読み終えていた。
結局、あんまり参考にならなかった気がするよね
ああ。『鬼が人を操る』みたいな内容を期待してたんだけど……
ところでさ、お兄ちゃんが見た鬼は、どんな姿をしてたの? やっぱり牛の角と虎のパンツ?
似てるけどちょっと違う。もっと亡者っぽいっていうか……角も短かったし、着ている
服もボロボロの着物っぽかった
じゃあ、それが本物の鬼の姿ってこと?
え?
お兄ちゃんは、本当の鬼の姿を見る能力があるってこと?
どういう意味?
うーん。説明が難しいんだけど、今世の中に伝わってる鬼のイメージって、昔の人が見えない鬼を想像して描いた姿なんでしょ? でもお兄ちゃんは、想像じゃなくて実際に見たわけだから、さっき言った亡者みたいなイメージっていうのがホントの鬼の姿なんでしょ?
そっか。……まぁ、そういうことになるかもね
このときの会話で何となく引っかかるものを感じたのだが、具体的にそれが何なのかは、はっきりとしないままだった。
『鬼(おに)』も、『鬼(き)』も、目に見えない霊魂みたいな存在ってことがわかっただけよね……もうちょっと大きな図書館に行って、専門書とかを調べてみたら、いろいろわかるかもしれないわね
ただ、それだと俺たちの読解力が追いつかないんじゃないか?
うーん。それじゃ逆に、もっと簡単な本は? ほら、『日本昔話』みたいな身近な……
あ! ちょっと待って!
そう言うと佳奈は、急に鞄を開けて教科書を取り出した。
ん? どうした? 宿題でも忘れたのか?
違うの! 歴史の教科書!
佳奈は興奮した様子で、最初の方のページを指さしている。
見て! ここ! 邪馬台国の卑弥呼について、こう書いてあるでしょ? 『卑彌呼 事鬼道 能惑衆』
………………
ね?
……悪いけど、読めない
もう! 受験生なんだから、ちゃんと勉強してよね。
『卑弥呼 鬼道に事(つか)へ、能(よ)く衆を惑わす』って書いてあるわ
鬼道って何だ?
授業では先生が、特別な霊能力って言ってたわ。この『鬼』って字、気にならない? ここにある『鬼道』がつまり、鬼を放って人の心を操るってことじゃないかしら?
うん。正解って程でもないが……まぁ、いいセンいってるよ
相づちを打ったのは俺ではなく――鬼だった。
― 2 ―
鬼は積み上げられた本の上に腰掛け、見慣れたニヤニヤ笑いを浮かべている。
……やがて、ゆっくりと立ち上がりながらこう言った。
本なんてのは、知識の抜け殻なんだよ。それよりほら! 本物を見て研究しろよ! 高い授業料になるかも知れないけどさ! くっくっくっ!
え? どうしたの? お兄ちゃん……顔色、悪いよ
突然、絶句してしまった俺の顔を、佳奈が心配そうにのぞき込んでいる。
俺は恐る恐る鬼を指さした。
か、佳奈……お、お前には見えないのか? お前には……聞こえないのか?
え? 何? 何を言ってるの?
やっぱり俺にしか見えないのか……くそっ!じゃぁどうしたら……
一週間前、鬼はまっすぐに鳥海涼子に向かって歩き……耳の中に入り込んで……そして心を操って殺した。
でも今、鬼の獲物は……恐らく、俺たちなのだ。
ねぇお兄ちゃん! どうしたの? 顔、真っ青だよ?
そう言いながら佳奈は、じりじりと後ずさりをしていた。おそらく見えないなりに感じているのだろう。このとてつもない『恐怖』を……
くっくっく! 美しい娘だ。こいつならきっと、見事な彼岸花を咲かせるだろうよ!
やめろっ!! やめろーーーーっ!!!
必死になって叫ぼうとする。しかし声はかすれ、身体は全く動かなかった。彼岸花……死の花……コンクリートに突っ伏した血まみれの鳥海涼子……ほんの一週間前に目の当たりにした忘れたくても忘れられない映像。
それに佳奈の姿がオーバーラップする。
嫌だ!
ドクンッ! 心臓が高鳴る。その直後、体中の血液が引いてゆくような感覚。
……そんなの絶対に嫌だ! 考えろ! 死ぬ気で考えろ!
くっくっく……感じるよ。お前の恐怖を……そして、絶望を!
鬼のニヤニヤ笑いが、さらに大きくなる。駄目だ! 勝てるわけなんてない。いくら小さくても相手は鬼で、俺は普通の高校生なんだ。武器だって持ってないし、そもそも使ったことすらない。でも殺らなければ……殺られる。
ん? ちょっと待て! 今、鬼のヤツ……大きくならなかったか? ……間違いない。さっきまで15センチぐらいだった鬼が、倍くらいのサイズになっている。
どういうことなんだよ? これじゃますます不利だ。……と言うより、そもそも勝てる可能性なんて最初からゼロだったんだ。そう。人が鬼を倒すなんて話、おとぎ話の中にしか存在しない。
気がつくと鬼は見上げるほどの大きさになって、俺の目の前に立ちはだかっていた。ガリガリだった身体も、いつの間にか筋肉隆々になっていて、神経質そうだった声も低くて野太い、野獣のようなものに変わっていた。
ぐるるっ……ごの女ぁの、耳のあなのながに入るっ! ひがんばなぁー! 頭から咲かすんだっーー!!
鬼は佳奈に向かって、その巨大な頭を突き出す。よく見るとその肌は腐ってボロボロで、中には無数のウジ虫が蠢いていた。
ぐぇぇ……
頭の中で小さなパニックが起こる。それと同時に、鬼の身体からは、獣じみた悪臭が漂ってきた。
俺はもう、完全に戦意を喪失していた。気を失わずに立っているだけで精一杯だ。
佳奈を守りたい……俺が犠牲になれば……ひょっとしたら……そう思った途端に鬼がその大きな口を開ける。……きっとあの口の中には、ものすごい牙が生えてるんだ。
ぐぉーーーー! ジャマをするな! 女ぁ! 女ぁーーーー!!
何? 何が起こってるの!? ちょっと返事してよお兄ちゃん! お兄ちゃん!!
思っていた通り、鬼の口の中には、大小無数の鋭い牙が不規則に並んでいた。あの口からたれてる涎は……おそらく……直後、鬼の口から垂れた涎は、床に落ちて「じじじ」っと音を立て、白い煙を上げる。
……そう。強力な酸なんだ。
ん? ちょっと待て! 俺は今、何をやってるんだ? なんで俺は、鬼の恐ろしさについて、一生懸命考えてるんだ? そして、なんで鬼は、その想像通りに変化しているんだ?
俺は佳奈の言葉を思い出した。
お兄ちゃんは、本当の鬼の姿を見る能力があるってこと?
目に見えない鬼を見る能力……矛盾をはらんだ言葉だ。あのとき俺の見たものは、そして今、俺の目の前にいるものは、いったい何なのだろうか?
ひょっとしたら俺は最初から鬼の姿なんて見てなくて、ただ机の上に立っていた『呪いの気』みたいなものを感じて、それを補完するために無意識のうちに、鬼の映像イメージを脳内で再生していたのではないだろうか? だから今、俺の想像した通りの姿に鬼が次々と変化しているのではないだろうか? ……だとしたら、試してみたいことがある。
お、お前なんて、怖くないぞっ!!
俺はそう叫びながら、もっと弱い鬼を想像した。金棒を持って虎のパンツをはいたおとぎ話の鬼だ。力は強いけど知恵が回らなくて、人間たちにいつも騙されて財宝を奪われる存在……
俺がイメージを固めてゆくと、鬼の姿もまさにその通りに変化していった。
……そうか! おとぎ話ってのは、鬼の恐怖に対抗するための『武器』だったんだ。姿が見えないから恐ろしい。だからこそ、わかりやすい形でビジュアル化する。そして、鬼にまつわる物語をたくさん作ることで、その恐怖を和らげている。
だったら俺も、もっと弱い鬼をイメージしてやる。最弱の鬼。えーっと……昔『泣いた赤鬼』って絵本を読んで記憶があるけど、あれはどんな話だっけ? いや、それよりももっと弱い鬼を思い出した。髪の毛は緑色のアフロで、頭に一本の角……そう! テレビのコントで見たあの姿……勝てる! ヤツになら勝てる!
お前なんて怖くないぞ……お前なんて……お前なんて……
俺は、おとぎ話の鬼に向かって、指を突きつけた。
お前なんて! 高木ブーだぁーーー!!!!
そう叫んだ瞬間――
言葉が弾丸になって、指先から発射された。直後、鬼の皮膚が風船のようにはじけ、ぼわわわわんと、煙が立ちこめる。
そして驚いたことに、目の前に本当に高木ブーが現れた。
人の良さそうな、しかしどこか疲れたような笑顔。肌色の全身タイツを着た小太りな体型で、手にはウクレレまで持っている。それは完璧な『記号としての高木ブー』だった。
コイツなら勝てる! そう確信した俺は、瞬時にヤツの顔目がけ(ブーさんごめん!)渾身の右ストレートを叩き込んだ!
これでも! くらえーーー!!
ダ、ダメだこりゃーーーっ!!!
なんとなく別キャラの混じったような台詞を叫びながら、ブーさん……もとい、鬼は消滅した。
はぁ……はぁ……か、勝った!
完走したマラソンランナーのように、俺は汗だくになってその場に倒れ込んだ。
あんまりかっこいい戦い方じゃなかったかもしれないけど、とにかく勝った。俺は佳奈を守り切ったんだ! そんな心地よい満足感に包まれていると……
おいおい! アイツ何騒いでるんだ!?
ほんと、うるさいわよね!
高木ブーとか叫んでたぞ……
頭おかしいんじゃない?
目、合わせない方がいいわよ。危ない人だから
……い、命がけで戦ったのに、ひどい言われようだ。
起きて! 行こうよお兄ちゃん! ここ、出よう!
……ん? ああ
俺は佳奈に支えられ、ふらふらになりながら図書室を後にした。
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さっき、一人で何してたの?
廊下に出るとすぐ、佳奈が聞いてきた。
私、ちょっとだけ恥ずかしかった
『ちょっとだけ』と言いながら、耳まで真っ赤にしている。確かに図書室で高木ブーの名前を叫ぶのは、客観的に見たらかなり常識外れな行動だ。
……いやでも一応、命の恩人なわけだし、その言い方はあまりにも……ショックを受けていると、そこに大神早紀が現れた。
中田君! 話したいことがあるの。ちょっと、部室に来てくれない?
ああ。ちょうど俺たちも相談しようと思ってたんだ。前に君が話してくれた『呪い』のこと、もう少し詳しく聞かせてくれないか?
ええ。もちろんよ
そう言うと彼女は、図書室のすぐ隣にある文芸部室の鍵を開け、俺たちを招き入れた。
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どこの学校でもそうだろうが、今どき文芸部なんて流行らない。うちの高校も例外ではなく、ここ何年も休眠状態だったらしい。
しかし、大神早紀が入部して以来、彼女の予知能力を信じる者たちが次々と入部し、実質的には、オカルト研究会のような活動をしているらしい。その噂通り、部室の本棚にはオカルト関係の本がずらっと並んでいた。
それで、そっちの話ってのは?
その前に紹介しておくわね。一年生の犬飼風香ちゃん
そう言うと部室の奥から、三つ編みの髪に眼鏡をかけた小柄な女の子が現れた。
あの、はじめまして!
ぺこりと頭を下げる。その表情は暗く、何かに怯えているような感じだった。
そんな彼女をフォローするように、早紀が続けた。
実は私、夢を見たの。小さな鬼が現れて、この子……風香ちゃんの耳の中に入ってゆく夢。夢の中で鬼は、こう言ってたわ。『中田実に伝えろ! 次はこの子の花が咲くぜ!』って……
くそっ! あいつそんなことを……
やっぱり、心当たりがあるのね?
ああ。もちろんだ
俺は、これまでに起こった出来事を、順を追って話すことにした。鳥海涼子が鬼に操られて自殺した話をしたところで、風香はわっと泣き崩れた。
やっぱり私、ぐすっ……死ぬんですか? 涼子さんみたいに……頭から血を流して、自殺するんですか!?
いや、ちょっと待ってくれ! 助かる方法はあるんだ! 実はついさっきも、図書室に鬼が現れて……
あのとき図書室で何が起こっていたのか? 俺がこの説明をし終わると、佳奈もちょっと涙ぐんでこう言った。
そっか、お兄ちゃん……あのとき私を助けてくれたんだね? それなのにごめん。『恥ずかしい』とか言っちゃって……
いや、いいんだよ。実際俺も、今思い返すとかなり恥ずかしい気がするし……
でもさお兄ちゃん……
ん?
高木ブーは鬼じゃなくて、雷様だよ
あ。言われてみれば確かに……
まぁ、結果オーライだよね
その場の雰囲気が、ちょっとだけ和んだ。さっきまで泣いていた風香ちゃんも、くすりと笑っている。
呪いの気が、鬼みたいに見えるって話……すごく興味深いわ
俺の説明を真剣に聞いていた早紀が、このときになってようやく口を開いた。
それが正しいとしたら、どこかに涼子を呪った人がいるってことでしょ?
……私、あれからいろいろ調べてみたの。そして見つけたわ! 去年の卒業生に、河内 優(かわうち・まさる)って人がいるんだけど……その人、去年の12月に涼子に告白して、振られているの。
振られた後もしばらくつきまとってて、ちょっとしたトラブルもあったらしいわ。関係あるかどうかはわからないけど、死ぬ前に涼子、無言電話が増えたって私に愚痴ってた。
彼は今、近くの予備校に通ってるの。受験に失敗したのも失恋のせいだって言ってるらしいわ。おそらく彼が……
いや、でもだからって、鬼を使って呪い殺すなんてこと、簡単にできるわけないよ
四国の方に呪いを信仰する村があるの。調べたら彼、その村の出身だったわ
でも関係ない佳奈や、風香ちゃんまで狙うってのは?
この写真を見て!
早紀が取り出した写真を見て、佳奈と風香ちゃんが同時に声を上げた。
私! この人、見たことあります!
学校から帰るとき、いつも後ろを歩いてて、私ちょっと怖いんです!
私もそう! この人、何度も見たことある! やっぱりストーカーなんじゃない!?
二人の話によると、先週あたりから急につきまとわれるようになったらしい。
まだはっきりとしたことは何も言えないけど、私……わかるの。
彼が次に狙っているのは、風香ちゃんよ。中田君、お願い! 彼女、風香ちゃんを守って! 鬼の姿が見えるのは、中田君だけなの!
早紀はそう言うと、深々と頭を下げた。
うん! 任せといてよ!
自信があるわけではなかった。でも、黙って見過ごすわけにはいかない。
こうして俺と佳奈は、風香ちゃんのボディーガード役として、しばらくの間、行動を共にすることとなった。