― 1 ―
部室を出ると、あたりはもう薄暗くなっていた。
― 1 ―
部室を出ると、あたりはもう薄暗くなっていた。
それじゃ風香ちゃん。家まで送るよ
はい。すみませんが、よろしくお願いします!
ぺこりと頭を下げると、三つ編みの髪がぴょんと踊った。
三人で話をしているうちに、暗かった風香ちゃんの表情もどんどん明るくなっていった。
きっとこっちの笑顔の方が本来の風香ちゃんなんだろうなと思う。
大神さんって、すごいんですよ! 学校で起こること、ほとんど予知してるんです。だから文芸部のみんなは、大神さんの予言が聞きたくって集まってるって感じなんです
それって、ファンクラブみたいな感じ?
あ! そうかもしれないですね
そう言ってくすりと笑った後、しかし急に表情を曇らせて……
でも……その大神さんが予言してるってことは、やっぱり私……鬼に襲われて……
こらこらそこ! 暗い顔しないの! そうならないように、私たちがこうして付いてるわけだし……うん! 大丈夫! お兄ちゃんのこと信じてあげようよ! 見た目ちょっと頼りないけど、やる時はやるタイプだよ!
『ちょっと頼りない』は余計ではないかと思いながらも、俺も大きく頷いた。
そうそう! 任せてよ! もう鬼退治の方法は、わかってるからさ!
名付けて『高木ブー作戦!』……でしょ?
そう言って佳奈がにっこりと笑う。
くすっ! ちょっとかっこ悪い作戦名ですよね?
風香ちゃんもつられて吹き出した。
風香ちゃんの住むマンションは、学校から歩いて10分ぐらいの場所にあった。さてこれからどうしたらいいだろう? いくらボディーガードをするといっても、さすがに家まで上がり込んでしまうのはちょっと問題があるのではないだろうか?
女の子だし、家の人にもどう説明していいのかわからない。……とは言っても、鬼がいつどこに現れるのか予想も付かないし……などと考え事をしている間にも、風香ちゃんは慣れた手つきで郵便受けを開け、
やがてびっくりするくらいの大声で、悲鳴を上げた。
きゃーーーーーーーーー!!!!
ど、どうした?
み、見てください! しゃ、写真……鳥海さんのっ!!
郵便受けには、自殺した鳥海涼子の遺体写真が何枚も入っていた。大きく見開いた目、鮮血に染まった黒髪、飛び散った脳漿、不自然な角度に曲がった手足、アスファルトに描かれた彼岸花――
様々な角度から撮影されたその写真は、あまりに生々しく、残酷で、美しかった。
ひどい……誰がこんな写真を……
そう。それが一番の問題だ。誰がこんな不謹慎な写真を撮影し、しかも風香ちゃんの家の郵便受けに
投げ込んだのか? そして、何の目的で?
……き、きっと『次はお前だ』っていうメッセージなんです。私、ぐすっ、どうしたら……
風香ちゃんはショックのあまり、その場に座り込んでしまった。小さな身体がガクガクと震えている。
ひとつ、はっきりしていることがある!
俺は怒りをかみしめながら、ゆっくりと言葉を続けた。
これは明らかに、人間の仕業だ。おそらく、鬼を操っている張本人……
それって大神さんが写真を見せてくれた、ストーカーの仕業ってこと?
その可能性は高いと思う
中田さん……私、怖い
とにかくヤツ、河内 優について、もうちょっと調べてみよう!
うん! そうね!
私も、頑張ります! 泣いてるだけじゃ、ぐすっ……足手まといになっちゃうから!
風香ちゃんも涙を拭いて、力強く頷いてくれた。
よし! ヤツの通ってる予備校に行ってみよう!
― 2 ―
『東京早稲田明治立教法政慶応予備校』――河内の通っている予備校の前に着いた。
とうきょうわせだめいじりっきょうほうせいけいおう予備校?
東京六大学の名前を並べて、学校名にしたらしいわ
……でも、覚えにくいです
まぁいいや。略して『ほーけい予備校』ってことにしておこう
だっ、誰が包茎だよ! ……し、失礼なっ!
俺たちが振り向くと、そこに写真の男・河内 優が立っていた。
河内は神経質そうな男だった。俺たちと話をしている間、何度も眼鏡の位置を直している。身長は180センチ近くあるだろう。やせ形で、顔も長い。その馬面を真っ赤にさせながら、彼は熱く語り出した。
いいか? 日本人の約60%は、仮性包茎なんだ。これは、亀頭を包む包皮を自由に剥いたり戻したりできる状態を言って、日常生活を送る上でも何ら支障はない! むしろ問題なのは『不潔になりがち』とか『亀頭の成長を妨げる』とか『恥ずかしい』などのコンプレックスを煽り、保険のきかない手術などを勧めるクリニックなどがあまりにも多いことなんだ。
そのすべてが悪質だとは言わないが、なかには百万円単位の治療費を取るところもある。そもそも医学的には治療の必要すらない症状の手術にも関わらずだ! いいか? 仮性包茎でも常に亀頭部分を清潔にしていれば……
……あの、あのさ!
汗だくになって、熱っぽく語り続ける河内の肩をポンポンと叩き、俺は口を挟んだ。
い、一応ほら、女の子が二人もいるわけだし……あんまりそういう話題は……
お、お前が先に振ってきたんだろ?
いや違う。絶対に違う。
とにかく! 包茎の話はどうでもいいんだ。それよりあんたに聞きたいことがある。この子、風香ちゃんの家の郵便受けに写真を投げ込んだのはあんたか?
しゃ、写真? ほ、包茎の写真か?
いいかげん、その話題から離れろ!
そのとき、佳奈が俺の服の袖をつんつんと引っ張り、小声で話しかけてきた。
この人、写真投げ込んだ人と違うんじゃない? 話が全然通じてないわよ
いや、わかっててはぐらかしてるのかもしれないし……
でも……
早急な判断は危険だ。俺はまだ、この河内 優という男について何も知らない。(おそらく仮性包茎らしいということは容易に想像できるが……)
などとヒソヒソ話をしていると、河内は急に大声でこう言い放った。
とにかくだ! 初対面の人間の心の傷を、いきなりえぐるようなヤツはろくな人間じゃない!
(……やっぱりあの人、包茎なんだ)
佳奈の呟く声に聞こえないふりをして、河内はさらに大きな声を出した。
き、きみたちに話すことなんてなにもない。失礼する!
さっきまでさんざん包茎について熱弁していたにも関わらず、そう言い放つと大股で去っていった。
……で、どう思う?
コンプレックス商法を批判しておいて、自分が一番コンプレックスの塊なのはどうかと思います
いや風香ちゃん、そっちじゃなくてさ……あいつが鬼を放った黒幕かどうかってことなんだけど
あ、そっちですか。す、すみません
風香ちゃんは顔を真っ赤にして、うつむいてしまった。
……まったく、あいつのせいでみんな調子が狂いっぱなしだ。
結局何の結論も出せないまま、俺たちは、東京早稲田明治……えーっと何だっけ? とにかく、ヤツの予備校を後にした。
― 3 ―
ねぇ風香ちゃん! うちで晩ご飯、食べてかない?
そう言って誘ったのは、佳奈なりの優しさからなのだと思う。郵便受けであんな写真を見てしまったショックはまだ癒えていないだろうし、何よりあの行為自体『お前の居所は突き止めたぞ』という犯人からのメッセージのようにも思える。だったらこっちも動いた方がいい。
……おそらく、そんないろんなことを考えた上での提案なんだろう。
今日も、お父さんとお母さん、仕事で遅くなるんだって。お兄ちゃんと二人だけでご飯食べるのもなんか寂しいし、ね? いいでしょ?
はい。ありがとうございます!
……いや、実はあんまり深く考えずに誘ったのかもしれない。
ただいまー!
おじゃましまーす!
誰もいない家の鍵を開け、電気、テレビ、エアコンのスイッチを次々と入れてゆく。
ニュースによると、今日の最高気温は40℃を超えたらしい。
どうりで暑いと思った
なんかどんどん日本も、南国みたいになってくよね
動物や植物の生息域も、だんだん変わってるって話です
地球温暖化とか、今まで他人事みたいに感じてたけど、もう洒落にならない状況にまで来ているのかもしれない。
こういう暑い日はさ! スタミナ付けようよ! 餃子焼こうと思うんだけど、いい?
うん。いいね
あ! 私もお手伝いします!
制服の上にエプロンを羽織り、二人はキッチンに入っていった。
リビングに一人残された俺は、もういちど河内について考えてみる。
河内は鳥海涼子に告白して振られ、そのショックで受験にも失敗したらしい。そして、それを逆恨みして鬼を放ち、涼子を自殺させた。
彼は四国にある『呪いを信仰する村』の出身らしい。そこで鬼を操る術を学んだのだろうか?
今日、図書室で鬼に襲われた佳奈や、次に狙われているとされる風香ちゃんたちにも以前からまるでストーカーのようにつきまとっているらしい。
ただ、そんな話から想像される河内 優という男の姿と、今日会った彼の印象とは大きく隔たりがあるような気もする。……いや不意を突かれて、動揺したのだろうか?
お待たせー! 第一弾、焼けたよー!
そう言って佳奈が、焼きたての餃子を持ってきた。
うん! うまそう!
『うまそう』じゃなくて、間違いなくおいしいわよ!
うーん。すごい自信
だってさっき、風香ちゃんとつまみ食いしちゃったもん
ちょっと遅れて、風香ちゃんも皿一杯の餃子を運んでくる。
私も焼けました!
さっ! 食べよ食べよっ!
こうして賑やかな夕食が始まった。
まず佳奈の焼いた餃子を食べてみる。……うん、うまい! 皮がぱりっとしていて噛むと中からじゅわっと肉汁があふれる。絶妙の火加減だ。
じゃ、こっちもいただきます。風香ちゃんの焼いたギョ……ぎょぎょっ!?
俺は思わず奇声を発してしまった。
ぱっと見たところ、佳奈の焼いた餃子よりもおいしそうに見える。特にキツネ色に焼けた皮が見るからに食欲をそそる感じだ。しかし、箸で持ち上げた瞬間、炭のように真っ黒に焦げた裏面がどうしても目に入ってしまう。
あ、すみません。ちょっと焦がしちゃったみたいです
ちょっとどころじゃないと思いながらも、一度箸を付けたものを戻すわけにもいかず、内心激しく動揺する。
……いや、だ、大丈夫。このくらいなら……
うーん。あんまり身体によくないんじゃないかな?
無理矢理口に入れようとするのを、佳奈が止めてくれた。
ご、ごめんなさい、私……お料理って慣れてないから
ううん。気にしないでよ。こういうのって、好きな人とかできると、だんだん上手になってくもんだからね
え!? 佳奈、好きな人……で、できたのか?
そこで動揺しないでよ!
佳奈がくすっと笑ったが、風香ちゃんは俯いたままだった。
ごめんなさい。これ全部……捨てますね
しょんぼりしている風香ちゃんを見て、さすがにちょっとかわいそうになってきた。
俺は焦げ餃子の中身を取り出し、ご飯の上に乗せた。
ほら風香ちゃん、見て! 中身は大丈夫だよ! これをご飯と混ぜると『餃子の具ライス』だ!
そう言いながら食べてみる。
……おおおおおっ!!
びっくりした。風香ちゃんを励ますつもりで、適当にやっただけのことだったのだが、これが実にうまい! 焦げた皮の中で餃子の具がいい感じで蒸されていて、それが白いご飯と絶妙にマッチしていた。怪我の功名で、俺は画期的な新料理を発明してしまったのではないか? そう思いながら、夢中になって食べ続けた。
あっ! ほんとだ! すっごくおいしい!
真似して食べてみた佳奈も感心している。
二人とも気をつかわないでください。そんなにおいしいわけ……えええっ?
半信半疑だった風香ちゃんの顔も、ぱぁっと一気に明るくなった。
すごい! 不思議です!
ね? 普通に餃子とライスを食べるより、ずっとおいしいでしょ?
わかります! わかりますっ!
ねぇお兄ちゃん! お店出そうよ! 『世界初! 餃子の具ライスの店!』ってさ! きっと絶対儲かるよ!
俺たちは興奮のあまり、佳奈の焼いた焦げていない餃子まで中身を取り出し、餃子の具ライスを堪能した。
ふぅ……おいしかった!
うん。もう食えない!
ごちそうさまでした。ほんと、おいしかったです!
風香ちゃんがいれてくれた食後のお茶を飲みながら、俺たちは今日生まれた新料理について話し合った。
そう言えばさ、コロッケも別々に食べるより、ソースかけた後でぐちゃぐちゃにつぶしてから、ご飯と混ぜて食べた方がずっとおいしくなるよ
ほんとにぃ?
嘘だと思ったら試してみるといいよ
でも不思議ですね。何で別々に食べるよりもおいしくなるんでしょうか?
それはもう『ご飯マジック』としか言いようがないよね
え? ご飯マジック? お兄ちゃん、何言ってるの?
例えばさ! なめ茸も、海苔の佃煮も、単体で食べたらそれほどおいしくないだろ? ご飯と混ぜることによって、おいしさが引き出されるんだよ。これが餃子の具やコロッケみたいに単体で食べても充分においしいものだった場合、まぜたときのおいしさはさらに倍加される! それがご飯マジックなんだよ!
さぁてとっ! 洗い物しようかなっと!
あ! わ、私も手伝います!
熱く語っている俺とは対照的に、二人はいそいそと立ち上がった。……さすがにちょっと、引かれてしまったかもしれない。
― 4 ―
洗い物をしながら、佳奈と風香ちゃんが楽しそうに話をしている。
ねぇ! 風香ちゃんってさ、彼氏とかいないの?
え? あ、その……
――聞き耳を立てる俺。
ユー! 言っちゃいなよ!
(誰の物まねだよっ!)
……と、内心突っ込みながらも、さらに聞き耳を立てる。
好きな人は……いたんです。でもバレンタインにチョコ渡したら、断られちゃって、それで……
ふんふん。それで?
でもどうしても忘れられなくて、それで大神さんに相談したら、『絶対大丈夫!』って励まされて。そしたらその予言通り、彼の方から告白してくれたんです!
一度断ったのに?
そのときはそのときで、いろいろ事情があったみたいです
で? その後どうなったの?
でも結局、合わなかったみたいで一ヶ月ぐらいしたら自然消滅しちゃいました
ふーん。若いのに、いろいろ苦労してるのねー
若いって、佳奈さんといっこしか違わないですよ
まぁ、そうだけどさ
佳奈さんこそどうなんです? 好きな人、いるって言ってましたよね?
まぁ、いるはいるんだけどさ……
え? 誰ですか誰ですか?
すぐ隣の部屋で……
(え? 俺? 俺のこと?)
次の言葉が続くまでの0.5秒ぐらいの間で、心臓が2、3回ドキドキしたと思う。
すぐ隣の部屋で聞き耳立ててる人がいるから、これ以上は話せないかなぁ……
あ、なるほど。そう続くのか……
― 5 ―
今日知り合ったばかりのはずなのに、いつの間にか佳奈と風香ちゃんはすっかり意気投合していた。
風香ちゃん! 飲もう! 今日は飲み明かそう!
こらこら! 未成年だろ? 俺たち
だからコーラ飲もう! 2リットル一気!
死んじゃいますよ
うふふ。なんか楽しいなぁ。ほら! 修学旅行みたいでさ……そうだ! 枕投げとかしようか?
佳奈は、ほんとに酔っぱらってるかのようなハイテンションではしゃいでいる。
枕投げなんかより、鬼ごっこなんてどうだい? 『リアル鬼ごっこ』だけどさ……
野卑な声で提案してきたのは――またしても鬼だった。
で、出た!
え? 何?
鬼が……出た!
きゃーーーーーー!!!
忘れてたわけじゃないけど、ちょっと気を緩めすぎていた。
そうだ。鬼は風香ちゃんを狙っていて、俺はそのボディガード役なのだ。
お、落ち着いて風香ちゃん!
はぁ……はぁ……はぁ、は、はい!
お兄ちゃん! 高木ブー作戦よ!
な、中田さん! 高木ブー、お願いします!!
この緊迫した場面には似合わないくらい変なお願いだが、二人の表情は真剣そのものだ。
よし! 行くぞ!
俺はあのときと同様、人差し指をびしっと突き出して叫んだ。
お前なんか! 高木ブーだー!!!!
ぼわわわん!
漫画のようなコミカルな煙が立ちこめ、そこに本物そっくりの高木ブーさん(雷様)が現れる。
よし! くらえっ!!!
図書室での戦いの再現ビデオみたいに、ブーさんは俺のパンチを食らって吹き飛ばされる――
はずだった。しかし次の瞬間、ブーさんの姿はゆらりと蜃気楼のように消え失せ、驚いたことにものすごい身のこなしで
ひゅんひゅんひゅん!!
……と、トンボ返りをした。
た、体操が得意なのは、別のメンバーのはずだろ!?
俺の突っ込みを軽く無視して、ブーさんは、にやりと不敵に笑いながらハリボテっぽい金棒を取り出し、大きく振り回した。
ぶぉん!!!!
その一撃によって、ソファが真っ二つになった。
えええええっ!?
さらにもう一振りすると、花瓶が一瞬にして粉々になった。
ちょ、ちょっと待った。話が違う……っていうか、キャラが違うって!
声が裏返っているのが自分でもわかる。
ふっ、臆病者め……
ブーさん、というか鬼の顔に明らかな軽蔑の表情が浮かんだ。
説明してやろう。お前が変えられるのは、鬼の見た目だけだ。この俺の本質的な強さまでは変えることができん! ふふふ。さてどうする? 中田実!
こ、こいつはもう、ブーさんじゃない。ブーさんの姿をした、もっと恐ろしい存在……
そう。魔人ブーだ。……いや、呼び方なんてどうでもいい。コイツを倒す方法を考えなきゃ!
ふふっ! 今晩は彼岸花をふたつ、咲かしてやることにするか! その前に……邪魔者を殺さないとな!
……くっ! 風香ちゃんと、佳奈が危ない! どうすればいい? 考えろ! 時間がないぞ! そ、そうだ! とにかくもう一度……コイツをもっと弱い姿に変えてみよう! ブーさんよりも弱い存在……それは……それは……
ええい! お前なんか、ミジンコだっ!!!!
ぼわわわん!
叫んだ直後、俺は大変な間違いを犯していることに気づいた。
目の前に現れた巨大ミジンコは、ものすごく不気味で、しかも強そうなのだ。
鋭く尖った触角、硬そうな外皮、どこを見ているのかわからない目も不気味だ。透明な腹部には、真っ黒い卵のようなものがビッシリと詰まっていて、見てるだけでぞわっとなる。
ギギッ! ギギギギギ! キシャーーーー!!!!
直後、巨大ミジンコが不気味な叫び声を上げる。
ぞわぞわぞわ。全身が総毛立った。そうか、ミジンコは顕微鏡で見るから怖くないんだ。こんな巨大なミジンコを、肉眼で見てしまった恐怖。これはおそらく、人類初の体験だ。
ぐげぼっ! ごぼごぼガバーーー!!!
いったいどこから声を出してるのだろう? 聞くたびに魂が削り取られてゆくような恐ろしい音……これだったら、ブーさんの方がまだましだ。
も、もう一回高木ブーを!!
何の問題の解決にもなってはいない気がするが、俺は巨大ミジンコの姿を魔人ブーに変えた。やっぱり理解できる敵の方が、ずっと戦いやすいはずだ。
……ふっ、悪あがきは、そのくらいにしておけ
魔人ブーが、その顔に似合わないクールな声で言い放つ。
お前は今日、ここで死ぬ! ……それが運命なのだ!
ごごごごご!
魔人ブーの全身から、真っ赤なオーラのようなものが立ちこめる。
すると部屋の温度がぐんぐん上昇し、窓ガラスが、電球が、食器が……次々と割れ始めた。
な、何が起こってるの? さっきから部屋の中のいろんなものが爆発してるんだけど!?
佳奈が悲鳴のような声で、俺に問いかける。
コイツ……ぶ、ブーさんのくせに、ものすごく強いんだ。俺が変えられるのは、鬼の見た目だけなんだって!
ぶぉん!!! 俺の気がそれた隙を狙ったのだろう。鬼の口から、火の玉のようなものが生まれ、ものすごいスピードで飛んできた。
ぐあっ!!!
火の玉が右脇腹を直撃する。気絶しそうなくらい激しい痛みが襲ってきた。
中田さん! 頑張ってください!
どこからか、風香ちゃんの声が聞こえてくる。そうだ! 彼女を守らなければ……でもどうやって? 何をどう頑張れば、コイツを倒すことができるんだ?
思い出して!!
……今度は佳奈の声だ。
お兄ちゃんが私を助けてくれたときのこと! ちゃんと思い出して! お兄ちゃんはあのとき、鬼を倒したのよ! お兄ちゃんには、その力があるのよ! だから、もっと自分を信じて!!
確かにそうだ。俺が図書室で倒した鬼だって、見た目は高木ブーだったけど、本質的には鬼そのものの強さを持っていたはずだ。……だけど倒せた。人間は、鬼に勝てるんだ。
そのとき俺は、昨日佳奈が言っていた言葉を思い出した。
『周りなんてなかなか変えられないけど、自分の心ならすぐに変えられるんだよ!』
そうだ。相手の姿を変えようと思わずに、自分を変えられれば……自分の中に秘められた力をもっと引き出すことができたら! 俺は、コイツに勝てる!!
よし! もっと強い俺を想像しよう! 例えば……武器を持っている俺だ。RPGとかに出てくるヤツ……最強の武器! 名前は……えーっと『鬼斬りの剣』とか、俺は、そういうのを持ってるんだ。
――次の瞬間、俺は右手にずっしりとした重さを感じた。鬼斬りの剣が実体化したのだ。
そ、その剣は……お、お前……
ヤツも驚いているようだけど、それ以上に俺もビックリした。まさか、本当に剣が出てくるなんて……でもその確かな質感は、俺に自信を与えてくれた。
さっきまで、絶対にかなうわけないと思っていた鬼……ヤツが動揺している。そう思った直後、身体の奥底から力が満ちあふれてきた。
そうか、心って、強いんだ
剣の扱い方なんて知ってるわけもない。でも野球のバットみたいにして、思いっきりフルスィングをした。
くらえぇーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!
ぎゃーーーーー!!!!
鬼の胴体は真っ二つになり、やがて光の粒になって消え失せた。
お兄ちゃん!!!
中田さん!!!
心配そうな表情で、駆けつけてくれる二人。よかった。無事みたいだ。
大丈夫!? お兄ちゃん! お兄ちゃん!?
……あ、あのさ
はい。何ですか?
ちょっとだけ、気絶させて……
身体中の力が一気に抜け、俺はその場に倒れ込んだ。
― 6 ―
――その夜、夢を見た。
夢でしか行ったことのない場所……
コンクリートの小さな橋。
その下を流れる、川みたいなドブみたいな場所……
そこに綺麗な女の人がいる。
黒く長い髪と、澄んだ大きな瞳。
『みのる……みのる……』
ちょっと悲しそうな顔で、俺の名前を呼んでいる。
でも俺は、この人のことを何も知らない。
夢でしか会ったことのない人……
彼女は俺の目をまっすぐに見つめて、こう言った。
『目覚めなさい!』
言われなくても、そろそろ起きるよ。
そう思って、苦笑しながらも頷く。
――これまでに何度も何度も、見続けてきた夢。
映像も、音も、匂いまでも覚えている。
しかし、今日初めて気づいたことがある。
その女の人には……
首から下が無かった。
― 7 ―
――深夜、脇腹の痛みで目が覚めた。
あ! 起きちゃった?
佳奈……看病してくれてたのか?
まだ動いちゃ駄目! 怪我してるから
ひどいのか?
さっきお医者さん呼んで診てもらったんだけど、怪我自体はそれほど重くないって。ただ、理解できない傷の付き方だって心配してたわ
そりゃまぁ、そうだろうな
鬼と戦って怪我した患者なんて、そんなに診る機会はないだろう。
ところでさ、風香ちゃんは?
あれからお父さんたちが戻ってきたから、車で家まで送ってもらったわ
うん。なら安心だ
部屋の中、ぐちゃぐちゃになってたから大騒ぎだったのよ
で、どう説明したの?
嘘ついてもしょうがないから、全部話したわ。鳥海さんのことから、風香ちゃんの話まで。……すごく時間かかったけど、最後までちゃんと聞いてくれたわよ
でも、信じてくれたのかな?
その辺は何とも言えないけど……でも私たちが今、すごく大変な状況だってことは、わかってくれたみたい
そっか、よかった
もう少し、寝た方がいいわ
うん。そうする。お前も休めよ
お兄ちゃんが寝たら、私も寝るから……
……ん
ちゃんと返事をする前に、俺は深い眠りに落ちていった。