眼を覚ませば、知らない部屋。
う……うん?
眼を覚ませば、知らない部屋。
ここは?
咄嗟に、声を張り上げて問いを発したときにレツィーナは漸く思い出し始める。
軍の動揺、混乱、そして崩壊。
お目覚めですかな?
……貴方は!?
奔流の如き敵騎兵ら。
その先頭に立って突入してきた敵の指揮官。
名乗りが遅れましたか。
そんな人間が、穏やかな物腰で口を開く。
この時点で自分の運命は、定まったも同然だと悟るのは簡単だった。
レフポラン連合王国アルトゥル・オストラバ子爵と申します。ルルム公女殿下。
ああ、これは……。
金翼騎士団においては百翼長をヘトマン元帥閣下より拝命しております。
名乗りを返さぬのは礼にもとりますね。ルルム選帝侯が公女、レツィーナです。
ペコリ、と一礼し、レツィーナは苦笑する。
治療にも礼を述べるべきですか?
こんな様になっても、礼儀作法というのは我が身にしみついているのだな、と。
ご婦人の介抱ですので、女性の部下に任せました。
メリッサです。
感謝を
ああ、いえ。はい。
……なんだか、腰が低くて調子が狂うなぁ。
さて、レツィーナ公女殿下。お察しのことかとは思いますが……殿下は目下、レフポラン連合王国の捕虜となっておられます。
そう、自分は・・・・・・敗れたのだ。
レツィーナは眼前の男が、猛然と自軍の陣地を切り裂いていく悪夢のような有様を思い出す。
初めに思い出すのは、雷鳴のような蹄の轟き。
文字通りに、大地を走る怪物だった。
パイク兵のパイクは弾き飛ばされた。
方陣が、何かの悪い冗談のように消えていく。
それこそ、まるでバターを熱したナイフで切るかのようにあっさりと自陣は切り裂かれた。
……本当に、鎧袖一触。兵数で勝り、同数以上の騎兵を揃えて完全敗北。
苦い記憶に残っているのは、パニックになって散っていく兵士達と、自分を逃がそうと駆け寄ってくるイリーナの必死な表情。
……イリーナ?
イリーナ、イリーナは!? 彼女はどうなったのですか!
傍つきの騎士ですか? ああ、彼女も捕らえました。
ええと、特に怪我というほどのことは。少し、ぶつけたり、蹴飛ばされたりはしたみたいだけど、大丈夫です。
ああ、良かった。
そう、本当に良かった。
何も出来ない主であったかもしれないが、これで、少なくとも長らく仕えてくれた彼女だけでも助けることができれば。
落ち着かれましたか。
取り乱しましたね。それで、オストラバ子爵。貴方の御用向きは?
どうぞ、百翼長と呼び捨てください。殿下、私どもは身分あるご婦人方を長らく虜にすることをよしとできません。
儀礼的な装飾を施した言葉ながら、アルトゥルと名乗った敵の指揮官が何を口に出すか、レツィーナには容易に察しがついていた。
敗北した自軍。
囚われている自分。
お国許へ、捕虜交換の使者をだそうと。本日は、そのご相談にお伺いいたしました。
その前に、オストラバ百翼長。お教えねがえませんか?
無論です。なんなりと。
何故、私は……ルルム選帝侯軍は敗れたのですか?
それは、ちょっとした心残りだった。
敗因ですか?
ああ、その、私も気になったんですが……なんで、騎兵がパイクに勝てるんですか?
はぁ……。傭兵くん、君はそれでも戦場を渡り歩くプロかね?
オストラバ百翼長。私も、それが聞きたいのです。何故、貴方の騎兵はああ迄も?
強いのだろうか、という疑問。
……うん、何が違ったんだろうか?
私たちだって、努力した。努力してきたのだ。何が間違っていたのだろうか?
殿下、お答えしますと我々とそのほかの騎兵を同一視されていることに問題があるのでしょう。
え?
宜しいですか。騎兵とは馬に乗った兵士のことではありません。
それは、初めて聞く話だった。騎兵とは、馬に乗って戦う兵士だ。
騎兵とは、衝撃力です。公女殿下に申し上げるべきことではないのかもしれませんが、馬に乗るだけでは騎乗歩兵なのです。
だから、淡々と語られる言葉に思わずレツィーナは聞き入ってしまう。
人馬一体。馬に乗って戦えることが、騎兵の条件ではありません。馬と共に戦えて初めて騎兵なのです。
そして、人馬一体となった騎兵を一糸乱れることなく統制する。それが、軍というものです。
……馬と共に戦う?
すとん、と納得できていた。
突入してくる敵の騎兵。ぶつかった瞬間にはまるで、怪物だと思った。
馬と人が、力を合わせればああ迄も?
我々と我々以外、と語ることをお許し願いたいと思うのは積み上げているもの、積み上げてきたものが余りにも違うからです。
常日頃からの連携訓練と、厭くことなき徹底した鍛錬?
常備された軍隊。
そして、徹底される訓練。
これは勝てないわけね。私たちとは……根本からして発想が違いすぎる。
彼我の実力が余りにもかけ離れている理由について、いやというほど思い知らされる言葉であった。
いっそ、偶然の敗北であれば諦めもついただろう。
運が悪かったのだ、と。
だが、これが必然だとすれば。
……終わり、ですね。
さて、公女殿下。宜しければ、本題に戻りましょう。捕虜交換交渉をどちらにお願いすべきですかな?
捕虜交換交渉と目の前のオストラバ百翼長は語るが……こちらに配慮した物言いだ。
『捕虜交換』という言葉。
だが、ほとんどそれが名目に過ぎないことをレツィーナは悟っている。
……オストラバ百翼長。つかぬ事を伺いますが、あなた方の誰かがルルム選帝侯軍に囚われていますか?
我が軍の側から出ている捕虜でありますか?
礼儀正しい態度だ。
だが、その余裕ある態度こそが答えを物語る。
申し訳ないですが、こちらの損害は微々たるもの。
無理もない話。あれだけ一方的な戦いだったのよ?
捕虜など、とられてはおりません。
でしょうね。……覚悟していたけれど、これで終わりかぁ……。
ああ、傭兵の方にはどうだったかな?
えーと、落ち穂拾いのようなものだし、特に損害を出す理由もないよ?
何気なく続けられる言葉は、文字通りにレツィーナの運命を決める。
一応、金貨だけは手を付けさせなかったけれど……装備や武器を拾えたから私たちとしてもまぁ、当分はお金に困らずにすみそうだし。
と、いうことのようですね。
ああ、やっぱり。
そうなりますよね。
予想は出来ていたし、覚悟もしていた。
自分達には交換するような捕虜がなく、相手は公女という自分の身柄と相応の支払いを父に求めることだろう。
……そんなお金など、選帝侯領には微塵もないというのに。
ああ、傭兵に支払う金貨も借金でしたか。先方に奪われてしまった手前、残っているのは借金の証文だけ。
お金なんて、どこにもない。
家をひっくり返したところで、借金の証文と差し押さえられた担保が残っているだけだ。
私の名義にしておいてよかった。……借りた商人には申し訳ないことになるけれど、家の皆に累が及ぶことだけは、これで何とか避けられる。
バルーフの南進に呼応する。
ただ、それだけで借金をひねり出したのだ。バルーフからの資金援助と、紹介された商人連中からの融資。
……有態に言えば、ルルム選帝侯領の内情は報奨金目当てで参戦する傭兵も同然なのだ。
では、殺してください。
だから、レツィーナは正直に告げるしかなかった。
は?
ちょっ!?
……私の解放を条件に、身代金を父が払ってくれることはありえませんから。
有態に言えば、アルトゥル・オストラバは深い悲しみに包まれていた。
公女殿下の身柄に、父親である選帝侯がびた銭一文たりとも支払わない。
なんと、悲しく冷たい世の中だ。
最悪だ。金にならない捕虜とか、殺すぐらいしか始末の方法が思いつかん
折角、苦労して捕まえたのにと零しかける彼のボヤキを遮ったのは貴婦人の相手をするということで同行させていた女傭兵だった。
あの~どうするんです? あのお姫様、殺すんですか?
はぁ!?
我ながら良くないとは承知しつつ、アルトゥルは思わず声を荒げていた。
ありえない! 傭兵君、君は私をなんだと思っているんだね!?
何って……守銭奴?
いいかね、私は金翼騎士団の一員だぞ!?
誉れ高き騎士たるべく努めなければならぬ建前からして暴行を加えるなど論外だ!
あれ?
そういうタイプ?
第一殺してしまったら、それこそ『金にならない捕虜』だろう!?
あ~なるほど、そういうことか。
守銭奴って突き詰めると、こういうタイプになるんだなぁ……。
いいかね、彼女はルルム選帝侯の継承権を持っている!
……はぁ?
大マルケード帝国は崩壊して久しいが、その『選帝侯』という地位は今なお、ブランド価値があるんだ
うーん、確かに私たち傭兵も偶にやりますけどね?
人身売買はあんまり褒められませんよ……?
なんて、失礼な! メリス君だったか、いい加減にしたまえ!
あの、そろそろ名前ぐらい覚えてくれませんか?
騎士をいったい何だと思っているのか、と問い詰めようかとすら彼が考えたとき、気まずげに返される言葉。
間違えたのか、と咄嗟に気付きアルトゥルは何食わぬ顔で発音でも違っていたかなと続ける。
無礼な。メラリス君、私とて大切な傭兵諸君の名前ぐらい覚えているとも
メリッサです
……メリッサともちろん言ったつもりだが。
発音が悪かったかな? すまないね。
はぁ。で、どうするんですか?
調子が狂うことこの上ないが……仕方がない。
やれやれ、と溜息を一つ零すなりアルトゥルは淡々と口を開く。
これだけは、これだけは本当に使いたくなかったが……金がないのがわるい。
元帥直伝の秘儀を使うぞ。