フェニキア王国の都市である首都・フェニキアの高級レストラン”アフロディーテ”にて、約束の時間、午後六時。
 エリオット・アルテミスは、相手がエクレール家の女性のそれなりの地位を確立している人物ということで、割とお洒落なスーツを纏い、その席に出席した。
 ブラック系のフォーマルな衣装を着て、高級レストラン"アフロディーテ"にその姿を現したエリオット・アルテミス。
 さすがにいきなりの誘いで完全な夜の礼服は用意出来なかった彼だが、それでもセミフォーマルな整ったブラック系のスーツを着ている。ネクタイは落ち着いた青いネクタイ。ワイシャツは白く、そして今は夜なので彼の最大の特徴である紫がかった銀髪もきちんと整えてきていた。
 自分の真正面に座る女性・・・ファノン・エクレールは品のあるイブニングドレス姿だった。とても品格のある深い紅のドレスを身に纏い、腕には長手袋。首には華美なネックレスが輝いている。ローズピンクの髪の毛も美しい。
 少しその美しさに見惚れつつ、彼は出された食事を口にする。だが、緊張し過ぎて味の判別が出来ない。美味しいには美味しいが、それをどう表現したらいいのかわからない。
 

ファノン・エクレール

お口に合いませんでしたか?


 不意にファノン・エクレールが彼に質問してきた。彼は慌てて、それでもそれを気取られないように努めて冷静に言葉を絞り出す。

エリオット・アルテミス

いいえ。とても美味な料理だと思います

 とだけ答えて、彼はファノン・エクレールの瞳を見つめる。とても凛々しい輝きを宿した緑色の瞳。だけど、その輝きはどこか自分を軽蔑するような・・・不思議な瞳をしていた。
 だが、その女性はまるで肉食獣を思わせる実に優雅でありながら、鋭い牙を隠し持った、気高い美しさを感じさせる。
 ここで彼女は、彼、エリオット・アルテミスに生い立ちを質問してきた。

ファノン・エクレール

ご家族の方は?

エリオット・アルテミス

それが・・・父はもう亡くなっているのです。そして・・・母も。今は実家には祖母しか住んでいません

ファノン・エクレール

父方の祖母ですか?

エリオット・アルテミス

いいえ。母方の祖母です

ファノン・エクレール

あなたは、お父様から何かを相続しませんでしたか?

エリオット・アルテミス

父から・・・?いいえ。父は旅行中に事故に遭い亡くなってしまったのです。水難でした。後で調べたら、大海竜・リヴァイアサンの仕業だったとか

ファノン・エクレール

リヴァイアサンといえば、あの海の神と崇められている海蛇ですよね?

エリオット・アルテミス

ええ・・・。相手が海の神では、遺産という遺産は相続は出来なかったです。せいぜい、祖母が生活していけるくらいのお金が振りこまれたくらいです

ファノン・エクレール

あなたのお父様の祖父は、天使の名前の人物ではなかったですか?


 その質問に彼は心の中で首をかしげる。一体、何の為にそんな質問をするのだろう?それにやたらと”遺産”の質問をするのも気になった。
 実は彼は自分の生まれが、”女神の皇子”であることは知っていたが、どういう意味を示すのかは知らされていなかった。
 やがて・・・目の前のこの女性は、とんでもない条件を出して、思ってもいないことを提案してきた。

ファノン・エクレール

あの・・・私と結婚を前提に付き合っていただけないかしら?

エリオット・アルテミス

え・・・?


 そこでお互いのフォークとナイフの手が止まった。
 ファノン・エクレールは、優しい淑女みたいな表情になって、彼に目の前の現実を突き付ける。

ファノン・エクレール

あのまま、ヘスティアの王立大学で大学教授をしながらの、遺伝子研究員の生活は苦しいでしょう?私と結婚してくだされば、思う存分遺伝子学の研究をさせてあげますし、あなたの祖母の面倒も見てあげられます。もちろん、私と結婚すれば将来の人生の保証もお約束出来ますよ?


 だが、かえってその自分本位に聞こえる条件が彼には同意は出来ない。自分の研究を馬鹿にされた気分になった彼は、そこで丁重にその交際を断る。

エリオット・アルテミス

今日は本当に美味しい食事を有難うございました。ですが、別に私は地位が欲しくてこの遺伝子学の研究を進めているのではありません。この世界にはまだ人間が進化する余地がある。私はその進化の余地を見つけ出すのが生きがいです。それに将来、私の研究の後を継ぐ後世の人間も教育しなければなりません。せっかくのお心遣いですが、お断りさせて頂きます。例え家が貧しくなろうとも、私は充分に幸福です。エクレール家のあなたにはわからない生き方でしょうけど


 彼は食事を手早く済ませると、静かに立ちあがり、そして深く礼をして帰ろうとする。
 そこで、ファノンは先ほどの非礼を詫びるように、言葉を選んで、話した。

ファノン・エクレール

ごめんなさい。どうも・・・”商談”みたいに聞こえてしまったようですね。慣れていないのですよ。こういう、対等な関係の結婚話の類は。お気を悪くされたのなら、謝らせてください。失礼いたしました

エリオット・アルテミス

・・・。今日は本当に美味しいディナーをありがとうございました。私はこれで帰らせていただきます


 そこに侍女・アネットが、マグカップにコーヒーを淹れて持ってきてくれた。恭しく礼をする。

ファノン・エクレール

どうせなら、こちらのコーヒーをどうぞ。こちらのレストランアフロディーテのコーヒーは美味しいんです



 確かにそのコーヒーは良い香りがする。せっかく好意で出してもらったコーヒーだから、彼はそのコーヒーを飲んで、家路に着くことにした。
 そして、最後にファノンは、近くの馬車乗り場まで送ると言い、共に馬車に乗り送ってもらうことになった。

 だが・・・何故か帰りの馬車乗り場まで行くのに、彼は突然、強烈な睡魔に襲われた。瞼が重くなって目を開けていられない。
 何故だろうか?
 やがて、彼、エリオット・アルテミスはファノン・エクレールと共に乗る馬車内で深い眠りに入ってしまった。
 まるで、意識が遠くなるような恐ろしい睡魔。
 そして・・・彼が深い眠りに入ったのを確認したファノンは、そこである香炉を置いた。そこから香るものははっきりしない意識の彼は敏感に反応していた。

エリオット・アルテミス

こ・・・この香りは・・・知っている。今でも、この世界では有名な・・・媚薬と言われる香り・・・麝香だ・・・


 意識の底で彼が夢うつつで見たのは、何故か笑うピエロの仮面。凶悪な笑みを浮かべた狂気のピエロ。
 そして・・・そこで彼は己の身体が、誰かに貪られているのを感じる。
 無理矢理、行為をさせられ、その途中で・・・

エリオット・アルテミス

はっ!!


 彼は見知らぬ部屋のベッドの上にいた。まるで飛び跳ねるように飛び起きる。荒い息を上げていた・・・。

エリオット・アルテミス

何だ!?ここは?!俺は・・・確か・・・!!

エリオット・アルテミス

そうだ。誰かに身体を貪られて無理矢理抱かれている感触・・・!!そ、それに衣装が・・・


 不思議そうに己の身体を確認する彼の部屋に、あのアネット・エクレールが現れた。

アネット・エクレール

着替えは男の使用人にさせましたので、ご安心ください

エリオット・アルテミス

き、君は・・・

アネット・エクレール

ぐっすりとお休みのご様子でしたので、我々の居城までご案内いたしました

エリオット・アルテミス

何だって!?くそ・・・迂闊だった・・・!!大学は・・・!?

アネット・エクレール

こちらから、王立大学の方へ連絡をいたしました。まずは湯殿までご案内いたします。後で食事をご用意させます


 そうやって風呂場に案内された彼は、全裸になりまず思い切り、冷たい水を頭からかぶった。それでまずははっきりと意識を覚醒させる。

エリオット・アルテミス

馬鹿か!?俺は!?馬車内で眠ってしまった上に何故か、城に案内されて・・・!!

エリオット・アルテミス

あの時、酒はあの食前酒のみだし、コーヒーで酔いは醒めた感じはしたが・・・身体が何故か重い。あの時嗅いだあの麝香の香りが、身体に残っているような気がする


 そして不意によぎったのは、あのおぞましい、身体を貪られる生々しい感触だ。
 

エリオット・アルテミス

一体、何が起きているのか・・・。とにかくここから去った方がいいような気がする


 ファノン・エクレール・・・。あの女性は何を考えているのかわからない。
 仮にもプロポーズしているのに、まるで、軽蔑するような憎悪に満ちた瞳をしていた。あの瞳は少なくとも、結婚というより、下僕になれみたいな目だな・・・。
 
 そして・・・そんな彼をよそに、魔法技術で作られた遠見の水鏡で、そのエクレール家の女性たちが、彼を侮蔑の眼差しで見つめていた。

ファノン・エクレール

あれが当代の”女神の皇子”ね。どれほどの色男かと思ったら、そんじょそこらにいるような壮年男性じゃない?まあ・・・そこそこの美男だけど。それに考え方もお堅いわね。遺伝子学の研究者なんてあんなものかも知れないけど?全くジジイも厄介な遺言を遺してくれたわね

アネット・エクレール

これでは、拉致監禁です・・・ファノン様。やり過ぎではないのでしょうか?

ファノン・エクレール

随分と彼に同情的じゃない?アネット?もしかして、そうやって彼を虜にして、自分が女王になろうとしているんじゃないでしょうね?


 そこでファノン・エクレールは一段と冷酷な声の響きにして、彼女を見下す。その瞳は今は冷たい憎悪に輝く緑色だ。
 だが、最後の言葉を聞いたアネットは、そこで沈黙してしまう。

アネット・エクレール

・・・けして、そのようには・・・

ファノン・エクレール

本人に監禁されていると気づかせなければいいことでしょう?私達、エクレール家の城にいる限りは大丈夫よ。だって・・・ここには下僕の男なんて、星の数ほどいるのだから


 やがて、このローズピンクの髪の毛の女性は、不機嫌そうに腕を組み、そして冷酷に侍女・アネットに命令を出した。

ファノン・エクレール

あなたはここで見ていなさい。目を逸らさないこと。いいわね?命令よ

アネット・エクレール

・・・はい


 そして・・・この背徳の城で繰り広げられる、女の欲望が渦巻く物語は・・・始まった。

1-2 女の欲望渦巻く城へ

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