いいか?エリオット?この詩は女に伝えてはダメだ。文字に書き起こしてもダメだ。自分の息子に大事に伝えていくものだ

 これは彼の父であるラファエル・アルテミスが、彼に言い聞かせた言葉であった。
 これは、彼にとってはまるで”緑色の子守唄”であり、”絶対に守り抜かなければならない約束”でもある。
 だが、別段、彼にはそれは苦痛でなない。
 それは、自分の生まれが、ある特殊な生まれであることを自覚しているから。
 
 ”女神の皇子”

 それが、彼・・・エリオット・アルテミスに与えられた二つ名だった。
 だが、皇子とはいうが別に彼は王家には関係のない人間だ。

 この世界は、男性より女性の方が遥かに上の立場にいる異世界・ヘスティアという名前の世界。
 普通に魔法技術もあり、そして、この世界にはとある言い伝えがある。
 異世界・ヘスティアのある女王が治める学業国家・フェニキア王国。
 一年中、緑溢れる温暖かつ気温も心地よいこの学業国家の女王の家のファミリーネームはエクレール家。
 そして代々のエクレール家の女性は、とある約束されし男性がいるという。
 ”女神の皇子”という二つ名が与えられた男性を虜にした女性は、その国の女王となり、力も地位も富も、そして健康と長寿を約束された子を出産することが出来、誰もがうらやむ幸せな人生を約束されるという。
 
 そして、この異世界・ヘスティアの王立大学で、遺伝子学を中心に研究を進める壮年の男性がいた。
 今は彼は大学の講義の真っ最中で、教鞭を振るっている。
 木製を思わせる、広い教室に彼の声が響く。渋くて落ち着いた色気を感じさせる声だった。
 服装は、白衣の下はスーツで、茶色の革靴を履いている。長身痩躯の男性の髪の毛は彼と言う人間を物語る特徴的な色の髪・・・銀髪だった。
 その肌は艶のある乳白色で、顔には彼と言う人間を示すもう一つの特徴がある。
 しっかりと整えられた、手入れの行き届いた口髭を生やしている。
 二時間程の講義を終わらせて、教室から去ろうとした時、彼は珍しく同じ大学で働く研究員の女性に声をかけられる。

研究員

エリオットさん。お疲れ様です。これから研究室に戻るのですか?

エリオット・アルテミス

そのつもりだけど?

研究員

遺伝子学会も今は話題を呼んでいる論文が発表されましたよね

エリオット・アルテミス

劣性遺伝子の発現と近親婚についての論文だっけ?

研究員

ええ

エリオット・アルテミス

まあ、人間の遺伝子なんて未だに10パーセントくらいしか解明されていないからね。その他は「ジャンクヤード」と呼ばれる、ただそこにあるだけの”ガラクタ置き場”みたいなものさ。だけど、そのガラクタ置き場から有用なものを発見するのが私達のするべきことだよ?

研究員

口癖ですね。今の言葉、エリオットさんの

エリオット・アルテミス

でもね、この遺伝子の研究はするべきテーマだと思う。90パーセントも可能性が残っているなら、それを見つけ出すのは”お宝”を掘り当てるくらいに貴重な瞬間さ

研究員

あっ!そうそう。話に夢中になってしまって肝心なことを話さないと

エリオット・アルテミス

一体どうしたの?

研究員

本日の午後二時頃、フェニキアを治める一家・エクレール家の女性が二人、ここを訪問してくるんですよ

エリオット・アルテミス

随分とまた急な話だね

研究員

何でも・・・あなたに御用があるんですって

エリオット・アルテミス

私に?何の用があるのだろう?

研究員

とにかく、伝えることは伝えましたからね。お時間、忘れないでくださいね

エリオット・アルテミス

わかっているよ

今度は別の女性の大学教授に声をかけられた。そこそこの美貌を持った王立大学で人気の講師だ。

ラミア

エリオットさん

エリオット・アルテミス

ラミアさん

ラミア

今日の訪問が終わったら、私とたまには飲みに行きません?

エリオット・アルテミス

君と?

ラミア

その後、酔った勢いで、ラブホテル直行とかもいいですよ

エリオット・アルテミス

それはちょっと抵抗があるなあ・・・

ラミア

何でですか?

エリオット・アルテミス

私にとっては、そういう男女の関係は、あくまで愛情を確かめるための行為で、気持ちいいとかそういうのは二の次なんだよね

ラミア

身持ちが堅い男性なんですね

エリオット・アルテミス

それが、大人の男の礼儀じゃないかな?

ラミア

わかりました。じゃあ・・・今日は私、一人寂しくお酒でも楽しみますね

エリオット・アルテミス

その気になったら、私から誘うから・・・。すまないね

彼はそこで美しい紫水晶の瞳を閉じて、軽く誘ってくれた女性に会釈をして、自分の研究室へと戻る。
 その道すがら聞こえる学生の何気ない会話を彼は耳を傾けることなく、気になって耳には入れておく。意外とその何気ない会話から重要なヒントが隠されている場合もあるからだ。
 今日のその学生の会話は、この王立大学に訪問してくる王家・エクレール家の女性についての噂話が中心だった。
 この世界ではエクレール家は特別な家だ。代々の王家でもあるこのエクレール家へメイドとして働きたがる女性も少なくはない。

女子生徒1

ねえねえ?聞いた?今日、ここに来るエクレール家の女性って、物凄い美人姉妹という噂よ!

女子生徒2

一人が、エクレール家の長女の方で、もう一人の方は侍女という話だよね!

女子生徒1

しかも、長女の髪の毛は染めたんじゃなくて、元からローズピンクの髪の毛の女性らしいわね

女子生徒2

でも、あんまりいい噂は聞かないよね~。その人、すごくサディストで、支配欲も強いんだって

女子生徒1


要するに、自分が女王になりたいって思う、典型みたいな女性でしょ?

女子生徒2

でも、それもわかるかも。特にフェニキアの女王になると、富も名声も権力も思いのままにすることが出来るんだって

エリオット・アルテミス

なるほどね。でも、それと私と何のかかわりがあるのかな?さっきの女性は、私に用があるって言っていたけど

 彼は王立大学の長い廊下を歩いている。窓の格子には細かな装飾が施されてとても品格がある。カーテンはレースのカーテンで真っ白な薄い布が風に揺れて、踊っている。日差しは柔らかく、今は太陽が一番高い位置にある、昼間の十二時頃だった。
 床はとても磨かれている石造りの床で、要所要所にはアンティーク調の照明が飾られている。壁という壁に。
 そして、いつものように彼は自分の研究室に戻って、まずは軽くランチを摂る。今日のランチはサンドイッチだ。レタスとトマトとシーチキンと紫玉ねぎが挟まれている。それを特製のマスタードで食べた。傍らにはレモングラスが入った紅茶をマグカップに入れて置いてある。
 そして、先程聞いたその気がかりな論文が載っている本を取り出し、それを読み進める。
 そうして、ランチを食べ終わると、彼は儀式のようにコーヒーを淹れて飲む。
 そんな時だった。
 彼の研究室のドアを急いでノックする慌ただしい音が聞こえた。
 何事だろうか?彼はそう思って、そのドアを開けると、彼の助手を務める研究員のうら若き女の子がそこにいた。

メイ

エリオットおじさま!大変!予定よりも早く、エクレール家の女性二人がこの王立大学に来たんです!



エリオット・アルテミス

随分と早いね。そのエクレール家の女性は今はどこに?

メイ

王立大学の校長先生と話をしてますよ!

エリオット・アルテミス

じゃあ、こちらも準備を整えないとね

メイ


そちらは頼みます。エリオットおじさま

 そのエクレール家の女性二人は、今は校長先生の自室で、話をしている。
 長女の女性の名は、ファノン・エクレール。年齢は二十八歳。ローズピンクのセミロングに、意志が強い緑色の瞳が印象的な、全体的に緊張感を漂わせる雰囲気の女性だった。
 その傍らには彼女の秘書にあたる侍女、アネット・エクレールが控えている。茶髪のロングヘアーに青い瞳の美女である。
 ファノンは今はビジネス用のスーツを纏い、校長と向かい合わせのソファに腰をかけている。
 だが、全身から醸し出す雰囲気は、明らかに緊張感を煽る、まるで氷のような冷酷さが滲み出ている。
 この王立大学の校長もこのファノン・エクレールは最も苦手とする相手の女性だった。

校長先生

これは、ファノン・エクレール様。ようこそお越しくださいました

ファノン・エクレール

早速、要件に入らせていただくけど、このフェニキア王立大学に、エリオット・アルテミスという大学教授はいますか?

校長先生

エリオット教授ですか。ええ。確かにいます。今は研究室に戻っていると思われます。その彼に何の御用があるのでしょうか?

ファノン

彼と直に話を伺いたいの。取り次いでくれますか?

校長先生

わかりました。ファノン・エクレール様

 フェニキア王立大学の校長は、彼女に会釈をすると隣に控えていた秘書に、彼を連れてくるようにと命令を出した。
 秘書である女性は、彼の研究室にたどり着くと、木製のドアを三回、ノックした。

秘書

エリオット・アルテミス教授。校長先生がお呼びになっております


エリオット・アルテミス

ああ。今すぐ行くよ

 彼が来るまで、校長は彼女との会話をする。だが、彼女は不愛想この上ない女性で、この校長のことも見下した態度だった。
 そんな彼女にいつも反発の感情が噴き出してくるのを校長の男性は感じる。
 自分が女であることをいいことに、自分が丁重に扱われるのは当然だと言わんばかりである。
 傍らの侍女・アネットは、その不愛想な彼女のフォローに必死だ。
 部屋の外では、教授仲間の人間が、一目でもいいからエクレール家の女性二人の姿を見たくて仕方ないので部屋の外に集まり出す始末だ。
 ほとんどが男性の教授。中には女性もミーハーな気分で見に来ている様子だ。

男性講師2

おい。見たか?この世界を治めるエクレール家の女性の二人を?

男性講師1

ああ。ローズピンクの髪の毛の女性が、最も女王に近い女性のファノン・エクレール。そして、傍らに控えた少し遠慮がちな茶髪の女性が侍女・アネット・エクレールという名前らしい

男性講師2

あのローズピンクの髪の毛の人は性格きつそうだな~。ああいうの苦手

女性講師1

アネットさんの方が、柔らかい印象がありますよね

男性講師1

しかし、何の用だろうか?誰かに会いに来たのかな?

 そんな会話が部屋の外でされているところに、エクレール家の女性が会いたがっている男性、エリオット・アルテミスがそこに現れた。不思議そうな表情を浮かべて、まるで偵察にきたように外にいる彼らに声をかけた。

エリオット・アルテミス

君たち。どうしたの?みんなして、そんなところで立ち聞きかな?




男性講師3

エリオットか

男性講師2

違うよ。あの女王家のエクレール家の女性が気になってさ。一目だけでも見たいんだ

エリオット・アルテミス

そんなことしていると、怒られるぞ?

男性講師1

エリオットこそ、どうしてここに来たんだ?

エリオット・アルテミス

呼び出されたんだ。校長先生に。それにエクレール家の女性も私に会いに来たらしい

 彼はそう言いながら、校長室のドアを三回ノックする。そして、自分が来たことを伝えた。彼はそのまま部屋に消えた。
 彼が部屋に入ると、ファノン・エクレールはまるで、自分を値踏みするような視線で彼を見る。アネットもだ。
 しばらく、沈黙が流れる。
 エリオットも何だか落ち着かない。一体彼女は何をそんなに自分を値踏みするような目線を送るのだろうか?そう思ってならない。
 若干、首をかしげるエリオット。何物にもぶれない紫水晶の瞳が不思議そうに彼女達を見つめる。
 そして、しばらく沈黙が流れた後、ここでファノン・エクレールは思いもがけない提案をいきなり彼にしてきた。

ファノン・エクレール

エリオット・アルテミスさんってあなたのことだったのですね。いきなりですけど、今晩、ディナーでもいかがでしょうか?

エリオット・アルテミス

はい?

 思ってもいなかった提案だった。いきなり初対面の男性である自分にいきなりエクレール家の女性からディナーの誘いを受けるとは。
 丁重に断ろうと思った彼だが、そこでアネット・エクレールも話に加わる。

アネット・エクレール

そんなに構えないでも大丈夫です。今晩は、ファノン様の奢りですから。前々から、あなた様のことをファノン様は気になさっていたのです

エリオット・アルテミス

はあ・・・?

エリオット・アルテミス

前々から?でも・・・私はこのエクレール家のことはあまり関心はないのだがな・・・

 この展開は外で立ち聞きしている男性教授たちや女性らも驚いている。

男性講師3

マジかよ?

男性講師1

まさか、一目惚れ?

男性講師2

だけど、相手はエクレール家の女性だぞ?

 ファノン・エクレールは、エリオット・アルテミスに”今晩、六時にヘスティアの高級レストラン「アフロディーテ」にて待っている”と言い残し、そして足早に王立大学の校長室から去っていく。
 彼女はアネットを従えて、そのまま王立大学を去った。
 ファノンの強引なディナーの誘いに、彼はというとしばらく茫然としていたのは言うまでもない。
 たった、それだけを伝えるために来たのか?という感じだ。その光景を見ていた校長も言葉を失っているが、すぐに校長の威厳を取り戻し、そしてこう彼に指示を出した。


校長先生

エリオット・アルテミス君!ここは、ディナーの誘いを受けなさい!




校長先生

エクレール家直々のご指名だ!ここは王立大学の面目を保つ為にも行くんだ!

エリオット・アルテミス

ちょ・・・ちょっと、待ってくださいよ!私の意志はどうなるんですか?いくら何でも、エクレール家ですよ!?相手が?

校長先生

そのエクレール家の女性が、この世界では大変な地位を確立させているのは知っているだろう!?これは校長命令だ!ほら、さっさと準備をするんだ!

 まくしたてるようにその校長は彼に今夜のディナーの誘いを受けるように命令を出す。
 彼は頭を抱えるようにして、右手を額に当てて、芝居がかったように大げさな態度で、ため息をついた。

エリオット・アルテミス

何か・・・変な展開になってしまったなあ・・

 もはやこの展開には、彼もめまいを覚えそうである。
 彼はしぶしぶ、半ば投げやりに、その夜、約束の高級レストラン「アフロディーテ」へと向かった。
 そして・・・この夜から、彼の人生も大きな荒波に呑まれることになる

pagetop