名も無き者

少し話しすぎたか……


 名も無き者は手を下ろして、鮫野木に近づく。

名も無き者

それにしては、人間の感情は複雑すぎる

名も無き者

人間は何故、喜び、怒り、哀しみ、楽しみ、愛しみ、憎しむのか。私が長年、人間を観察して多少は理解した

名も無き者

しかし、私が理解した感情は余りにも少ない


 鮫野木に話しかけながら、近づいてくる。

名も無き者

欲、欲だよ。人間は欲のために、どんなことでもするだろ? 君だってそうだ。野沢心を助ける為にここに居るのだろ

鮫野木淳

そうかもな

鮫野木淳

なぁ、知ってるか? 人は自己犠牲でも他人を助ける理由を

名も無き者

ほう、知りたいね

鮫野木淳

思いやりだよ

名も無き者

綺麗事は誰でも言える


 名も無き者は鮫野木の頭を鷲掴んで、力を入れる。人間の力とは思えない握力で爪が食い込む。とてつもなく痛かった。鮫野木は腕を離そうと強く抵抗したが、全く歯が立たない。

鮫野木淳

おい、や、やめろ。離せ

名も無き者

殺しはしない。場所を変えるだけだ


 すると、腕の力とは違う。脳の奥に強烈な痛みが鮫野木を襲う。この痛みは最初、この廃墟に来た時の頭痛と同じ痛みだった。

鮫野木淳

ぐっっ――あっ

 痛さの余り鮫野木は意識を失ってしまう。

 目を開くと、全て白くて小さな部屋に立っていた。ある物と言えば白い机と白い二つの椅子が置かれ、机には白いティーセットぐらいしか置いていない。椅子には女性が座っていた。
 その椅子に座っている女性と鮫野木の目が合う。鮫野木はその人に声をかけた。

鮫野木淳

……あの、ここは

若林命

ここは、うーん? 何処だろう。わからん

鮫野木淳

なんだよそれ


 ここは何処だろう? 何も無い、そしてこの人は誰だろう。知っているようで知らない。けど、忘れてはいけない人だったような。

若林命

それにしては変わったよな。お前、違うか変えているのか

鮫野木淳

どういう意味だ? 俺はあなたに会ったのは初めてだぜ? それにあなたは誰だ?

若林命

俺はお前と久し振りに会っているんだけどな。まぁ仕方ないか。そういう約束だしな

鮫野木淳

久し振り? 約束?

若林命

別に良いだろ。俺は若林命(ワカバヤシ ミコト)だ。鮫野木、会いたかったぜ


 若林は嬉しそうにしている。若林は俺と会ったことがあるようだが、覚えが無い。どうしてだろう?

鮫野木淳

えーと、ごめん。俺、君のこと覚えてないんだ。前、どこで会ったけ?

若林命

良いんだよ。そんな細かいこと

鮫野木淳

細かいって

若林命

ああ、相変わらずお前は細かいんだ。気になることはとことん調べるのに興味の無い、意識気が向いてない事は気付こうとしない。これじゃ小斗ちゃんが可哀想だ

鮫野木淳

どうして、小斗ちゃんを知っているんだ? もしかして、学校の同級生だったりする

若林命

今はそんなことどうでも良い。俺は親切に助言しに鮫野木、お前を呼んだんだぞ

鮫野木淳

助言ですか?

若林命

うん、よーく聞け。目が覚めたら全力で逃げろ! 良いな全力で逃げるんだぞ!

若林命

絶対、戦おうとするな。鮫野木一人で勝てる相手じゃねぇ

鮫野木淳

お、おう。分かった。逃げれば良いんだろ


 若林が強い口調で押されて、肯定するしかなかった。

若林命

なら良い。うん、行って良いぞ

鮫野木淳

何だよそれ、偉そうに

若林命

うるせい、俺が行けって言ってるんだ。後ろのドアから出て行け!

鮫野木淳

何だよ、それ


 後ろを振り向くと、白いドアがあるのが分かった。若林に急かされて鮫野木はそそくさと白いドアを開けて外に出て行った。

若林命

がんばれよ


 鮫野木が目が覚めると、床に寝転んでいる。体を起こして周りを見渡すと野沢のお父さんの部屋だった。家具が新しく物が綺麗に陳列している。窓からは日が入ってきている。どうやら、裏の世界に来たようだ。名も無き者の姿も確認した。ここが裏の世界で間違いない。

名も無き者

やあ、お目覚めだね。涙なんか流してそんなに痛かったかい?

鮫野木淳

嫌別に


 どうしてだろう? なぜだかとても会いたかった人と再会したような気がする。とても懐かしく、哀しい。

名も無き者

質問がある。君は――

鮫野木淳

逃げる?


 名も無き者が窓越しに外を見ながらな鮫野木に話しかけていたが、鮫野木は自分の脳に焼き付けたように逃げろ逃げろと繰り返し語り続ける言葉に気を取られて、名も無き者の声が耳に入ってこなかった。

鮫野木淳

……逃げてみるか


 鮫野木はその言葉に従うことにした。名も無き者が外を見ているうちに急いで部屋から出た。

名も無き者

――話は最後まで聞け、人間よ


 廊下を走っていると、物の影から黒い人の手のような物が鮫野木の足を掴もうと伸ばしてくる。その手に気付いて高く飛んだ。黒い手を飛び越えて後ろを気にすると、一体、二体と黒い影のような人の形をした化け物が現われていた。

鮫野木淳

アンノン

アンノン

……


 徐々に数を増やし、アンノンはぞろりぞろりと鮫野木を追いかけてくる。

鮫野木淳

今は逃げるしかねぇ!


 鮫野木は走って階段まで向い階段を駆け下りる。そのまま、玄関に向った。

鮫野木淳

おい、どうして開かないんだ!


 しかし、どんなに強く押しても扉は開かない。鍵は閉まっていないはずなのに、扉はビクともしない。後ろからはアンノンが降りてくる音が聞こえる。

鮫野木淳

こういうときに限って、開かないのはナシだろ!

鮫野木淳

あけぇぇぇ


 すると、扉は自然と開いた。突然、開いたことでよろけて倒れそうになる。

鮫野木淳

出れた? まあいい


 どうして開いたんだ、立て付けが悪かったのかな。そんなことはどうでも良い、今は逃げよう。

エピソード36 廃墟再び(3)

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