少しだけ……、気分が軽くなってきたような気がする。王宮医務室の奥にある寝台で目を覚ましたルイヴェルは、ぼんやりと天蓋の腹を見つめていた。
ふぅ……。
少しだけ……、気分が軽くなってきたような気がする。王宮医務室の奥にある寝台で目を覚ましたルイヴェルは、ぼんやりと天蓋の腹を見つめていた。
……もう、昼の三時は、まわっているな。
ユキは……、あの小さな王兄姫は、元気になっただろうか?
アイノスに任せていれば問題はない。
あれは子供の相手が得意で、特別な事をせずとも懐かれる存在だ。
だから……、ユキもアイノスと一緒にいれば、ルイヴェルとの一件など、すぐに忘れてしまうだろう。
子供とは、……そういう生き物だ。
ごめんね、ルイおにいちゃん……。
くそっ。
きっと、もう忘れている。
ルイヴェルを怒らせた事も、互いに気まずくなってしまった事も……。
だから、ユキの事など気にせずにゆっくりと自分の時間を過ごしていればいい。
だが……。
……俺の事を忘れるなど、いい度胸だ。
あの幼子に忘れられているかもしれない現実が、今、この場所に小さなぬくもりがない事が、堪らなく……、気に入らない。
……ふん。
いや、違う。自分は腹など立てていない。
あの幼い王兄姫がいない事ぐらいで……、寂しい、などという感情を抱いたりは。
苛立ちながら後頭部を掻き、ルイヴェルは寝台を出ようとした。――しかし。
……なんだ、この純粋無垢な視線の気配は。
……。
……。
視線の先でごそごそと動いた影。
ルイヴェルの前方、寝台の端に手をかけ、困った顔でこちらを見ている愛らしい少女。
小さく、頼りない声が……、「ルイおにいちゃん……」と、自分を呼ぶ。
……ずっと、そこにいたのか?
十分くらい、前から……。
……。
自分が目覚めるよりも前、か……。
距離を取られ、どこか怖がられているような気になりながら、ルイヴェルはどうしたものかと悩む。
一応、謝罪は受けている。
仲違いをする前の二人に戻ればいいだけだ。
……なのに、どちらも、口を噤んだまま。
……ユキ。
……ルイおにいちゃん。
こっちに来い。
そう促してやったが、なかなか動きが見られない事に……、ルイヴェルの中で苛立ちが募ってゆく。
もう、俺の傍には近寄りたくもない、という事か……?くそっ。
……あのね、ルイおにいちゃん。
話がしたいのなら、近くに来い。そのままでは、全然聞こえないからな。
う、うん……。
ルイヴェルが怒りを抑え込んでいても、幼子はそれを敏感に感じ取ってしまっている。
ユキは恐る恐る枕元まで歩いて行くと、やはり……、いつも懐いてやまない対象から僅かな距離を取って立ち止まった。
……図々しく寝台の中にまで上がり込んでくる威勢の良さはどうした?
あの、ね……。あの、ユキ……、もう一回、謝りに来たの。ルイおにいちゃんに、嫌な思い……、させちゃったから。
……。
本当に、ごめんなさい……。
……もう、怒っては、いない。
……でも、ユキの事、……嫌いになったでしょ?
誰もそんな事は言っていないが?
だって、言ったもん……。ルイおにいちゃん、さっき、寝てる時……、ユキの事、嫌い、って。いらない、って……!!
そんな事を言った覚えはない……!
さっきまで見ていた夢など覚えていない。
だが、たとえ寝言であっても、自分がこの幼子を嫌う事などあり得ない。
だとすれば……、考えられる可能性はひとつ。
断片的な寝言をユキが聞き間違えたか、変なところだけを繋げて受け取ったか。
どちらにしろ、余計な心配だ、それは。
ユキ、こっちに来い。
……ちゃんと、ここにいるよ?
そうじゃない。……ほら、来い。
これ以上の気まずい空気は願い下げだ。
幼子はきちんと謝った。自分も、怒ってはいない。
もう元の関係に戻ってもいいだろう?
焦る気持ちで両手を開いたルイヴェルに、しかし、ユキは怖がっている様子で足を引いた。
だが、ルイヴェルはその逃げの一歩を許さず、強引に自分の腕の中へと愛するぬくもりを抱き上げてしまう。
る、ルイおにいちゃんっ!!
怖がるな。何も、……何も、恐れる事はない。
……。
……うん。
腕の中で大人しくなったユキの頭を優しい手つきで撫でてやりながら、ルイヴェルは息を吐く。
俺が、お前を嫌うはずがないだろう……。
でも……。
俺は、お前を嫌ったりなどしない。
……。
嫌っている相手を、こんな風に扱えると、そう思うのか?
……ううん。
なら、少しは自信を持て。いつもは何も気にする事なく、俺を振り回しているだろう?
ゆ、ユキ、ルイおにいちゃんの事、振り回したりなんかしてないよ!!
ほぉ……。
自覚がないとは……、まぁ、子供らしい、か。
ルイヴェルがからかいの言葉をかけてやったお陰か、幼子は徐々に普段の調子を取り戻していく。
ルイヴェルの胸にムゥッと膨れた顔を押し付け、意地悪意地悪!!と可愛らしい抗議の声をあげる。
けれど、その声でも段々と小さくなっていき……。
……本当に、もう、怒ってない?ユキの事、嫌いじゃない?
俺の顔を見ていればわかるだろう?――大丈夫だ。もう、何も怒ったりはしていない。お前も、以前と変わらず、俺の気に入りのままだ。
……!!
まぁ、二度とヒゲに関するネタは聞きたくないが。
うん!!ユキ、もう言わない!!これからも、近所のおじちゃんにもふもふさせて貰って、ルイおにいちゃんには迷惑かけないようにする!!
……ほどほどに、な。
はぁ~い!!
よし。少々気に障る事はあったが、これで幼子との関係は元の良好なものに戻った。よし、よし!!
停滞していた気分がぶわりと盛り上がるのを感じながら、ルイヴェルがユキの小さな身体を抱き締めようとした。――だがしかし!!
あ、そうだ!!ルイおにいちゃんにお土産があるの!!あっちで皆と一緒に食べよう!!
…………。
先に行って待ってるね~!!
………………。
……………………。
……くそっ。
自分の許しを得て、愛情を再確認した時の、あの喜び様はどこにいった!?
子供特有の気まぐれさで、他の者達に可愛がられに行った王兄姫を扉の向こうに感じながら、ルイヴェルは行儀の悪い仕草で舌打ちを漏らし、後でどんな意地悪をしてやろうかと企み始めるのだった。
一週間後の、夜。
人がいっぱぁ~い♪ねぇ、お父さん、お母さん!!
他国からも大勢の人達が集まっているからね。私達とはぐれないように、ちゃんと手を繋いでおくんだよ。
さぁ、ユキ。おめかしをしたその可愛い姿を、皆に見て貰いましょうね~。
はぁ~い!!
無事にルイヴェルと仲直りし、幼子の心はどんより雲を蹴散らして、毎日がキラッキラの晴天日和だ。
今夜も週末を利用してウォルヴァンシアに帰還したユキは、女官達が張り切って着せてくれた薄桃色のドレスの裾をふわりふわりと揺らして歩いている。
叔父であるレイフィード王からの招待を受けて集まった、貴族や王族の人々。
誰もが小さな王兄姫殿下を微笑ましい目で眺め、見守っているようだ。
ユーディス殿下、夏葉様、ユキ姫様、ご機嫌麗しゅう。
あ!!セレスおねえちゃんだ~♪こんばんは~!!
ユーディス殿下、夏葉様、ユキ姫様。今宵、ひとときの夢夜を御一緒出来る事、光栄に思います。
やぁ、セレスフィーナ、ルイヴェル。フェリデロード家の華と柱に、良き夜を。
良き夜を。
有難うございます。
有難うございます。
きゃっきゃっ!!素敵な夜を!!なの~!!
美しい双子の王宮医師や両親、会場に集まっている人々の煌々しさにはしゃぐユキ。
何度か体験している社交の場で、今宵もまた、王兄姫殿下を素敵な夢に誘う楽団の音色が響いた。
一時間後。
~~♪~~♪♪
親の言いつけもどこへやら。
幼い王兄姫殿下はいつのまにか親とはぐれ、自分なりの楽しみ方で会場内を歩き回っていた。
色とりどりのドレスで着飾った綺麗な女性達、それをエスコートしてダンスに興じている紳士的な男性達。会場の端に並べられたテーブルを、背伸びをして覗き込んでみると、美味しそうな食事や菓子、果物の類が置いてあった。
ジュース!!
オレンジ色をしたそれが酒の類だと知らない幼子が必死に手を伸ばす。
おやおや、いけませんぞ~、王兄姫殿下。
な、何!?
もう少しでジュースがGET出来る!!
期待にわくわくしたユキの背後から、大きく長い手が伸びてきて、ジュースを奪ってしまった。
振り返ると……、何やらダンディな香りのする逞しい貴族風の男性が。
これはお酒です。お・さ・け。子供にはまだまだ早い。さぁ、こちらのジュースで我慢なさいませ。
あ、ありがとうっ。……おじちゃん、……おっきぃねぇ。
エリュセードの人々は、基本的に長身で身体つきもしっかりとしている者が多い。
その中でも……、ユキにジュースを手渡してくれた男の身体は、まさに……、熊!!
笑顔を向けられているのに、凄い圧迫感だ。
はっはっ!!誰でも鍛えればこのくらい!!
ついでに、声も馬鹿でかい。
鍛えたらいいの?鍛えたら、ユキもおっきくなれる~?
勿論ですとも!!はっはっはっ!!
この場に過保護な面々がいれば、「ウチのユキをマッチョにするなど許さん!!」と、全力で妨害が入った事だろう。
――あぁ、そうだ。挨拶が遅れて申し訳ありません、王兄姫殿下。私はフェリデロード家の血に連なる者。ロドルと、申します。どうぞお見知りおきを。
ロドルおじちゃん!!ユキはね、ユキっていうんだよ~!!よろしくね!!
はっはっはっ!!王兄姫殿下に名を呼んで頂けるとは、有難き幸せ!!お近づきの印に――。
全身から優しい無害なおじさんオーラを漂わせているロドルに気を許していると、ユキはその腕に抱き上げられた。逞しい体躯、その肩に、ぽふんっとユキの小さなお尻が着地する。
わぁ~!!すごいすごぉ~い!!よく見えるね~!!
二メートル以上の伸長と大きな体躯のロドルと、その肩に乗ったユキのはしゃぎ様に、少しだけ会場内にざわめきが走る。
あの愛らしい王兄姫殿下に気に入られた幸運な者。
だが、ロドルは好奇の視線も、その興味を気にしていないように、ドカドカと会場内を歩き始めた。
きゃっきゃっ!!ロドルおじちゃんはすごいね~!!皆より上の景色が見えるよ~!!
お気に召したようで何より!!あぁ、そういえば、この間耳にしたのですが。
なぁに~?
ユキ姫様は、『ヒゲ』に御興味がおありとか?
うん!!もっふもふのおヒゲが大好きなの~!!
おおおおおおおっ!!それはそれは!!――ではっ。
?
――っ!!今……、とてつもなく、嫌な悪寒が!!
わ、私もなんだけど……、ルイヴェルっ。
会場内の真ん中で共にダンスを踊っていた王宮医師の二人が同時に嫌な予感を覚え、素早く視線を走らせた矢先。
…………。
……嘘でしょぉっ。
優雅に夜会を楽しんでいた参加者達が一斉にあげた悲鳴。ルイヴェル達の瞳に、化け物さながらの勢いでドバァアアッ!!と飛び出してきた……、トゲトゲだらけの『ヒゲ』がのたうちまわる。
初めての対峙ではない、……忌まわしき、過去の記憶。ルイヴェルは眉根をぐっと深め、双子の姉と共に化け物のいる場所へと走り出す。
……ご説明願えますか?ロドル殿。
ロドル様……。何て事をっ。
人混みを蹴散らして現場に駆け付けた二人は、……見てしまった。自慢のもっふもふ、いや、鋭く尖った凶器のような大量のヒゲを生やした、親戚の男を。
どう見ても、タダのヒゲじゃない。
生きているかのように蠢くヒゲ触手と、それにぎゅぅぅっと巻き上げられて目をまわしている……、小さな王兄姫。
恐らくは、ロドルが自慢としているこのヒゲを披露されてしまった事によるショックだろう。
ルイヴェルの目に、一瞬で殺意の火が灯る。
きゅぅ~~……。
ロドル殿……、手加減なしで、いいですね?
へ?
流石に……、ユキ姫様にまで被害が及んでしまいますと……。申し訳ありません、ロドル様。
ん?私はただ、自慢のヒゲを……。
少しは学習しろ……。――このド阿呆が。
その夜、フェリデロード家の次期当主の怒りに触れた善良なるロドル氏は、――星となった(笑)
うぅ~、うぅぅぅ~。お、おヒゲ……、おヒゲ、怖いのぉ~っ。
はぁ……。あの親父め。ユキにまでトラウマを植え付けるとは……、次にやったら、確実にトドメを刺してやる。
大パニックの場と化した夜会の収拾がつき、ようやく自分の寝室で休める事になったルイヴェルは、ちゃっかりと攫ってきた幼子を先に休ませ、自分はその隣で頬杖を着いていた。
凶器としか言えない化け物級のヒゲの持ち主。
それが、幼き日のルイヴェルにトラウマを植え付けたロドルだ。
あのヒゲさえ出さなければ、本当に隅から隅まで善良な男なのだが……。いかんせん、ヒゲにこだわりがありすぎる。
ルイおにいちゃ~ん……っ。たす、たすけ、てっ、うっぷ。
……やはり、今からトドメを。
悪夢にまで苛まれるとは……。
幼き日の自分とまったくの同一。
酷似しているその姿に胸を痛めながら、寝台を抜け出してロドルへの追加報復へと向かおうとしたルイヴェルだったが、腕にしがみついてきたぬくもりを前には、退ける事など出来ない。
まさか、あの男まで出席しているとは思わなかった……、俺のせいだ。
ロドルはフェリデロード家の性質の内、医術には染まっているが、魔術による攻撃よりも、体力馬鹿としての能力の方が高い男だ。
加えて、修行好きの放浪好き。
滅多に王宮の夜会になど顔を出さなかったというのに……、誤算だった。
知っていれば、ユキを片時も傍から離さず、いや、早々に夜会の席を辞して連れ出していたものを。
んにゃ……。ルイおにいちゃん。ふふ。
今度は何の夢を見てるんだ……、お前は。
お空……、たかい、……たかぁ~い。
…………。
……魘されなくなったのなら、いいだろう。ふあぁぁぁぁ、……寝るか。
今夜はもう、二度と悪夢を見ないように。
ヒゲと無縁でいられるように、ルイヴェルは愛しいぬくもりをしっかりと抱き締め、その頭を撫でながら眠りについたのだった。
明日は休日の続きだ。今夜の事などすぐに忘れてしまえるように、ユキを楽しい場所に連れて行ってやろう。
ルイおにいちゃん……、むにゃむにゃ、大好き~。
よし、明日は有名なプリン専門店に連れて……。
レイちゃん、アイノスおにいちゃん、セレスおねえちゃん……、皆、大好き~。
……ほぉ~。
予定変更。
明日は、ユキの苦手そうな施設や食事を選び、教育的な指導に勤しむ事にしよう。
……大人げない。あまりにも、大人げない。
だが、今この場に、ルイヴェルの狭量な考えに文句をつけられるものは、誰もいなかったのだった。
~おヒゲの話~