良く晴れた朝。シャルルは目を覚ましてすぐ、ベッドから身を起こした。
良く晴れた朝。シャルルは目を覚ましてすぐ、ベッドから身を起こした。
服を着替え、カーテンを開け、部屋の中にある大きな姿見の前に立つ。
ウェーブのかかった金色の髪を持つ十三歳の少年の全身が姿見に映る。
身だしなみよーし
そう呟いて、彼は部屋を出ていく。
俺から見ると、あまり『身だしなみよし」ではない。
髪の右側に寝癖がついているのだが、シャルルは気に留めていないらしい。
読者諸兄は疑問に思ったかもしれない。
シャルルはいいとして、俺は、つまり真庭啓太はどこにいるのか、と。
俺は今、シャルルの中にいる。
ただし、先ほど自室のドアを開けて廊下を駆け足気味で通り過ぎ、今ダイニングで両親に「おはよー」と挨拶している少年は俺ではない。シャルルという別人格だ。
この、両親や他のみんなから『シャルル』と呼ばれている少年の身体の中に、シャルルと俺、二人の人格が共存するようになった経緯については、まあそのうち語る機会もあるだろう。
あらシャルル坊ちゃま。
ちょうどパンが焼けたところです。
お持ちしますね。
頭に猫耳を生やした女性が、台所からちょっと顔を覗かせてそう告げると、素早く台所の方へ踵を返した。ターンする際に、尻尾が遠心力に引っ張られて大きく弧を描く。
そう、彼女は、俺が前世を過ごした世界のラノベに出てくる「猫人族(ウェアキャット)」的な姿をしている。もちろんコスプレじゃなく、耳も尻尾も本物だ。
このセシルのような猫人族はこの世界では珍しくなく、人間の街で人間と共に暮らしたり、猫人族だけで村を作ったりしている。
どうぞ召し上がれ……
あら坊ちゃま、お髪(ぐし)が乱れてらっしゃいます
香ばしい匂いをさせながら、トーストしたパンをお盆にのせてダイニングに現れたセシルは、シャルルの寝癖に気付いたようだ。お盆をテーブルに置くと、シャルルの方へ駆け寄っていく。
きゅむ
シャルルの全身が柔らかいものに包まれるのが、同じ身体の中にいる俺にも感じられる。セシルが彼を優しく抱きしめたのだ。
そのままセシルは、彼の髪を舐めて毛づくろいを始める。
ちょっ、セシル!
くすぐったいよ!
慌ててシャルルは、セシルの腕を振り払って彼女から離れる。
彼は『くすぐったい』と表現したが、実際に彼の身に生じた感覚は、もっとぞわぞわしたものだ。
こそばゆいという程度のものではなく、もっと強いというか、刺すようにすら感じられるくすぐったさだ。
他人に頭を舐められるなんて普通は滅多にないことだからかもしれない。
申し訳ありません坊ちゃま。
どういうわけか坊ちゃまを見ていると、つい猫基準で可愛がりたくなってしまうのです
そう。なぜセシルがシャルルに対してこんなに過剰にスキンシップを取るかというと、セシルが猫だからだ。俺が転生前に願った『猫に好かれたい』という希望が受理された結果だ。
さっき俺はセシルのことを『猫人族』と形容したが、正確には彼女は『猫』だ。
人間と猫の中間としての『猫人族』という概念は、その世界に人間と猫がいて初めて成立する。この世界には彼女らのような、人間に猫の耳と尻尾を付けたような種族の他には『猫』が存在しないのだから、『猫人族』などという概念が生まれようはずがないのだ。
俺は十三年前、転生してくる直前の竜女さんの台詞を思い出す。
猫? いるわよ。大きいのがゴロゴロと
大きいのが、か。確かにね。
メインクーンくらいの大きさかと思ったけど、まさか人間サイズだったとは。
前世では猫耳美少女が出てくるアニメやラノベに耽溺していた俺としては、セシルみたいな美人猫耳女性にベタベタされるのは嫌いじゃないんだけど、期待してたのはこれじゃない。
やっぱり普通の猫に甘えられたい。
ごちそうさまー
俺がそんなことを考えている間に、シャルルは朝食を食べ終わったようだ。すぐに席を立って、廊下へと歩み出る。
自室へと戻ろうとして、廊下の隅に何やら、影のようなものがわだかまっているのを見つけた。驚いてよく見ると、大きさがシャルルの頭くらいある大ネズミだった。ネズミはシャルルに気づいて逃げるどころか、逆に素早い動きで襲い掛かってきた。
うわっ!
坊ちゃま!
下がって!!
ダイニングから駆け付けたセシルが、シャルルとネズミとの間に割って入る。天敵の姿を見とめたネズミは、臨戦態勢に入った。全身の筋肉が隆起し、身体が一回り、いや二回りは大きくなる。
後ろ足で強く床を蹴って、ネズミはセシルに飛びかかった。セシルは魔法障壁を展開して防御する。
ネズミの周囲に数個の火球が生まれ、セシル目がけて飛んでいく。ネズミ達が好んで使う最も基礎的な火属性の魔法だ。
しかしセシルは既に、対抗する呪文の詠唱を始めている。ネズミといえば火属性の下位魔術しか使わないのだから、その魔術を打ち消すかのような効果のある魔法をあらかじめ用意しておくことは簡単だ。
氷結魔法!
ネズミの放った火球は、セシルの魔法によって生じた冷気によってかき消された。冷気はその後もどんどん強力になって、たちまちネズミはカチコチに凍ってしまった。
ありがとうセシル。
助かったよ。
この世界の猫が大きく、人間の言葉を話したり聞いたりもでき、魔法まで使えるのには理由がある。
三千年ほど前まで、猫は俺の前世の世界と同じように、膝の上に乗るような大きさのものしかいなかったという。もちろん人語も解さず魔法も使えなかった。
その頃はネズミも俺が前世でよく見知っているものと大差なく、猫はネズミを捕まえて子猫のおもちゃにしたり、あるいは食べたりと有効活用して生きてきた。
しかし今から二千八百年前、『ネズミの魔獣化』という現象が起きた。ネズミが急に大型化、凶悪化し、下位の火炎魔法まで使うようになった。
そして凶悪かつ強力になったネズミたちは、今までの恨みを晴らすがごとく、人間と猫たちへの攻撃を開始した。
この『ネズミの魔獣化』により、ネズミの反撃を受けた人間と猫たちは危機に直面した。とりわけ猫は、海沿いの地域ではほぼ絶滅したという。
人類はもちろん手をこまねいていたわけでない。ネズミが強くなったならば、それを超える猫を作り出せばいい。大陸中の腕利きの魔術師たちが力を合わせ、強力な秘術で猫を強化した。
ネズミたちが魔術を使うので、猫も魔術を使えるように、人語を話せる口、魔術を理解できる知能を授けた。大型化したネズミに負けない人間大の身体も。そして、様々な武器を扱えるように、直立二足歩行を可能にし、前肢の指を長く、物を掴みやすい形状に変化させ……。
そうして、『対ネズミ用人工魔獣」として作り出されたのが、セシルをはじめとする今の猫たちなのだ。
大丈夫でしたか坊ちゃま。
ネズミを駆除したセシルが、まだ怯えているシャルルを優しく抱きしめる。
セシルは確か今年で三十歳。割と美人、いや美猫だし、享年二十九歳だった頃の記憶を持つ俺としては十分にストライクゾーンなので、抱きしめられるのは純粋にうれしい。
ところがシャルルから見ると、セシルは自分が生まれる前からこの家で飼い猫として暮らしている、年齢が自分の倍以上の女性だ。
歳の離れた姉どころか、もう一人の母親くらいに感じている。十三歳の男の子ともなれば母親に過剰にベタベタされるのは嫌うもの。身をよじってセシルの抱擁から抜け出す。
もう! 僕はもう子供じゃないんだからほっといてよ。学校行ってくるね!
そう言ってシャルルは一旦自室に戻ると、床に放り投げてあった鞄を引っ掴み、家を出て行った。