そういうと、姫島先生は机の引き出しから便箋とボールペンを取り出した!

姫島由紀子

私から手紙を書くわ。住所は分かるよね?

有馬 明

住所っていったい誰の・・・?

姫島由紀子

ミトンちゃんのお父さんに決まってるじゃない!

俺は、姫島先生の突拍子もない発言に驚愕した!あいつに手紙なんか書いても破り捨てられるのがオチじゃないのか!

有馬 明

えっ・・・!そりゃ分かりますけど・・・

有馬 明

そんな手紙一つで説得できるとは思えません

姫島由紀子

フフ、分かってないね君は・・・

姫島由紀子

確かに、こういうオヤジは「姫島由紀子」なんていう40過ぎのオバサンの手紙なんか絶対無視するでしょうね・・・。

姫島由紀子

でも、ショパンとチャイコフスキーどっちも入賞した音大教授様が、突然、自分の娘を激賞し始めたら絶対尻尾振って喜んで来るわ!

そうだった・・・。姫島先生は世界三大コンクールの二つで入賞しているんだった・・・。在学中はいつもテルミンと無調の現代音楽ばかり教えていたせいで、俺はその事実をすっかり忘れていた。

姫島由紀子

有馬君、いいこと?こういう権威主義のハゲにはね、職位や受賞歴みたいな堅苦しい肩書が一番効くのよ!

有馬 明

なるほど・・・そうなんですか!

その後、姫島先生は30分ほどかけて、丁寧な文体で直筆の手紙を書いて下さった。手紙の内容はこうだ。


教え子から話を聞き、彩音さんの演奏の様子を見たが大変素晴らしい!この子ならば、私でも果たせなかった世界三大ピアノコンクールの制覇ができると確信している。ついては、学長に頼んで特別に入学を許可するので、私の下でピアノを学ばせたい。
まずは、来月開催予定のメチャヒケール国際ピアノコンクールに招待するので、ぜひ参加して演奏してほしい!

用意周到な姫島先生は、観音寺に疑われてもいいように、わざわざ手紙に名刺と自分が受賞した時のCDまで同封していた・・・。これで、とりあえず観音寺は差出人の名前は信用するだろう。

有馬 明

しかし、いきなりメチャヒケールに呼び出すなんて・・・ちょっと無謀すぎやしませんか?

姫島由紀子

大丈夫でしょ!あんなマイナーな大会、ほとんど客も入らないし

メチャヒケール国際ピアノコンクールは、2年に一度東京で開催される現代音楽のコンクールだ。
演奏されるのは難解な現代曲のピアノ曲ばかりなのであまり人気はなく、聴衆はせいぜい300人も入ればいいところ。

しかし、その聴衆は高名な音楽評論家や有名ピアニストなどが多数を占める、いわば業界向けの極めてハイレベルなコンクールだった。

姫島先生は、運営に知り合いも多く、過去に審査委員長も務めているので、大会に観音寺彩音をねじ込むことなど朝飯前だろう・・・。

だが、そこで評論家ぞろいの聴衆を満足させるとなると、正直、俺はかなり不安だった・・・。あの夜のような演奏をもう一度ステージで演ってくれれば、間違いなくグランプリ確定なのだけれど・・・。

とはいえ、姫島先生に頼んだ以上、俺にできることは先生に従ってついていくことだけだ・・・。

有馬 明

ところで、先生は観音寺彩音が入学したら本当にピアノを教えるつもりなんですか?

姫島由紀子

するわけないでしょ!そんな面倒なこと・・・

有馬 明

ええっ、そんな・・・

姫島由紀子

とにかく一度、コンクールに引っ張り出して、公衆の面前で演奏させればいいのよ!

姫島由紀子

これだけの才能ですもの。私が放っておいても他が黙っちゃいないわ。

そういうと、姫島先生は豪快に笑った!
学生時代に何度も励まされた姫島先生の笑顔を久しぶりに見て、俺も何だか上手くいきそうな気がしてきた・・・。

何かあればすぐに連絡するから!
そう姫島先生は伝えて下さったので、その日は俺は引き上げた。

だが、それから一週間たっても・・・、一か月経っても姫島先生からは何の連絡もなかった・・・。

リハーサルの日もゲネプロの日も何の音沙汰もないまま、ついにコンクール当日の朝を迎えることになった・・・。

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