アニカ

はーい、そしたらね。
その次は、あたしら四大精霊の民は護符を燃やすんだけど、メレクの信徒の場合は……

あたしは、エリザがくれたメモを読む。

アニカ

メレクの信徒の場合は呪文を唱えます。
ど、どぅあ、ぷらいえ? じゃない、ぷらいーる……

ドゥア・プライール・メレクスだろ。
「我、メレクに祈りを捧ぐ」の意味だ

アニカ

そ、そうそれ。
それを唱えて精神を集中すると、魔石に魔力を込めることができます

集会所に集まった、おじいさんから子供まで様々な人たちが、口々に呪文を唱え、魔石に祈りを込めていく。

魔力が空になっていた魔石たちに、再び魔力が込められていく。

エリザ

ただいま戻りました

大きな麻袋を担いだエリザが、集会所へ入ってきた。床に下した麻袋から、重そうなガラガラという音が聞こえてきたところを見ると、今日もうまくいかなかったのだろう。

アニカ

買ってもらえなかったかぁ……

エリザ

ええ、相変わらず。
「天上教の教会のライトアップに、異教徒が魔力を込めた魔石など使えない」の一点張りでした

フォルケールに、五日でミタン人の犯罪を減らすと宣言した翌日からもう三日目になる。
この三日というもの、あたし達はずっとこんな調子だった。

「こんな調子」というのは、つまり職にあぶれて困っているミタン人たちを集めて、魔石への魔力の注入方法を教えているのだ。そして、そうやって魔力を込めた魔石を、教会のライトアップに使ってもらおうという計画だ。

以前、教会前で街の人に教えてもらった通り、教会のライトアップには大量の魔力燈が使われており、魔力燈の光源として使われ魔力を使い果たした魔石は修道士たちが魔力を込め直しているのだが、これが修道士たちの大きな負担となっていて、このままだとライトアップ自体を廃止しなければならないところまで来ている。

一方、魔石に魔力を込める事自体は天上教徒以外でも、あたしのような四大精霊信仰の民でもメレクの信徒でも方法さえ知っていれば可能だ。だから、修道士たちの代わりに、仕事のないこの街のミタン人達に魔石に魔力を込める仕事をやってもらえばいい。

そうすることでミタン人は仕事と収入できる。結果貧困が原因の犯罪は減るだろう。という計画なのだが、肝心の教会が異教徒が魔力を込めた魔石を拒むとあっては……

アニカ

そもそも、ミタン人の貧困の原因が彼らに対する差別なんだから、これは当然予想できた展開だよね

修道士たちの負担になっている魔石に魔力を込める作業を、街のミタン人失業者に委託する。双方にとって利益となる理想的な取引だが、win-winの取引だからと言ってすぐに買ってくれるのであれば、あたし達が音頭を取らなくてももっと以前から自然にそういう関係が築かれているだろう。

どれだけ売り込みをかけても、教会は異教徒が魔力を込めた魔石を買おうとしない。そんなものを買うぐらいなら、ライトアップ自体を廃止する方がましだというのが彼らの見解だった。

アニカ

やっぱさー、五日で犯罪を減らすっていうのが無理だったんじゃないの?
五年くらいかけないと無理だよこれ

ミタン人の犯罪を減らすために、彼らの貧困をなくす。そのためには、天上教徒たちによるミタン人への差別や偏見を取り除く必要がある。それを本気でやろうと思ったら、五年あっても難しい。

それを五日で犯罪を減らすなんて言ってしまったものだから、いろいろと無理をせざるを得ない。

一番の問題はお金だ。魔石が教会に売れない以上、あたし達には魔石による収入は一円も入ってこないわけだが、一方であたし達はミタン人に魔石への魔力注入方法を無料で教え、彼らが魔力を込めた魔石を即金で買い取っている。

すぐに犯罪を減らすためには、彼らに今日明日のパン代を支払ってやらなければならないので仕方がないのだが、その支払うお金は借金して工面せざるを得ない。

魔力の込め方を教えるために使っているこの集会所も無料では借りられない。その使用料も借金して支払っている。このまま魔石が教会に売れなければ、あたし達は破産してしまう。

エリザ

この問題に五年もかけている間に、ヴァルターが魔王を倒してしまうかもしれません。私達には、やるべきことがたくさんあるのですよ

アニカ

そうだね。
それ以前にフォルケールが五年も待ってくれないだろうしね

無理があると言うなら、そもそもあたし達の大目的である、争いをなくすというの自体が無理なのだ。無理だと不平を言う前に、やれるだけ頑張ってみるしかない。

ヘカテー

あ、アニカさん達。
ここにいたっすか

その時ふいに、集会所の窓からヘカテーがひらひらと飛んできた。

アニカ

あれ? ヘカテーちゃんだ。
久しぶりだねー

ヘカテー

ちょりーす……

エリザ


なんだか元気がないですね

ここしばらくヘカテーはあたし達の前に現れなかったのだが、久々に会った彼女はどこか疲れているようだった。小さいからわかりにくいけど、目の下にクマが出来ていて眠そうだ。

ヘカテー

それがっすねー。聞いてくださいよ。
巡礼騎士団のマルク様とお近づきになりたいなーと思って、チャンスを窺がっていたんすが

ヘカテーの話によると、彼女はここ数日、マルクと恋仲になるためのきっかけを作るべく、人間には姿が見えなくなる魔法を使って、ずっとマルクのそばを飛び回って隙を窺がっていたのだそうだ。

ドリアードは気に入った男性を、ふと一人になった時や眠っている時などにそっと声をかけ、誰もいないところに呼び出しては逢瀬を重ねるのだが……。

ヘカテー

マルク様、いや、他の騎士様達もそうですが、修道士の仕事と騎士の仕事があるので忙しすぎるんす。街の警邏は二人一組だし、修道院内でも夜遅くまで他の人と一緒に仕事仕事で一人になんかなりやしないっす

ヘカテー

夜、寝静まった頃を狙おうにも、夜遅くまで仕事した上、朝も夜明け前に起きるもんだから、短い時間に深く眠るんすよ。声をかけても起きやしない

そんなこんなでマルクをどうにか連れ出そうと日夜努力を重ねた結果、ヘカテーは眠る暇すらなかったらしい。全く骨折り損のくたびれ儲けっす。と彼女はため息をついた。

アニカ

そりゃご苦労様。
ところでマルクと言えばさ、魔石を買ってもらえるように、マルクに口利きを頼めないかな

こないだミタン人の子供を殺そうとしたフォルケールを止めに入ったマルクなら、ミタン人に対する差別的な感情はあまりないだろう。巡礼騎士団の騎士様に口利きしてもらえれば、教会も魔石を仕入れてくれるかもしれない。

ヘカテー

無理だと思うっす。
フォルケール様と一悶着起こしてしまった結果、マルク様は騎士団で、いや、修道院内で浮いた存在になりつつあるっす。彼の口利きじゃ聞いてもらえないと思うっす

そうなると、やはりあたし達でなんとか教会を説得するしかないのだろうか。

アニカ

じゃあ、今度はあたしが教会と交渉してくるよ。メレクの信徒じゃない分、いくらか態度が軟化してくれるといいけど

そういってあたしは、魔石の入った麻袋を担いで、教会へ向かった。

教会へと歩く道すがら、白いマントの二人組とすれ違った。

マルクと、もう一人別の巡礼騎士団だ。街中を警邏中なのだろう。

マルク

あ、ヨハンさん、エドゥアルドさん、
お疲れ様です

四つ辻で、同じく警邏中の巡礼騎士団二人組と鉢合わせ、マルクは挨拶をする。

巡礼騎士団

ヘルマンさん
お疲れ様です。

挨拶された騎士たちは、マルクと目を合わさず、マルクの横の騎士だけを見て挨拶する。ヘルマンというのが、マルクと組んでいる騎士の名前なのだろう。彼も会釈を返す。

無視された格好になったマルクは、ショックだったのだろう。呆然とした表情で立ち止まった。彼の相棒はそんな彼に気付かない様子で、どんどん歩いて行ってしまう。
やはりヘカテーの言う通り、騎士団内でマルクは浮いているらしい。

グレーテル

お兄ちゃん……

そんなマルクの元へ、グレーテルが歩み寄ってきた。どうやら近くで一部始終を見ていたらしい。

マルク

あはは、見られてたか。
どうやら俺は、仲間から良く思われていないらしい

照れ隠しの、ばつの悪そうな笑みを浮かべるマルクに、グレーテルは問いかけた。

グレーテル

異教徒なんかの味方するからだよ……
どうしてお兄ちゃんは異教徒の、それも罪人なんかの味方をするの?

問われてマルクは、照れ笑いから満面の笑顔に変わった。

マルク

お兄ちゃんは悪い子なんだよ

グレーテルが、何か大事なことを思い出したように、ハッと息を飲んだ。

マルク

神様に従うならば罪人には罰を与えるべきだとしても、お兄ちゃんは悪い子だから神様に従わないんだ。

マルク

そんな悪い子のお兄ちゃんは、異教徒の罪人とおんなじだ。彼らも俺も、罪にまみれている。だから、彼らを蔑む権利は俺にはないんだ

そう言って、マルクは誇らしげな笑みを浮かべたまま、相棒の騎士を追って歩き出した。

その場に取り残されたグレーテルの頬を、涙が伝っているのを見つけて、あたしは彼女に歩み寄った。

アニカ

ちょっと、グレーテル大丈夫?

グレーテル

……?
ああ、アニカか

グレーテルの涙をハンカチで拭ってやると、グレーテルは「すまない」と弱々しくつぶやいた。

アニカ

マルクさんの事ならきっと心配いらないよ。ほら泣き止んで

グレーテル

心配だからとか、悲しいから泣いているんじゃないんだ。
……思い出したんだ

涙声で、彼女はぽつりぽつりと語り始めた。

彼女は以前、マルクに訊いてみたことがあるという。「どうしてお兄ちゃんは、私達のような貧しい孤児の面倒をみてくれるの?」と。

世間知らずの幼児だった彼女が、だんだんと世の中の色んな事を知っていった頃、たまたま貧民街の外に出た時に、通りがかった貴族に「貧民街の孤児など汚らわしい」と罵倒されたのがきっかけだった。

彼女はその時初めて、貴族達から見れば自分達は汚らわしい存在なのだと知った。と同時に疑問がわいてきた。なぜマルクは、貴族なのに孤児と対等に接するのだろう。

問われたマルクは、ちょうどさっきの様な優しい笑みを満面に浮かべながら、こう答えたという。

マルク

お兄ちゃんは悪い子なんだよ

マルク

だから、正しい貴族は貧民街の孤児と比べて遥かに気高い存在であるべきで、気高いゆえに孤児たちを汚らわしいと感じるべきだとしても、俺はそうではないんだ

マルク

そんな悪い子の僕は正しい貴族、気高い貴族とは違う。俺は君らとおんなじだ。君たちと同じ、彼らから見れば汚らわしいと感じられるような存在なんだ。

先ほどのマルクの言葉で、グレーテルはその時の事を思い出したのだという。

グレーテル

泣いたのは哀れみからではなくて、そんな大事な思い出を忘れていた自分が情けなかったからなんだ。
ところでアニカ、その袋は何だ?

アニカ

この袋? 魔石だよ。
実はかくかくしかじかで……

あたしはグレーテルに、事の顛末を話した。フォルケールとの約束で、五日以内にミタン人による犯罪を減らす約束をしたこと。そのための方策として、仕事のないミタン人に魔石に魔力を込める仕事を与えていること。

そして、ミタン人達が魔力を込めた魔石を教会に買い取ってもらうべく交渉に行くところなのだが、交渉は今のところ難航中だということ。

グレーテル

そうか……。ミタン人はおしなべて魔力が強い者が多いからな。魔石に魔力を込める仕事には向いているだろう。
よし、私も一緒に、教会と交渉しよう

アニカ

えっ!?

グレーテルからの意外な申し出に、あたしは思わず声をあげて驚いた。異教徒を忌み嫌っていた彼女が、ミタン人のために教会と交渉してくれるなんて。

グレーテル

何をしている? 教会に行くのだろう? さっさと行くぞ

教会のある街の中央を目指してずんずん歩くグレーテルを、あたしは慌てて追いかけた。

修道院長

なんど来ていただいても、異教徒が魔力を込めた魔石など使えません

いかめしい面構えをした修道院長は、見た目通り意固地だった。こちらからのお願いに、全くとりあうそぶりを見せない。

アニカ

どうしてそこまで、異教徒を避けようとするのですか?

修道院長

知れた事。彼らは神の意志に従わず、悔い改めることもしない連中です。正しい道を歩まぬ悪党どもです

グレーテル

……だとしたら、私も悪党という事になります。

あたしと修道院長の押し問答を聞いていたグレーテルが口を挟んだ。

グレーテル

私は神に仕えるシスターでありながら、もう何年も前から、ある殿方をお慕い申し上げております

突然の告白に修道院長は少し動揺したようだが、やがて静かに反論した。

修道院長

あなたが己の罪を認め、悔い改めるならば、神はお許しくださいます

グレーテル

何度も改めようとしました! しかしできなかったのです。思いがけずこの街で、数年ぶりにその殿方と再会した時、私は胸の高鳴りを抑えられませんでした!

グレーテル

天上教の神は、姦淫についてこう規定しています。もし汝の目が汝をつまずかせるなら、えぐり出して捨てよと! 彼を見るたびに恋慕の情が抑えられないなら、私は目玉をえぐり出すべきなのです。そうしない私は異教徒と同じ、神に従わぬ悪党です

修道院長は黙ってしまった。目が見える事で姦淫への誘惑を断ち切れないならば目をえぐり出せとか、そこまで忠実に神の教えを守っている人間など、誰もいないだろう。

グレーテル

人は皆、等しく罪人なのではないでしょうか?
我々は天上教徒だから優れていて、ミタン人は異教徒だから劣っているという事はなく、我々は神から見れば等しく罪にまみれているのではないでしょうか

グレーテル

そして、罪にまみれているからこそ、今日は昨日より、明日は今日より清くあろうと努力できる。その心は、異教徒も持っています。それが証拠に、どんな宗教もそれぞれモラルを規定していて、それらのモラルは大筋の部分ではそれほど差がありません

あたしはグレーテルの高説を聞きながら、それが修道院長を説得できるかどうかよりも、とにかくその言葉がグレーテルの口から出たことを嬉しく思った。異教徒、特にメレクの信徒であるエリザに厳しかった彼女が、異教徒をこれだけ弁護してくれている。

彼女の変貌ぶりを喜ぶと共に、彼女を変えてくれたマルクにお礼を言わなきゃな、と密かに思った。

修道院長も、彼女の演説に感じ入るところがあったのだろう。しばらくその言葉の意味を噛みしめるように無言で考え込んでいたが、やがて厳かに口を開いた。

修道院長

わかった。
魔石は買い取らせてもらう

アニカ

本当ですか!?
ありがとうございます!

あたしはテーブルに頭をぶつけそうになるほど深くお辞儀をして感謝を表明すると、細かい交渉に入った。今あたし達の持っている魔石を買い取ってくれるのはもちろんだが、教会は今後、あたし達に魔力切れの魔石を払い下げ、その魔石にミタン人が魔力を込めて、あたし達を介してまた教会に買い取ってもらう契約が結ばれた。

ミタン人と教会との間に仲介者としてあたし達が入るのは、今までかかってしまった費用を回収するためなのだが、契約が無事履行されれば二・三日で費用は回収できる見込みなので、それからは教会が直接、ミタン人と取引するという約束も交わされた。

契約が成立した翌日、あたしとエリザは、今回の成功の功労者であるグレーテルとマルクを招いて、彼らへの感謝を込めてささやかなパーティを開いていた。

会場はあの、「雪の福音亭」だ。まだ借金の残っている身で利用するには気が引ける高級店だが、まあ、今日ぐらい贅沢しても罰は当たらないだろう。

アニカ

マルクさん、グレーテル。
本当にありがとう。おかげで何とかうまく行きそう

マルク

え、いや……
俺は何も……

エリザ

そんな事はありません。
お二人のおかげで、私たちは大業をなす事ができたのですよ

グレーテル

そ、そうか。お前らがそう思ってくれているのはありがたいのだが……
すまんがあまり長居する訳にはいかんのだ。勇者から「この街を出る日が近づいているから、今晩はそれについての打ち合わせをしたい」と言われていてな

アニカ

いーじゃんそんなのバックレちゃえば。ヴァルターなんて捨てて、あたし達の仲間になろうよ。

麦酒を飲んで少し気が大きくなっているあたしは、勢いに任せてそんな勧誘をしてみた。グレーテルが魔王討伐隊を抜ければ、ヴァルター達は旅の続行が極めて困難になる。あたし達にとっては頼もしい仲間が増える。一石二鳥だ。

グレーテル

そ、そんな無責任な事ができるか!

当然だがそううまくは事は運ばない。即座にグレーテルに断られてしまった。まあ彼女の性格からしたら当たり前の事なんだけど。

そんな話をしていると、白マントの騎士が店に入ってきた。総長フォルケールだ。彼は店内を誰かを探すように眺めまわした後、あたし達のテーブルへと歩いてきた。

フォルケール

ふん。
貴様ら、ここにいたのか

アニカ

これはこれはフォルケール総長閣下。
どうです? 宣言通り、五日でミタン人による犯罪は減ったと自負しているのですが

あたしがそう言うと、彼は苦虫を噛み潰したような表情になった。

フォルケール

まあ、食うに困っている者が減れば当然、食うに困ったゆえの犯罪は減るに決まっているな

エリザ

異教徒の職業に関する規制を全廃していただければ、もっと貧困層は減ります。そうすればさらに犯罪は減るはずです

フォルケール

異教徒の就業規制を全廃せよだと? ふざけるな

フォルケールが怒りをあらわにする。

フォルケール

奴らはメレクの信徒だぞ! 我が盟友テオドールの命を奪った奴らと同じメレクの信徒だ!

彼は語気を強めてそう言い放った。店中に聞こえるような大声に、客たちが一斉にこちらを向く。その中の客の一人が、おずおずとフォルケールに歩み寄ってきた。

フォルケール総長閣下

その客は明らかに、ミタン人の服装をしていた。まだ少年と呼べるくらいの若い男だ。彼はフォルケールの前で居住まいを正すと、こう切り出した。

実はわたくし、以前この「雪の福音亭」で閣下のヴァイオリンを拝聴する僥倖に恵まれて以来、その美しい旋律が耳を離れず、閣下のように素晴らしい演奏をできる様になりたいと、日々思い焦がれておりました

ご多忙の身に対し大変不躾なお願いではございますが、どうかわたくしに、ヴァイオリンを教えてはいただけないでしょうか

その場にいる誰もが、その申し出に驚愕しただろう。ミタン人を目の敵にしている男から、ミタン人がヴァイオリンを習いたいなどと。

フォルケール

ふん。貴様はおかしな奴だな。
私が貴様の同胞達をどれほど殺したか、知らぬわけではないだろう

フォルケールもあたしと同じ事を思ったようだ。しかしミタン人の男はまるで意に介さない。

閣下が殺したのは罪人です。
そりゃあわたくし共ミタン人から見れば、この街の法律はいささか不平等で、それ故の貧困から仕方なく罪を犯すミタン人もいます。
しかし、天上教の聖地たるザンクトフロスの街において、現にそういう法律がある以上、巡礼騎士団総長というお立場の閣下が罪人を殺すのは無理からぬことです。

わたくしは幸運にも、ミタン人としては例外的なほどに恵まれた家庭に生まれました。だからといって貧しい同族を蔑んだりしませんが、反対に同族に過剰に肩入れして閣下を憎んだりもしません。
それに何より閣下のヴァイオリンの音、あんな優しい音を出せる方が、悪人のはずがありません

男は心底フォルケールのヴァイオリンに惚れ込んでいるらしかった。フォルケールも、ヴァイオリンを褒められて悪い気はしないらしい。

フォルケール

どこまでも変わった奴だなお前は

そういってフォルケールは、男の顔をまじまじと見つめた。

フォルケール

まあ、魔石に祈りを込める仕事がなくなった分少しは暇ができたし、週に一度程度なら時間を作ってやらんでもない

フォルケールの言葉に、男は小躍りせんばかりに喜んで、何度もお礼を言った。

フォルケール

ただし本当にわずかな時間だぞ。この店での私の演奏の前か後、空いた時間に少しだけ稽古をつけてやる。他の時間は独学でなんとかするんだな

ありがとうございます!

深々と一礼してそういうと、男はまた自分のテーブルへと戻っていった。

アニカ

どういう風の吹き回しだろう。
あの総長閣下が……

マルク

ここだけの話だけどさっきの男、ちょっとだけテオドール様に似てるんだ

フォルケールに聞こえぬよう、小声でこっそりマルクがそう耳打ちした。そういうことか。
今までのいきさつから、テオドールがフォルケールにとって無二の親友だったことはあたしにも想像できる。そのテオドール似の男にヴァイオリンを褒められて、少し感傷的になったのだろう。

いずれにせよさっきのやり取りで、ミタン人への敵意に燃えていたはずのフォルケールは、すっかり毒気を抜かれてしまっていた。数日前エリザが「トイフェルに憑かれているのでは」と危惧した剣呑な雰囲気も、今の彼からは感じられない。

フォルケール

そろそろ私は行かねばならん。
約束どおり、異教徒を微罪で死刑にするのはやめるから安心しろ

そう言ってフォルケールは、店を出て行った。

去り際に、こんな言葉を付け足して。

フォルケール

それと、異教徒の就業規制の廃止の件、領主様に奏上しておこう

あたし達はしばらく言葉を交わさず、ただ黙ってフォルケールの消えた方向を見つめていたが、やがてエリザが、感慨深げに言った。

エリザ

きっとこれから、変わっていきますね。いいえ、もう変わり始めています。
総長閣下もこの町も

(竜司祭の息子編・完。 魔王の降臨編に続く)

pagetop