大岩 直人

ところで、ここはどこですか?

 全てを語り終えたところで、私は改めて質問した。



 夜空から舞い落ちる白い雪を眺めながら、意識を切り離すように目を閉じた。


 その後の記憶はなく、どう思い返してもこのようなバーにいるのは不自然だと思った。


水実

バー・アルケスティスよ。
さっき水樹が言っていたでしょう

 私の質問に水実が答える。

大岩 直人

それは確かに聞きました。
そしてこのバーでは、死んだ誰かの身代わりになれる……そうですよね

 私は水樹に説明されたことを思い返し、自身に与えられた権利を口にした。



 もっとも、そのような話をあっさり信じきるほど、私の頭は柔軟にはできていない。

水樹

直人様は財布をくれた少女に対する後暗さから、身代わりになりたいと……つまりはそういうことですね?

 水樹が淡々と私の気持ちを代弁した。



 水樹の態度はとても紳士的で、身代わりになれるという非現実に期待を持たせるだけの真剣味が伝わってきた。



 疑念が消えたわけではなかったが、それでもこれが悪ふざけや詐欺のたぐいではないのかもしれないと思った。

大岩 直人

本当にあの子の身代わりになれるのですか?

 私の答えは既に出ていた。


 例え嘘だったとしても、それ以外の選択など私には認められてはいないのだ。

水樹

もちろんです。
ここはそういう場所ですから

大岩 直人

ならば、早く私を身代わりにしてください

 私は立ち上がり、水樹に詰め寄った。


 そうすることで私の真剣さが伝わると思ったし、誰にでもいいから誠意を見せたかったのだ。

水実

ちょっと聞いてもいいかしら

 ずっと私と水樹のやりとりに無関心かに見えた水実が、会話に割って入ってきた。



 彼女は微かに笑みを浮かべている。

水実

なぜ、そんなにその少女の身代わりになりたいのかしら?
赤の他人でしょう

 水実は私の話をちゃんと聞いていたのだろうか。


 普通に聞いていたのなら、このような質問が出てくるのはおかしい。

大岩 直人

あの少女は私のせいで死んでしまったのです。
少女と街で再開した時、もしも私が財布の中身を使っていなければ、私は逃げ出したりしなかった。
少女も私を追って車道に飛び出したりしなかったはずです。
人様のお金に手を出さなければ。
最初から交番に届けていれば

水実

それで?

 水実は私の返答に納得がいっていないのか、冷めた微笑みを向けながら、さらに追求してきた。

大岩 直人

それでと言われても……つまり私のせいで死んだから。
罪を償うべきといいますか。
誰がどう考えても、あの状況じゃ私に非があるわけでして

 まるで会社でミスを犯した時にやらされる原因分析のようだ。


 まだまだあどけない水実という少女が相手だというのに、情けないことに私はしどろもどろになっていた。



 過去の嫌な記憶が蘇る。



 それが起きたのはなぜか、なぜそのような行動に至ったのか、なぜそう判断したのか 



 失敗の原因を説明しても、なぜ、なぜ、なぜを繰り返し、威圧的に詰め寄る上司を前に、私はいつも萎縮してしまっていた。



 そして原因が他にあったとしても、他の同僚が犯したミスだったとしても、結局は全ての責任が私にあるのだと結論づけられるのだ。

君のミス一つで皆に迷惑がかかるんだよ

 頭を下げて謝る私を見下ろしながら、腹立たしげに溜息をつく上司と、それを遠くから見て笑っている同僚たち。



 ミスした分を取り返そうと空回りし、それがかえって悪い結果となり、新たなミスを生んでしまうこともあった。


 いつの間にか、本当に私一人のミスが原因だという空気ができてしまい、皆が迷惑そうに私を見始める。



 どうにかして責任を取り、そして許されたかった。



 今回の少女の一件も、私に非があるのなら責任を果たさなければならないのだ。

大岩 直人

責任です。
私のせいで少女を死なせてしまった。
だから、どんな形でも責任を取りたいのです

 これが私の精一杯の返答だった。

水実

馬鹿みたいよ、あなた

 そう言って水実はクスクスと笑い出した。



 これ以上の答えなどありはしないと思った私は、水実の予想外の態度に面食らってしまった。

水実

身代わりになるということは、少女に代わってあなたが死ぬということよ。
誰がとか私のせいだとか、責任だとか……これから死のうって時にまで、世間体ばかり気にしちゃって

 水実の言葉に、私のこれまでの生き方そのものを笑われたような気がした。

水実

そもそもあなたは少女の死が自分のせいだって本当に思っているのかしら?
世間様に怯えて自分を責め立てているだけでしょう

 言い返す言葉が見つからない。


 確かに水実の言う通りではあった。



 私が犯した罪は、少女から受け取った財布の中身をちょっとだけ使ってしまったことであり、少女の死までもが私の罪というわけでもないのかもしれない。



 だが少女が死ぬ少し前、少女の母親と父親らしき人物が私に向けた蔑んだ目を思い出すと、『お前のせいだ、責任を取れ』と言われているような気がするのだ。



 私がどう思おうが関係なく、周りが私を避難した時点で私に責任が課される。


 私は今までの人生の中で、これが世間というものなのだと刷り込まれていた。

水実

あなたは自分のせいだなんて思っていない。
なら、あなたが身代わりになる理由もないのだわ。
どこの誰とも知らない少女の身代わりなんて自殺も同然。
自殺はいけないことだって教わらなかった?
世間様からね

 水実は、イジメにあってズボンを脱がされている男子を『男のくせに』と見下すような目をしていた。



 私はいじめられやすい性格をしていたので、女性のこのような目には過剰なまでに敏感だった。



 水実に対し、怒りと憎悪が湧いてくる。



 水実に図星を指された悔しさだけでも胃が痛む程のストレスを感じていたのに、さらに追い込むようなことを言われてしまったのだ。



 身代わりの権利が与えられたはずなのに、身代わりになろうという意志そのものを全否定するなんて、詐欺や悪戯よりもたちが悪い。



 ならば私はどうすればいいというのだろう。


 少女の母親と父親の前で、関わってしまった一人の人間として『お悔やみ申し上げます』とでも言うのか。


 それとも、少女の母親と父親が納得するまで謝罪を繰り返せということか。

大岩 直人

あんたに……あんたに何がわかる!

 今まで溜め込んできた我慢が遂に限界値を超えてしまったようだ。


 私は過去最大級の大声で水実に向かって怒鳴り散らした。

大岩 直人

私はもう生きていくことに疲れたんだ!
だからせめてあの子の身代わりにでもなれるのなら本望だと思ったんだよ!
そうすることで私の罪悪感も消したかったんだ!
それの何が悪い!
私の命一つであの子が生き返るのなら儲けものだろうが!

 魂の叫びというのはこういうことなのだろうか。


 怒鳴り終えると全力疾走した後のように息が切れ、呼吸を整えるのに一苦労ではあったが、どこか清々しい気分もあった。



 これで身代わりを認めないというのなら、私の思いを否定するのなら、それならそれでいい。


 自分で勝手に死ぬだけだ。

水実

ふふ……責任だとか罪を償うべきとか言ってたけど、結局は自分のためってことね。
本音はそっちでしょう

大岩 直人

そう……だ。
その通りだ。
悪いか?
はは……悪いですよね。
もうあなたの説教はうんざりだ

 まるで駄々っ子のように情けないセリフだと思ったが、ここまで言いたいことを言い切ったのは生まれて初めてかもしれない。


 あれほど怯えていた他人からの避難も、今はなぜかどうでもいいと感じていた。

水実

悪いなんて言ってないわ。
全て自分のため。
それでいいじゃない。
世間体や責任なんかより胸を張れるでしょう

 水実はそう言ってグラスに軽く口をつけた。



 私は水実の言葉で、彼女が最初にした質問の意味をようやく理解した。



 私のせいだからとか、償いだとか。


 世間の目を気にしすぎた故の自虐でしかなかったのだ。



 なぜ少女の身代わりになりたいのか。



 それは、私自身が楽になりたかったからだ。

水樹

ここのお客様は直人様、あなたです。
身代わりの権利は、あなたがあなたの意思であなた自身のために行使してください

 私と水実の会話を黙って聞いていた水樹が、とても優しい笑顔でそう言った。



 とても晴れやかな気分になり、私の顔にも自然と笑みがこぼれてきた。

大岩 直人

ははは……そうだったんですね。
今までだって自分の意思を大事にしていれば……。
それが私の犯した最大の過ちだったのですね

 肩の力が抜け、無意識に大きなため息が出る。


 長い年月をかけて溜め込んできたストレスがゆっくりと抜けていく感じがした。

水実

さてね。
あなたのこれまでのことなんて、知ったことではないわ

 水実は鼻で笑うようにそう言ったが、その言葉にはなぜか優しさを感じた。

大岩 直人

せっかくなので、もう一つ本音を言わせてください

 私は水樹が出してくれたウィスキーの入ったグラスを眺めながら、事故で亡くなった少女の顔を思い浮かべた。

大岩 直人

あの子の笑顔を思い出したら、やはりどうしても助けてあげたい。
今は本当にそう思っていますよ

 今になってようやく、私の心はあの少女の無邪気な笑顔に癒されていた。



 少女との出会いは決していいものではなかった。


 もしかすると周りからはやはりお前のせいだと言われるのかもしれない。



 だがそんなことはどうでもいい。


 ただ、自分自身で強く願ったのだ。

水樹

どうぞこちらへ

水実

どうぞこちらへ

 突然そう言われて声のする方を見ると、水樹と水実がバーの奥にあるドアの前で左右に並び、手をドアの方へ差し出していた。



 彼らの様子を見て、これが悪ふざけなどではないと直感的に理解した。



 私は椅子から立ち上がり、水樹と水実のいるドアへと歩き出した。

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