体力が限界を超えて立ち止まると、そう遠くない位置に交番の光が見えた。



 周りは物静かな公園と、既にシャッターを下ろした店ばかりが並ぶ商店街。


 人通りはまったくなく、交番までの道が私の立っている場所から一直線に伸びている。



 交番の赤いランプの下には罪人を裁くための門番がいて、私が来るのを待っているような気がした。


 私は確かに財布を受け取りました。


 つい、食欲に負けて中身を使ってしまいました。


 ですが、少女のことまで私のせいなのでしょうか。



 私は両手で財布を握りながら、交番に向かってゆっくりと歩き出した。



 小さな罪を裁いてもらいたかった。


 代わりに抱えきれない大きな罪は、あなたのものではないと言ってもらいたかった。


 とにかく許されたかった。



 交番の前にたどり着いて中を覗いてみると、誰もいなかった。


 奥には別の部屋へと続くドアがあるので、もしかするとそのドアの向こう側にお巡りさんがいるのかもしれない。



 私は交番のドアを、音が出ないようにゆっくりとスライドさせて中へ入った。



 まるで泥棒のように息を潜め、交番の中を見渡す。



 奥の部屋に向かって一声かけるべきかとも思ったが、私にはそんな度胸も余裕もなかった。



 私は目の前にあるデスクの上に、そっと財布を置いた。



 その時、奥のドアが開いて中から警察官の制服を着た中年男性が出てきた。



 またもや心臓が飛び上がり、ほとんど条件反射で交番から逃げ出した。

ちょっと、君!

 そんな声が後ろから聞こえてきて、先程まで走り疲れていたことを忘れるくらいに全力で走り出した。



 度重なる心臓への負担に嗚咽が始まり、胃液が口から糸を引く。



 私の目の前に公園のトイレが見えた。


 私は残りの体力を総動員して歩き、トイレの壁にもたれながら腰を落とした。



 呼吸困難に陥りそうな息を整えようと、胸を手で強く握り、大きく呼吸した。



 目が霞んできて、代わりに自らの人生の思い出が頭の中に映し出された。



 怒鳴り散らす父の声、叱りつける母の顔、ミスを犯した私を蔑む上司の目、後輩たちの軽薄な態度。

大岩 直人

は……はは……ははは

 もう少しいい思い出はないものかと、私は自分自身を笑い飛ばした。


 苦しくてもお構いなしに笑い続けた。



 他人の顔色を伺い、迷惑をかけぬよう真面目に生きてきたつもりだった。



 少女と出会ってから、財布を受け取ってから、欲に負けて小さな罪を犯した。


 その罪が引き金となり、背負いきれぬ大きな罪となった。



 どのように生きてみても、結局は裏目に出てしまうではないか。


 私のような不器用な人間が生きていくには、この世はあまりにも慈悲がなさすぎる。

越谷 夢乃

これあげる

 そう言って財布を差し出した無邪気な少女は、この世の中をどう生きていく予定だったのだろう。



 ぼやけていた視力が息とともに回復し、私は真っ黒な空を見上げた。

 いつの間にか雪が降っていた。



 真面目に生きてきた私の歯車は、あの子と出会ってから狂いだした。


 あの子の無邪気な笑顔をこの世から消し去ったのは私なのだ。



 その責任を私の死でもって償えるのなら、どんなにいいだろう。


 だが、私の安い命では到底釣り合わない。


 無数に降りてくる白い小さな粒が、私の体を冷やしていく。


 それは救いようのない人生の最後の最後に現れた、神からの救いの手のような気がした。



 私は天を仰ぎ、吸い込まれそうな黒い空に向かって問いかけた。




 このまま眠れば死ねますか?



 目を閉じて耳を澄ましても、返ってくるのは鼓膜が痛くなるほどの静寂だけだった。

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