私の知る最寄の交番までは、歩いて大体十分程だろうか。



 私は走るのをやめて、足を引きずるように交番を目指していた。



 まだそれほどの金額を使ったわけではない。


 まだ引き返せる。


 元々ちゃんと届けるつもりだったのだ。


 歩きながら自分自身に言い聞かせる。



 もう迷いはなかった。


 私の小心では持て余してしまう大金の入った財布を、一刻も早く手放したかった。



 後暗さが心の奥に根付いていたせいか、私はなるべく人通りがほとんどない道を選んで歩いていた。


 それでも、どうしても交番へ行くためには、それなりに人通りのある道を歩かねばならない。



 これから居酒屋へと向かう様子のサラリーマンや、今しがた洒落たお食事を済ませたであろうカップル、未来に希望しか見えてないであろう帰宅途中の学生たち。



 すれ違う私とは無縁の人々を見て、普段なら羨んだり自己嫌悪したりするところだが、この時に限っては周りの人間には無関心だった。



 もし交番で「ちょっとだけ使っちゃったんじゃないの?」と問われたらどうしようか。



 使ってません……使ってません。



 この際、嘘を押し通そう。



 使ってません……使ってません。



 予行演習のつもりで心の中で何度も復唱しながら、街中の歩道を一歩ずつ踏み出す。

越谷 夢乃

あ、おじちゃんだ

 何処からか子供の声が聞こえてきた。



 その声は周りの雑音に混じって、やたらはっきりと私の耳に入ってきた。



 私は俯きっぱなしだった顔を持ち上げ、歩きながら辺りを見渡し、何気なく声の主を探した。

越谷 夢乃

おじちゃぁん!

 今度は方向がわかるほどに大きな声がして、そちらの方を見た。



 私の歩いている歩道から、車道を挟んだ向かい側の歩道に少女が立っており、こちらに向かって無邪気に手を振っている。



 私はその姿を見た瞬間、ギョッとして足が勝手に後ずさりしていた。



 今朝、私に財布を渡してきた少女である。


 少女のあまりにも屈託のない笑顔が、私の罪を責め立ててくるような錯覚に陥った。

夢ちゃん。
あのおじさん、知り合いなの?

 少女の側に立っている、恐らく少女の母親であろう若い女性が、少女に向かって話しかけている。



 その女性は明らかに眉をひそめて、少女と私の顔を交互に見た。



 たとえ普段は人を見下さないよう配慮している良心的な市民であろうとも、自分の子供が私のようなものと関わっているとなれば、不信感を抱くのは当然だろう。


私に向けられた女性の目つき、顔つきからは蔑みの表情が露骨に出ていた。



 その女性の隣には、スラッとした若い男性が立っていた。


 彼は恐らく父親であろうか。



 男性は、女性と少女のやりとりを、腕を組んで黙って見ていた。



 少女と母親の会話から、私の罪が暴露されるのではないかと、気が気ではなかった。



 周りの雑多な街の音の中で、向かい側の微かに聞こえてくる会話に耳を澄ましつつ、後方に置いてある右足に体重を移動させていく。



 今、急に誰かに大声で脅かされでもしたら足が勝手に走り出してしまうほどに、体全体がこわばっていた。

越谷 夢乃

うん。
夢ね、あのおじちゃんにお金あげたんだ

 私の顔から血の気が引いていき、恐怖が体を支配する。


 もう言い逃れはできない。


 例え全額からすれば少量のお金だったとしても、使ってしまったのだ。



 手足が震えだし、私の良心から切り離された本能が逃げろ、逃げろと急き立てる。

あげた?
どういうことだ?

 父親らしき男性が少女に向かって問いかける。

ちょっと、夢ちゃん。
それ、きちんとお話して

 母親らしき女性が少女に詰め寄る。



 気がつくと私は人通りの少ない裏道めがけて走り出していた。



 もはや気持ちは完全に犯罪者だった。


 取り返しのつかないことをしてしまったのだと思った。



 だが、真に取り返しのつかないことは、このすぐ後に起こった。



 ここで私が逃げ出さなければ、私の罪は小さいもので済んだであろう。


 後になって考えれば、必死に逃げる程の重罪を犯したわけではないはずだ。

越谷 夢乃

あ、おじちゃん


 少女の声が後ろから聞こえた。


 私が逃げ出すのを見て、少女が声をあげたのだろうか。



 だが、その時点では私は振り返らなかった。

 突然後方から、怪鳥の悲鳴のような激しいカナキリ音がした後、何かが鈍くぶつかったような音がした。



 私は足を止めて振り返った。



 街の音が、世界の音が全て消えてしまったかのような、一瞬の静寂。



 その無音の中で私が見たものは、エンジンがかかったまま静止している白い乗用車と、そのボンネットに飛び散った鮮血。



 そして、乗用車の数メートル先に転がった少女の体であった。



 一体何が起きたのか、しばらく状況が理解できなかった。

いやぁああああ!

 女性の悲鳴と共に、世界の音が戻っていき、街の人間のザワつきが一気に広がっていく。

ゆ……夢!

 男性の叫び声を聞きながら、頭の中を整理していく。


 少女は何故、車道で倒れているのだろう。



 見るに耐えない変わり果てた姿の少女から、今度は白い乗用車に目を向けた。



 単純に見れば、悲惨な交通事故だ。


 では、なぜ少女が車道に飛び出したのか。



 逃げ出した私の後を追いかけようとした。


 可能性として考えられるのはそれしかなかった。


 子供というのは、大人からすると理解不能なタイミングで急に走り出したりする。



 少女からすれば、「ちょっと待ってよぉ」という気楽な感覚で車道に飛び出したに違いない。

大岩 直人

私は悪くない……私は悪くない……

 腰が砕けて地面に尻餅を付いたまま、呪文のように繰り返す。



 止めることのできない罪の意識を無理矢理に引き剥がすように、私は腕を思い切り振り回して立ち上がり、その場から逃げ出した。



 私のせいではない、私は悪くない。


 全力で走りながら、心の中で叫び続けた。

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