辺りはすっかり薄暗くなり、酒を飲み始めるのに丁度いい時間帯となっていた。



 私はコンビニでワンカップとつまみを一通り購入し、自分の住処が存在する公園を目指した。


 コンビニで支払ったのは言うまでもなく他人様のお金である。



 公園のベンチに座り、隣にコンビニ袋を置くと、肩の力が一気に抜けて深いため息が漏れた。



 コンビニのレジでお金を支払う時にも、やはり罪悪感が心を突き刺した。



 財布を交番へ届けるのを躊躇して以来、私の中で開き直ろうとする気持ちの影に隠れて、いかんともしがたい不安がずっとつきまとっていた。



 横に置かれたコンビニ袋から、裂きイカとチーズとビーフジャーキーを取り出し、ベンチに広げると、再び口からため息が漏れる。



 私はいったい何をやっているのだろう。



 すぐに交番へ届けるはずだった人様のお金に手を出して、これから一人で酒を飲もうなんて。



 いや、今更だ。


 久しぶりに酒が飲めるのだから、大いに楽しもう。


 くよくよするくらいなら、最初からお金を使わなければ良かったのだ。


 それに私は財布の中身を全て自分のものにしてやろうということは一切考えていない。


 とにかく今は財布のことは考えずに、目の前の酒を楽しむべきだ。


 財布のことはその後に考えればいいではないか。



 もはや正当化しようとしている理論そのものが滅茶苦茶なのは自分でもわかっていたが、気付かないふりをした。



 無理やりに納得させた自分の心に勢いをつけようと、コンビニの袋からワンカップを取り出して、躊躇する暇を与えずに蓋をひん剥いた。



 蓋が外れたワンカップを上から覗き込むと、自然と笑みがこぼれた。


 それは決して心から楽しくなるような笑いではなく、ずる休みの有給を前触れもなく当日にブチ込む時を想像するような、ちょっとだけ悪いことをしてやった時の不敵な笑いだ。



 私はサラリーマンの頃、そのような理由で休む度胸はなかった。

明日、頭痛が痛いんで有給取ります。
うまいこと上の連中に伝えておいてくださいよ

 サラリーマンの頃に一緒に仕事をしていた後輩の若い男性が、色々とおかしな日本語で私に耳打ちして、本当に次の日に休んだりしていた。



 そんな彼が私は羨ましくて仕方がなかった。



 昔のことを思い出しながら、私はワンカップの淵に口をつけて、チビチビと酒を喉に流し込んだ。


 喉が熱くなり、体が一気に温まる。



 心の奥にずっと潜んでいる不安が、一口飲むごとに薄れていった。

大岩 直人

頭の中がおめでたくなってきたようだ


 私も一応、長年生きてきた身だ。


 不安が消えるのは、単純に酒に酔ってきたからだということはわかっていた。


 酔いがさめたら不安はさらに膨れ上がり、私に牙を向けることだろう。



 それならばいっそのこと、今のうちにもっともっと酒を楽しんでやろう。


 そう思った。



 私はさらに昔のことを思い出してみた。



 まず思い浮かべたのが父親の怒鳴り声だ。


 とにかくよく怒る父親だったのだが、何が原因で怒られていたのかは、あまり思い出せなかった。



 だが、かなり鮮明に覚えていることもある。


 私が小学校低学年くらいの頃に、父に連れられてデパートに行った時のことだ。



 鍵のかけられていないショーケースに飾られてあった筆の先がフサフサしてて、私は思わずその触り心地の虜になっていた。


 数分ほど筆先をワシャワシャと握ったり、撫でたりしていると、デパートの店員にものすごい剣幕で怒鳴られた。



 どうやらかなりの高級品だったらしく、雑に触っていいものではないとか、弁償しろとか、そのようなことを言われていた気がする。



 しばらくして父が現れ、店員に何度も頭を下げていた。



 家に帰ると、父は私を拳で殴った。


 歯が一本折れて、血もたくさん出た。

他人に迷惑をかけるなと、あれほど言っただろうが!

 この時の父の怒鳴る声も父の鬼のような顔も、そして言葉の一字一句も余すことなく覚えている。


 その時以外の父の言葉は実のところ印象にない。



 父の鉄槌は後にも先にもこの一度きりではあったが、いつ噴火するかわからない父の怒りに毎日怯えていた記憶だけは、脳裏に焼きついていた。



 母親はいつもご近所の子供と私を比較していた。

○○の子は毎日遊び呆けているらしいけど、あなたはそうなってはダメよ

□△の子はあんなにも成績がいいのにあんたって子は

 そんなことばかりを口にし、それは私が成人した後も続いた。



 父と母のことを思い返しているうちに、ワンカップの中身が空になった。



 次の思い出を振り返るために、もうワンカップ空けなければ。



 空のカップを逆さにして、微かに残っている酒を口の中に垂らしながら、そんなことを心の中でつぶやくと、なんだか楽しい気分になってきた。



 嫌な思い出も結構いい肴になるものだ。


 公園の外周に立てかけられている看板を蹴っ飛ばしてぶち折ってやろうか。


 そんな大それたこと、たとえ酔っていた時にでもやったことない私だが、なんだかこの夜だけはできそうな気がした。



 会社勤めしてた頃、いつも私に面倒な仕事を押し付けてきた年下の連中の顔を思い出し、「馬鹿野郎が」と小声で呟いてみる。



 そんな自分が、まるで不良になりたての中学生のように思えてきて笑えてきた。

大岩 直人

馬鹿野郎は私の方だ

 面倒事を押し付けたり、ミスした責任を私に擦りつけたり、そんな人間たちに為すがままの自分こそが大馬鹿野郎なのだ。



 この社会で生きていると、言い訳をするのは良くないことだと誰もが誰にともなく教え込む。


 だが実際にはそれは間違いで、大人の世界じゃ言い訳は絶対に必要なスキルである。


 その他にも、嘘をつくことやうまく手を抜くこと、ゴマすりにハッタリ。


 私はちょっとした資格を人並みに持ってはいたが、このような技術は皆無であった。



 私は持っていたワンカップを一気に飲み干した。


 先程までこみ上げていた笑いが、いつの間にか虚しさに変わり、涙が出そうになってくる。



 持っていたワンカップを地面に置くと、私はそのまましばらくの間うなだれていた。

よう、今日は随分と冷えるなぁ

 いつの間にか目の前に一人の中年男性が立っており、私に話しかけてきた。



 着ているコートもズボンも靴もボロボロで、ひと目で私と同じホームレスだとわかった。


 定期的に剃ってはいるであろう無精ひげと薄ら笑いを浮かべた顔が、なんとも胡散臭さを感じさせる。

大岩 直人

あの……どちら様でしょうか

 あまり関わりあいになりたくないと思いながらも、私はとりあえず問いかけた。

なぁに、あんたと同じさ。
ただのホームレスだよ。
一応、この界隈に住み着いて二年ほどになるんだが

 男はそういうと私の隣に勢いよく座り込んだ。


 足を大きく広げてベンチの背もたれに両腕を乗せてもたれかかる柄の悪さに、私は警戒心を強めた。



 男は相変わらずの薄笑いを浮かべ、私が肩を縮めて身を引いている様子をジッと見ていた。

いやぁ、あんたがコンビニで色々買い込んでるのを見たんで、景気いいなぁなんて思っちゃって


 笑みを浮かべながらも目の座った男を前に、私はすっかり萎縮していた。

いやぁ、悪いねぇ。
別にそんなつもりで声をかけたわけじゃねぇんだけどさぁ

 男は豪快に笑いながら、柿の種を袋から鷲掴みして口の中に入れた後、ワンカップに入った酒を喉に流し込んだ。



 男の口の両端から酒がダダ漏れする様子を見ながら、人様のお金が無駄に流れていってしまっていると思い、私は密かにハラハラしていた。



 男は顎まで流れた酒をコートで拭った後、大きく息を吐きだした。



 遠慮というものが微塵も感じられない目の前の男に苦手意識を感じながらも、一方では少し憧れのようなものも感じていた。



 男は私がホームレスになった理由や、以前はどんな仕事をしていたのかを上機嫌に聞いてきた。


 私は男の質問に「普通の会社員」や「リストラにあって……」などというなるべく差し障りない程度の回答でやり過ごした。



 仲間内では、過去については基本的に『聞かない』『語らない』が暗黙のルールであるが、この男にはそのようなことを気にする様子がない。



 この界隈に住んでいると言ってはいたが、実際は他所の街の人間か、もしくは誰とも群れない一匹狼のような男なのか。



 みみっちくワンカップに口をつけながらそんなことを考えていると、男は先程までの大笑いを止めて、不意にニンマリと笑みを浮かべながら私の顔を覗き込んできた。

実は今朝ね。
駅前でマジ泣き入ってるやつを見ちゃったんだよねぇ

 男は唐突に語り出した。

大体、二十代後半か、よういって三十代前半くらいだろうな。
くっくっく。
大の男がマジ泣きよ、マジ泣き。
そいつにゃ悪いがちょっと笑っちまったよ

 先の見えない話と、私の顔色を伺うような男の視線に、得体の知れない恐怖を覚えた。



 何の話をしているのだろう、何が言いたいのだろう。



 私の中にある後暗い心が、妙に不安を煽り出す。

ほんでな、少々興味が湧いてきたんで、しばらく観察してたらよ。
あちこち必死に何かを探し回りながら、ブツブツと呟いてんだよ

 私は無意識に生唾を飲んだ。



 男はもったいぶったかのようにしばらく黙って間をとっている。


 あたりの静けさに息苦しさを覚え、自然と呼吸が早くなる。



 私はなるべく男の顔を見ないよう俯いていた。

五十万……俺の五十万……ってな

 私の額から、先程まで塞き止められていたかのように一気に汗が吹き出してきた。



 五十万。



 薄汚れたコートに忍ばせた財布の中身の具体的な金額が、酔いに任せて誤魔化してきた罪に現実味を与えた。



 男は三分の一程度に残っていたワンカップを逆さまにして小さな滝を作り、滝壺のように口で受け止めた後、流し目で私を見ながら言った。

この酒と摘み……拾った金で買ったんじゃないの?


 心臓が私の体ごと破裂したと思うほどに跳ね上がり、心臓がものすごい速さでドクドクと波を打った。



 この男は私を揺すろうというのか。


 それとも財布を脅し取ろうというのか。



 私の中にはもう恐怖しか残っていなかった。

なぁんてな。
冗談だよ冗談。
そんな大金拾ってたら、こんなとこでしけた酒なんて飲んでないっしょ

 男はそう言うとバカ笑いをして私の背中を叩いた。



 その様子から、どうやら本当に単なる冗談だったのだと思わせたが、もはや私にとっては冗談で済まされなかった。



 冗談だろうがなかろうが、事実を突きつけられた私の顔は、死人のように血の気を失っていた。



 人の慣れとは恐ろしいものがある。



 隣に座る男がワンカップを口に付けるたびに、最初こそ人様のお金という意識があったのだが、その感覚は徐々に薄れていき、むしろこの男に奢ってやってるつもりになっていた。



 とんでもない勘違いである。



 今からでも遅くはない。


 いや、遅かろうが何だろうが、このままこの場で酒を飲んでいるわけにはいかない。

大岩 直人

す……すいません。
私、ちょっと用を思い出しましたので……これで失礼します

 私は立ち上がり、男にそう告げた後、まるで操られているかのように走り出した。

お、おい……これ全部もらっちゃうよ

 後ろから男の少し嬉しげな声が微かに聞こえた。

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