人様のお金で風呂を浴び、穴のあいていない新品のトレーナーを着て、飲食店を選別しながら歩いた。
先程まで着ていたボロボロのコートは寒さを凌ぐ大事な物だが、あれを着たままだと結局周りに不快な思いをさせてしまうと考え、一旦サウナの脱衣所に置いてきた。
無論、あとで忘れ物と称して取りに戻るつもりだ。
ズボンと靴はボロボロのままだが、上半身は綺麗にしたし、私なんかより上等な生活を送っている一般の方々なら、きっと上を向いてるだろうから、胴より下は目立たないはずである。
私の狙い通りなのか、風呂を浴びている間にお昼時をとうに過ぎていてお客が少なかったからか、とにかく何食わぬ顔で牛丼屋のカウンター席に座ることができた。
店員を目の前のボタンで呼び出し、手元のメニューからオーソドックスな牛丼の大盛りを指差す。
私を見た店員は言葉使いこそ丁寧だったが、営業スマイルはどこか引きつって見えた。
それは卑屈になっている私の勘違いによるものかもしれない。
もはや私は、向けられる全ての笑顔を後ろ向きに捉えてしまうクセがついていた。
ふと、先ほど出会った少女の顔を思い出す。
あれほどに私の心から疑念を産まない、無邪気な笑顔を見たのは初めてかもしれない。
きっとあの少女の心には、私のように人の笑顔を疑うような淀みなど一切ないのだろう。
そんな少女から手渡された財布が、今はズボンの後ろポケットに収められている。
私は手を後ろに回して財布の感触を確認した。
無垢な少女を騙してしまったような気がして、罪悪感が胸を刺す。
だがホカホカの牛丼が目の前に置かれた時点で、意識が簡単に罪悪感を捨て去った。
まだ私が会社員として給料をもらっていたあの頃なら、いつでも食べることができたであろう人間らしい食事。
いや、正確に言うと今でも食べようと思えば食べられる程度のお金はあるにはある。
だが、久しく目にしていなかった綺麗な丼と、その中の温かい食べ物に人間味というものを感じてしまい、危うく涙がこぼれそうになった。
仕事のストレスで胃を痛めながら、同じような日々をひたすら繰り返すあの頃を懐かしく思う。
丼から立ち上る、あの頃の当たり前が詰まった温かい香りを一気に鼻で吸引する。
もはや我慢が限界に達し、私は箸を使って牛丼を掻き込んでいった。
温かいご飯が心に染みて、自身の惨めな人生に涙が溢れてくる。
私は惨めに生きてきました。
こんなにも辛い生活をしています。
そんなことを口にすれば、甘ったれだ、自業自得だと世間から避難されるかもしれない。
世界には貧しい国が沢山あって、私なんかよりずっと苦しい生活を強いられた人間がいる。
あるいは戦後の日本の貧困に比べれば、今の私なんてまだまだ不幸とは言えないのかもしれない。
わかっている。
苦しい思いをしている人間がこの世には沢山いて、辛いのは私だけじゃない。
しかし、たとえそうだとしても惨めに生きてるんだって、それくらい言わせてくれ。
生きてるのが辛いのだと言わせてくれ。
牛丼のほとんどを食べ尽くし、米粒を一つ一つ箸で摘んで口に運びながら、私は心の中で叫び続けた。
久しぶりに温かいご飯を食べたせいか、お腹の中が熱く火照っていた。
胃が少々驚いているかもしれないなと思い、軽くお腹をさすりながら牛丼屋を後にする。
さて、私の望みも叶ったことだし、自分に課した約束通り財布を交番に届けるとしよう。
私は無言で心の声に頷きながら、交番がある場所とそこまでのルートを頭の中に描いた。
同時に制服を着た警察官のイメージが頭によぎる。
私のようなホームレスにとって、警察官という存在は決していいものではない。
私の姿格好が自分自身でも決して健全な市民に見えるとは思わないが、私も仲間たちも職務質問をされて嫌な思いをすることは少なくないし、私たちの住居の撤去を命じてくるのも警察官だ。
不当な職務質問をされて『立派な人権侵害だ』と裁判を起こしたお仲間さんの話を、ニトロじいさんから聞かされたことがあった。
もちろん、私たちの家は違法住居なのだし、見た目で怪しいのだから職務質問されることもあるだろう。
だから彼らが間違ってるとは思わない。
つまるところ、警察官は健全な市民を守ることはあっても、見た目から浮浪者である私のような人間を守ることはないだろう。
頭の中の地図を辿って交番を目指していた私だが、その足取りは次第に重くなっていった。
いや、なぜ悪い行いを悔い改めるような、後暗い気持ちで交番へ向かわねばならぬのか。
私は正しいことをしようとしているのだ。
確かに職務質問された時の警察官の顔を思い出すと嫌な気持ちにはなるが、それとこれとは話が別である。
拾った財布は交番へ届けるのが当たり前だと言われてはいるが、果たして世のどれだけの人間がそれを実行するだろうか。
貧しい身でありながらそれを実行しようとしている私は、さながらフランダースの犬の主人公のように清らかではないか。
胸を張って堂々としてればいいのだ。
私は自分にそう言い聞かせ、曲がっていた腰を伸ばして上を向いた。
その時、不意に財布を渡した少女の顔を思い出した。
先ほどの牛丼屋で感じた小さな罪悪感が、再び私の心をチクリと刺す。
本当に胸を張れるのだろうか。
少しとはいえ財布の中身に手をつけたのだ。
常識で考えて一割いただいたと、警察官を前にしてそんなこと言えるだろうか。
別に言わなくていいことだが、決して胸を張れることじゃない。
意気揚々と『正義は我にあり』と唱えたばかりなのに、早くも正当化した理論は覆され、私の中で閉じ込められていた罪悪感が、次第に不安感へと姿を変えていった。
ただでさえ不審者扱いを受けやすい私の身なりで、財布を届けたらどのようなことを言われるのだろう。