ホームレスにも二種類の人間が存在する。


 それはホームレスに限ったことではなく、社会の歯車として機能している一般の社会人にも言えることなのだが。


 つまり、やる気に満ち溢れている人間と、目標も持たずにだらだら過ごす人間だ。



 活気あるホームレスは、毎日サボらず早朝から空き缶を集めたり、各駅を回って雑誌を集めては金に変え、日雇いの仕事もバリバリこなし、決められたシフトでバイトをしたりもする。



 そんな人間は可能な限り清潔にしているし、割と綺麗なスーツを着こなしており、一見するとホームレスとはわからないくらいだ。



 そういう人間はいつまでもホームレスでいようなどとは考えておらず、社会復帰を目指している。



 私はというと、完全にもう一方の人間に落ち着いてしまった。


つまり堕落した人間だ。



 普通に会社員として働いていた頃でさえ、生きがいというものを見いだせなかったのだ。


 社会の歯車として返り咲くことを目標に設定したところで、困難な割にはあまりにもやり甲斐がないと感じていた。



 とはいえ死ぬ勇気すらない私は、今日を明日を生き抜くために最低限お金を稼ぐ必要がある。


 とりあえず早朝から近所の駅の周辺にあるゴミ箱を漁って雜誌を拾い集め、雀の涙ほどの金に換えては見たものの、生きる意味という壮大なテーマを考えてしまうと、ものすごく無意味なことに思えてならなかった。



 ここ数日、私は駅の近くにある公園のベンチに座り、小一時間ほど何もせずに青い空を見上げていた。



 真正面を向けばオフィスビルやファミレスや古本屋などが視界に入る。


それらは人間の住む世界だ。


 だが私が座っているベンチからは、真上に顔を向けると偶然にも人工物が一切割り込まず、ただ無数にちぎれた雲が流れる青空だけが視界に広がるのだ。



 まるで別世界を覗いているようで、もしかすると素早く顔を正面に戻せば穏やかなファンタジーの世界が広がっているのではないかと思えてくる。

越谷 夢乃

ねえ、おじちゃん

 現実逃避を試みて、心が白い雲に乗ってふわふわ漂っている時、突然子供の声が聞こえた。



 私は、上体を反らしてだらりと上に向かせていた頭を、ゆっくりと前に起こした。



 いつの間にか私の目の前に五、六歳くらいの少女が立っており、無邪気な笑顔を私に向けていた。



 少女はピアノの発表会に行くような清潔な服を着ており、きっと夕飯は家族揃って食卓を囲むような幸せな家庭で育ったのだろう思わせる、汚れを知らない綺麗な瞳をしていた。

越谷 夢乃

おじちゃん、いつもここに座ってるね

大岩 直人

え?
え?

 あまりにも住む世界が違うと思われる少女が、なんのためらいもなく話しかけてきたので、私は戸惑い、うまく言葉を返せなかった。

越谷 夢乃

おじちゃんって、ホームレスの人?

 完全に困惑している私をよそに、少女はなおも嘘偽りない笑顔をこちらに向けながら言った。



 なぜこの少女は私に話しかけているのだろう。


 私に話しかけてくるのは自分と同じ世界の住人か、面白半分でこちらの世界を荒らしに来る若者くらいのものだ。



 このまま私に話しかけていては、この少女まで周りから変な目で見られる可能性がある。


 目の前にいる無邪気な顔をした少女は、まだ幼すぎて社会の不条理を理解できないのだろう。


 ならば私の方からそれとなく距離を置かなければならない。


 社会から落ち延びた私といえど、それくらいの人間性は残されているのだ。

大岩 直人

お嬢ちゃん、お母さんは?
きっと心配しているから早く戻ってあげなさい

 私はなるべく引きつらないよう気をつけながら微笑んだ。


 久しぶりに口角を上げると、伸ばしきったヒゲ同士がじゃれあって口元が少し痒くなった。

越谷 夢乃

あのね、ホームレスさんってお金がなくて可哀想な人たちなんでしょ。
ママから聞いたんだ

 少女は私の言葉など聞いていない様子で話を続ける。

越谷 夢乃

だからね。
これあげる

 そう言って少女は後ろに組んでいた手を前の方に持ってきて、そのままクリスマスプレゼントでも渡すかのように何かを差し出してきた。



 私はそれを反射的に受け取った。



 何がなんだかわからず、渡された物と少女の顔を交互に見ていると、少女は駅の方を指差して満面の笑みを浮かべた。

越谷 夢乃

あそこで拾ったの

 そう言った少女は、まるでお手伝いをした後に褒められることを期待しているかのように、目をらんらんと輝かせている。

越谷 夢乃

バイバイ

 少女は急に駅の方へ走りながら、私に向かって手を振った。



 私は呆気にとられて口を開けたまま、少女が見えなくなるまで固まっていた。



 我に返り、少女から受け取った物を改めて確認する。


 その瞬間私は恐怖し、血の気が引いていった。


 私の手に握られたのは折りたたまれた茶色い財布であり、中を開けて数えるまでもなく、かなりの札束が入っているのが見えた。



 先ほどの少女は駅を指差しながら拾ったものだと言っていた。


 ならば交番に届けるのが常識であろう。


 そういう教育はされていなかったのだろうか。


 落とし主はさぞかし困っているに違いない。



 私は自ら交番に届けようと考え、大きく深呼吸をした後、立ち上がるため膝に力を加えた。



 力んだからなのか、何かを期待したからなのか、そもそも今がそういう時刻だからなのか、私のお腹がグゥという音を立てた。


その音に伴って、社会の常識というものが私の脳に語りかけてくる。



 拾った物を交番に届けるのが正しき行為であるならば、拾った者には一割というのも当然の見返りである。



 無論、これほどの大金に対して一割というのは、流石におこがましいと思った。


 それにこの財布は少女から譲り受けたものであって、私自身が拾ったものではない。



 だから、一割なんて贅沢は言わない。


 ただ、長いことまともな物を与えてやれなかったお腹に、満足してもらえるたった一食だけでいい。


 その願いさえ叶えば、必ず交番に届けると私は心の中で誓を立てた。



 なんて良心的な条件であろうか。


 もしこの財布が私以外の誰かの手に渡っていたら、絶対に持ち主のもとへは戻らないだろう。



 私は見知らぬ財布の持ち主に、もうすぐ手元に戻りますからご安心くださいと念じつつ、大金の入った財布を強く握り締めた。



 思えばこの時から、私の中の何かが狂いだしたのである。

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