真面目に生きろ、他人に迷惑をかけるな、間違ったことはするな。



 厳しかった両親がいつも私に言い聞かせてきた、ごくごく当たり前の教育である。



 その甲斐あってか、私はこれまで真面目に生きてきたと自負している。



 とりあえず馬鹿にされない程度の成績をキープし、そこそこの大学を出て、待遇はそれなりに悪くないと思える程度の大手企業の子会社に入社した。



 自分で思い返してみても、何ら特徴のない面白みもない人生だったと思う。



 二十代前半で早めの結婚を果たしたり、三十代半ばで会社を辞めて独立したり、マイホームを持ち、破竹の勢いで出世し、夢を叶えて脱サラし、かと思えば降格したり、浮気が発覚して離婚したり。


 同僚たちが様々な行事に揉まれて一喜一憂している側で、私は静かな川に舞い落ちた一枚の木の葉のように、時間の流れに逆らうことなく流されていた。



 しかしそんな日常を送りながらも、先の見えない不安にいつも怯えていた。


 次々と業務をこなしていくパワーがあるわけでもなく、上に立つ度量も無い。


 せめて皆の役に立つことで自らの居場所を確立したかった私は、同僚から仕事をお願いされれば、必ず引き受けていた。



 後々になって考えると、都合よく仕事を押し付けられていたに過ぎなかったのだが、楽しそうにはしゃいだり、機嫌よく愚痴を吐いたりしている周りの同僚たちには目もくれず、ただただ仕事をこなしてきたのだった。



 そんな私の肩に部長の重たい手がのしかかったのは、四十五歳のある夏の日である。



 その日私は、出勤してまだ一時間しか経っていない朝の十時頃に、部長と二人で社内の広々としたリフレッシュルームで、向かい合って座った。



 昼食時には、若い女性社員達が弁当を広げて世間話をしたり、働き盛りの男性社員達がキャバ嬢との楽しいひと時について語り合ったりしている。


 だが業務時間内は静まり返っており、この部屋の趣旨に反して妙な緊張感を覚える。



 部長はしばらくテーブルの上で手を組み、私の顔をジッと見ていた。


 威圧しているような、哀れみを込めているような、どちらにも感じられる部長の視線に恐怖を覚え、私は逃れるように目を泳がせた。



 七三できっちりと分けられた髪とキリッとした顔に、パリッと張ったワイシャツと高級感漂うネクタイ。



 部長と正面から向き合っていると、嫌でも自分との生き方の差を感じてしまい、自己嫌悪に陥る。



 私はいったい何のために生きているのだろう。


 年齢に比例してそのようなことを考える頻度が増えていった。

大岩さん、最近疲れているんじゃないか?
以前より覇気が感じられないし、口数もかなり減ったしな。
顔色も悪いぞ

 部長は突然心配そうな顔をして言った。



 私は以前から覇気など持ち合わせていないのだが、心の中で膨らんでいく不安が表面に出ているのだろうか。


 面と向かってこのようなことを言われると、やはり疲れが溜まっているのかと思えてくる。



 私が部長の気遣いに肯定の意を唱えると、産業医の面談を勧められた。


 そこから先の人生はあっという間に転落していった。



 まず私はうつ病だと診断され、処方薬が出された。


 薬の副作用からくる眠気が業務に支障をきたすようになり、私は休職を勧められた。



 これまでも会社の役に立てている自信がなかった私は、もはや自分自身が会社にとって迷惑な存在だと考えるようになり、申し訳ないという思いで激しくなる動悸を抱えながら、自主退職することを選んだのだ。

ニトロじいさん

そりゃ典型的なリストラの手口だべ。
まんまと引っかかったなおめぇさん。
まあ元気だしな

 そう言って私の肩を叩くのは、私が暮らす街のホームレスを仕切っているニトロじいさんと名乗る男だ。



 ニトロというのは彼の本名ではない。


 このじいさんだけでなく、私の知るホームレスたちは皆、お互いにニックネームで呼び合っており、本名だけでなく年齢や過去の勤め先などは可能な限り喋らないようにしているのだ。


 それは社会復帰後にホームレスだった自分の過去を断ち切るための配慮らしい。


 そんなわけで私も山田と名乗っている。



 本来なら自分の過去はあまり話さない方がいいと言われてはいるのだが、語りたくない過去というのは、時には誰かに聞いて欲しいと思うこともある。



 そんなわけで、ダンボールとブルーシートで作った我が家のすぐ近くにあるベンチで、ニトロじいさんに私のこれまでの人生を聞いてもらっていた。



 声を発するたびに、私の乾ききった口から白い息が漏れて、夜の闇に溶けていく。



 真っ黒い影と化した公園の木々の隙間から、街の光がキラキラとうごめいている。


 遠くから聞こえる街のざわめきは現実感が無く、まるで住む世界が違うのだと言われているみたいだった。

ニトロじいさん

リストラっていうとよ。
すぐにクビ切られたりするのを想像しがちだがな。
会社側だって表立ってそんなことすりゃイメージ悪いし、訴えられるリスクがあんだ。
だからやり口が巧妙になってきてるわけよ。
詐欺となんら変わんねぇ。
まったく嫌な世の中だべな

 ニトロじいさんは何本か欠けた前歯の隙間から、吐き出すように大きく溜息を付いた。

ニトロじいさん

まあ食え。
わしのおごりだ

 ニトロじいさんは寿司屋の残飯から拾い集めた刺身や焼き魚をベンチの上に広げると、マグロの切り身を三枚ほど摘んで口の中へ放り投げた。



 聞くところによると、お寿司屋の残飯が一番新鮮なのだそうだ。


 他にもニトロじいさんからはホームレスをしていく上での様々なことを教わった。


 空き缶を集める場合の最適な時間帯とルート、寒さをしのげるあらゆる施設、ボランティアの炊き出しの日程、缶切りがない時の缶詰の開け方、食べられる雑草などなど、日常的に必要な情報や生活の知恵である。



 また、ニトロじいさんは顔が広く、日雇いの仕事を斡旋している人物や、廃棄弁当を分けてもらえるコンビニの店員、ホームレスが手売りして金を得ることを目的とした雑誌の仕入れ先など、人との繋がりまでも世話してもらった。



 もっとも、ニトロじいさんも自分のことを深くは語らないのだが、長い月日をかけて蓄えたであろう丸まった白ひげを手でわしゃわしゃと弄ぶ姿といい、ベテランの貫禄があった。

ニトロじいさん

邪魔したな、山田さん。
最近、トムさんのところに顔を出さないみたいだからちょいと心配になってな。
こんな生活してるとよ。
やる気がなくなるのはようわかるんだがな

 ニトロじいさんは持参してきた刺身を一通り平らげると、腰を重たそうに持ち上げながら言った。



 トムさんというのは、日雇いの仕事を紹介してくれる人物なのだが、これがまた結構な重労働だったりする。


 下水の掃除や倉庫内作業、ゴミ収集所での分別作業など、デスクワークばかりやってきた私には慣れない仕事が多い。



 私はニトロじいさんに苦笑いを向けながら、小さく会釈をした。

ニトロじいさん

まあなんだ。
ホームレスとはいえ、身なりはそれなりに整えておくんだぞ。
社会復帰のためには必要なことだでな

 そう言って闇夜に消えていくニトロじいさんを見送りながら、私はがっくりと肩の力を落とした。



ニトロじいさんの気遣いは心底嬉しいのだが、私はすでに生きる気力を失っていたのだ。

 ホームレスの生活というのは想像以上に厳しいもので、精神を病んでしまう者も少なくない。


 独り言をブツブツとつぶやいたり、奇声をあげるお仲間を見たこともあった。



 それでも生きているのは、私に死ぬ勇気がないからだ。



 私はホームレスになる前から度々感じてきた疑問を、自分自身に投げかける。



 私はいったい何のために生きているのだろう。



pagetop