真面目に生きてきた私の歯車は、あの子と出会ってから狂いだした。


 あの子の無邪気な笑顔をこの世から消し去ったのは私なのだ。



 その責任を私の死でもって償えるのなら、どんなにいいだろう。


 だが、私の安い命では到底釣り合わない。



 無数に降りてくる白い小さな粒が私の体を冷やしていく。


 それは救いようのない人生の最後の最後に現れた、神からの救いの手のような気がした。



 私は天を仰ぎ、吸い込まれそうな黒い空に向かって問いかけた。



 このまま眠れば死ねますか?




 気がつくと私は見知らぬバーの中にいた。



 なぜ、どのような経緯でこの場に立っているか、まったくもって記憶にない。


 いつの間にか大量にお酒を飲んでしまったのだろうか。



 それにしても私のような者には場違いな清潔感のあるバーだ。


 色とりどりの酒瓶が並べられたバーカウンターは、あたりの風景を映し出すほどピカピカだし、天井や壁にはシミ一つ見当たらない。



 そんな小洒落たバーの中で一際目を引くのは、どう見てもお酒を飲む年齢には達していない二人の子供だった。



 一人はカウンターの中でグラスを磨いている少年で、もう一人はカウンターに座り、静かにウィスキーらしき物を飲んでいる少女だ。


 二人とも神々しいばかりの金髪と、天使ではないかと思ってしまうほどの綺麗な顔立ちをしている。



 バーに子供しかいないという事実に違和感はあったが、そんなことよりなぜ私がここにいるのかという疑問から解決すべきと考え、改めて記憶を辿ってみた。


 ところがどうにも記憶が曖昧で、ここに来た経緯がまったく思い出せない。

水樹

どうぞお座りください

 カウンターの中の少年はそう言うと、カウンターに座る少女の隣の席に手を差し出た。



 私は思わず身につけている服の胸元を摘み、自分の鼻に近づけて臭いを嗅いだ。



 まともに風呂に入ったのはいつだったか。


 服を洗ったのはいつだろう。


 そもそも、私の身につけている物の全てがボロボロで、あちこちに穴があき、靴の先からは親指が貫通している。



 こんな格好で綺麗なカウンターの前へと歩み寄るのは、さすがに申し訳ない気持ちになった。

大岩 直人

すいません。
間違えました

 私は思わずそう言って、自分の真後ろにあるドアのノブに手をかけた。



 やはり記憶がなくなるほどに飲みすぎてしまい、うっかりバーの入口を開けて中に入ってしまったのだ。



 そういえば酒を飲んでいた記憶がある。


 まだぼんやりとした記憶ではあるが、徐々に思い出していきそうだ。

水樹

お待ちください。
そのドアから出てしまっては、権利そのものがなくなってしまいます。
まずは私からご説明させてください

 少年の少し慌てた声に私は動きを止めた。



 見知らぬ者から権利について説明があるなどと、まるで詐欺の常套手段のようだが、私にはその言葉が魅力的に思えた。


 例えばこれが詐欺や悪戯だったとしても、どのみち失うものなどないのだ。


 それに、何かを失うことは日常茶飯事だった。



 普通の人間なら、失うという言葉から大層なものを失ってきたのだと連想するかもしれないが、例えばそれは他人から見ればゴミにしか見えない鞄や、ライター、カセットコンロ等である。


 それは私にとっては本当に大事な物だが、それらを奪っていく人間は遊び半分なのだ。



 だから、何らかの権利を得たというなら、それを大いに喜んでやろうと思うし、もし騙されてこれ以上私から何かが奪われるというのなら、人生を諦めるいいきっかけになるではないか。



 私は振り返り、少年の顔を見た。


 彼は相変わらずカウンターに手を差し向けて、座ることを促している。

水実

いい加減、座れば?

 今度はカウンターに座っている少女が、こちらを見ることもなく言った。



 私は自分の腕を鼻に近づけ、改めて臭いを確認し、そうすることでまた少し思い出した。


 そういえば今日は偶然にも風呂に入っていたのだ。



 私は躊躇しながらも、ゆっくりとカウンターの方へと歩き出し、少女の座る椅子から一つ席を空けて腰掛けた。

水樹

僕はこのバーの案内人。
水樹と申します

水実

私は水実

 少年が丁寧に自己紹介をした後、少女がため息混じりに名乗った。

大岩 直人

私は、大岩直人と申します

 私はどこにともなく会釈をし、長年連れ添った自らの名を晒した。



 水樹と名乗った少年は、私の自己紹介に感謝の意を述べた後、さらに話を続けた。

水樹

ここは、死んだ誰かの身代わりになることができる場所です

大岩 直人

身代わり?

 言葉の意味がよく理解できず、思わず聞き返す。

水樹

例えば、あなたに大切な人がいて、その人が死んでいるのなら、あなたが身代わりになって生き返らせることができるわけです

 元々、騙されても構わないと思っていたからなのか、生きることに疲れたからなのかわからないが、その言葉に対する驚きや疑いはあまりなかった。



 もちろん、水樹と名乗る少年の説明を鵜呑みにしたわけではないが、もし本当のことならこれほど今の私に必要な権利はない。

大岩 直人

私には……大切な人などいませんよ。
ですが、もし本当に身代わりになれるというのなら、あの女の子の身代わりになりたいものですね

 相変わらずこのバーに入った記憶だけは抜けているが、私は先程まで忘れていたほとんどのことを思い出していた。



 私の年齢は五十四歳で結婚歴はなく、長年勤めていた会社も辞めてしまった。


 両親は共に他界してしまったため行く宛てもなく、ホームレスとなったのは三年ほど前だったか。


 かなり鮮明に記憶が蘇っている。



 そして、ゴミ溜めを這いずるような人生を送る私の前に、あの子は突然現れた。



 一瞬、私は記憶が掘り返されたことを悔やんだ。


 出会ってわずか一日程度の関係でしかないが、あの女の子との出会いが私を罪人へと変えてしまったのだ。



 思い出したくもない出来事だったが、このまま忘れ去り、ヌクヌクと生きていくのは人として間違っている。



 やはり責任を取るべきなのである。


 責任といっても、もはや自分の死をもって償う以外に方法はなく、罪悪感に心臓を握られたまま私は途方にくれていた。


 これがこのバーを訪れる以前の、最後の記憶である。



 だが先ほどの水樹の言葉で、たとえそれが非現実的な話であっても、私は希望を見出すことができた。


 もし身代わりになれるということが嘘だったとしても、私は精一杯責任を果たそうとした……という体裁が保たれるのだ。



 大人とは、世間とはそういうものである。



 無論、結果こそが最重要事項であるが、結果が出せないのなら、次いで重要となるのが体裁だ。



 私はこの醜い社会のルールが大嫌いだったが、いつのまにかどっぷりとそのルールに染められていることに気付かされ、少しだけ心が沈んだ。

水樹

つまり、その女の子に恩があるということでしょうか

大岩 直人

恩……ですか。
いや、そんなものじゃありません。
むしろ私の価値観からすると、あの子の行動は間違っている。
そして私の行動も。
あの子と出会ってから、全てが狂ってしまったのです

 気がつくと私はうつむいていた。


 思い返せば私の人生、下を向いてばかりだ。



 カウンターが天井からの光を受けて、私の顔を微かに照らす。

水実

話してくださるかしら?

 水実と名乗る少女が口元に笑みを浮かべ、まるで子供に語りかけるように言った。



 私とは随分年の差があるはずなのに、水実の声には心を落ち着かせる不思議な色香があった。



 私は水実の声に促され、最悪の出会いによって犯してしまった私の罪を、どのように話せばいいのか考えた。

大岩直人 その1

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