パッパッーッ!

……ッ!

 後方からのクラクションに、現実へ引き戻される。眼の前を見上げると、信号が青に変わっていた。
 周囲を確認して、急いでアクセルを踏みこむ。
 記憶を探りすぎて、ぼうっとしていたようだ。
 もし、妻や娘がいれば、笑われるか心配されていただろう。
 普段の私は……いや、今の私は、あまり夢見がちになることが少ないからだ。

 そう気づいて、私は、いつから彼女との時間が変わっていったのかを、想い出していた。

伊佐木 学(いさき まなぶ)

そうか、その頃か……

 彼女の選ぶ本を読み、自分の中で楽しんで、またその一時を味わうために店へ通う。
 混じり、解け合った、それらの関係。
 いつまでも続くのではないか、と想えるような、とても心地よい時間だった。

 ただ――ある時、私に恋人ができた。
 本屋に務める、年上の女性では、もちろんない。

あんたを見ている人も、いっぱいいるんだから

 同じ学校に通う、同じ年の女の子。
 子供の頃から良く知っているから、幼なじみ、とも言える関係だった。
 彼女の好みや性格は、私とまるで異なっていた。そもそもあまり本を読むようなタイプではなく、部活の陸上が生活の中心のような子だった。
 お互い、意識しなければ、なかなか接点のない二人でもあった。
 ただ……いつしか彼女は、私と重なるような本を読んだり話をしたり、してくれていることに気づいた。
 そして私もそれに合わせ、誘われるままに横で走ることを始めてからは、あっという間だった。
 初めての恋人関係に戸惑いながら、私は、今まで通りに本屋へ通っていたことを想い出す。

その本、面白いですよね。
……少し、驚きましたけれど。
今までと、少し傾向が違いますから

 彼女はそう言いつつも、恋人が勧めてくれたその本に、興味深そうな表情を浮かべていた。
 おそらく、私が好みそうな本から、離れていたからかもしれない。

伊佐木 学(いさき まなぶ)

あの、知り合いの子にオススメされて

 私は、言い訳をするような口調で、そう言っていたことを想いだす。罪悪感のような苦味は、どちらに対してのものか。

私もこの本が好きなので。
そのオススメされた方と、お話してみたいですね

伊佐木 学(いさき まなぶ)

……今度、連れてきますよ

 ――結局、その恋人を連れて行くことは、一度もなかったのだけれど。
 もちろん、本屋で薦められる本も楽しく、私は満足していたはいたのだが。
 次第に、恋人との時間が増え、学業や仕事の割合が増すにつれて、本屋へと寄る時間が減っていった。

この本、オススメなんですけれど……

 彼女の薦める本は、確かに興味を引く内容ではあった。
 だが私は、申し訳ないと想いながら、彼女からのオススメを断る機会が増えていった。
 その当時の私は、周囲の求める知識や状況から、特定の目的の本しか買わない傾向が強くなった。
 会社でのマナーや仕組み、税金対策や資格取得、自己啓発や社会情勢、それらの具体的な知識が必要となるものだ。
 心が動かされなかったといえば嘘になるが、それよりも時間を使わなければいけないことが増えてしまった。
 申し訳なさそうな私の手元を見ながら、彼女は微笑みを浮かべながら言ってくれた。

もしかして……ご結婚されるんですか?

伊佐木 学(いさき まなぶ)

……はい

それは、おめでとうございます

 そう言いながら、彼女は結婚の本や育児の本、教育の本などを教えてくれた。

伊佐木 学(いさき まなぶ)

……ありがとうございます

末永い幸せを、祈らせていただきますね

 ――彼女の指に輝く、銀色の輪。
 彼女が、自分の知らない面を持っているのだと気づいたのは、もうずっと前のことだった。それは、とても当たり前のことだったのだけれど。
 本を抱え、足を家へと向けたのが……はっきりとあの本屋へ行った、最後の記憶だったような気もする。
 それが、結婚を契機としてなのか。それとも、指輪を見つけてからなのか。
 どこか、彼女が遠くなっていくような、奇妙な感情を感じていた。

(我ながら、勝手で酷い理由だな……)

 その頃から、その本屋へ通う時間が減っていったように想う。
 そもそも、本屋そのものへ行く機会が激減したのもあった。

 家族ができ、休日を本屋だけで過ごすのは難しいから、ショッピングモールなどに行く機会が増えた。
 そしてその施設の中にも本屋はあるから、本に触れないわけではなかったからだ。
 ただ、本屋に行かなくなった一番の理由は……妻や子供、仕事や地域つき合いなど、人間関係に主な時間を使うことになったのが大きい。
 たまの休みにも、一人で本屋に行く時間はほぼなくなった。
 それに、かつてのような興奮を、本へと持てない自分をどこかで自覚してもいた。
 だから、私は……無意識に、本を見ることを、避けるようになっていた。

(最後に、本に感動したのは、いつだっただろうか)

 事務的な書類に目を通し、必要な部分を修正して、現場で対応する日々。
 ゆったりした時間の中、味わうように読んでいた世界……それらとは異なる、私を取り巻く世界の断片。
 そう、想えてしまう、言葉の羅列。
 嫌だというわけではない。だが、あの頃のような想いを、持てなくなっているのも事実だった。

一人で、見たのは……あの時か

 ある日、ショッピングモールへ妻と娘と一緒に出かけた時のことだ。少しの間、別行動をした時にふらりと本屋へ足を踏み入れた。
 そして、本棚を見ながら……愕然としてしまった。

伊佐木 学(いさき まなぶ)

……

 そこに、読みたい本が、ないのだ。なにを読んでもいい、まったく時間がないわけではない。
 新しい知識を吸収し、違う世界に想いをはせる、そんな生活が許されているというのに。

(……どれも手にとることが、できなかった)

 ――ささやいてくれる彼女の声など、もちろん、聞こえることはなかった。
 初めて感じたその不安は、でも、妻と娘に電話で呼び出され、振り払われた。
 ただ、その時の衝撃は大きかった。だから、本を見ることを、避けるようになったのかもしれない。
 私は、もう、しばらく本屋に行っていない。
 ましてや、その想い出の本屋に行くことは……。

 車を止めてドアを開き、外へ出る。
 もう遅い時間だというのに、視界には、たくさんの車と行き交う人々。

 田舎で最後に残った老舗本屋の駐車場は、不思議な熱気に満たされていた。

 駐車場には、携帯を構えている人も見える。おそらく、カメラで撮影をしているのだろう。
 建物を撮る人や、何人かで固まった姿を撮る人達など、その対象は様々だが。
 私が印象的だったのは、駐車場の端に建てられたあるものを撮っている人達だった。

 昔からその場所に建てられている、年代を経て印象的な味を持った、老舗店舗の立て看板。

(あの看板を目印に、来ていたな)

 景色を眼にするたびに、当時の記憶がよみがえってくる。
 周りを見れば、色々な人々がいた。
 談笑する人や、写真を撮る人、店員と仲良く話す人。
 田舎の、しかも夜中に、これだけの人々が集まっていることは珍しい。
 それほど、みな、名残惜しいのだろう。最後に、別れを惜しんでいるのだろう。
 私のように、過去を振り返りながら。

見知った顔も、いるのかな

 ともに成長し、時間を共有し、知識を与えてくれた場所。
 どこか悲しそうに、懐かしそうに、想い出に耽るように、みなが本屋で各々の時間を過ごしている。
 駐車場だけでも、想いは膨らんでしまう。
 だが、本当の目的地へは、まだたどり着いていない。

 そう考えた私は、自動ドアを超えて、店内へと足を踏み入れる。
 ……久しぶりに入った店内で、私は、少し陰りのある匂いを感じた。
 それが、敷き詰められた本棚や店の匂いだと、身体の方が教えてくれる。
 変わらない。眼に入る雰囲気は、昔のままだ。
 少しだけ口元が緩くなったまま、なんとはなしに各コーナーを巡る。

 種々様々、あらゆる知識や娯楽をまとめた良書の数々が、本棚を埋めている。
 でも、子供の頃に見た、恐ろしいほどの圧迫感はもうない。
 本棚を見渡せるほどに成長した自分の身体のせいもあろうし、背表紙に刻まれた本のタイトルを理解できるようになった、そういったこともあるのだろう。
 ただ、胸を締めつけられたのは、棚の空白地帯。

 まるで挟み込まれるのを待っているかのように、ゆるんだ本の数々。傾いて寄り添っているのは、そうでもしないと倒れてしまうからだろう。
 そして、背表紙ではなく、本の表紙で飾られた棚もあった。そこは子供の頃、みっしりと詰められ、子供の手でとるのが大変だったように想う。
 私が子供の頃に見た、圧倒的な、あまりにも手の届かない姿は、もうそこには見受けることができなかった。
 むしろ、引き取り手のいない、悲しい知識達の整列にも見えてしまった。
 そう見えるのは……私自身が、なにを求めてここに来たのか、わからなくなっているからだろうか。

(どうして、ここに来たのか)

 衝動的に車を走らせ、読みたい本もないのに、なぜ自分はここへ来たのか。
 今更ながらに、私は自問する。
 なにを、読めばいいんだろう。
 どれを、読めばいいのだろう。
 だが、自分の中に、それに答える答えはない。
 ……もう、私は彼らの持つ知識を理解することが、できないのだろうか。

なにか、本をお探しですか?

 そんな時だった。
 とても、とても久しぶりに、その声を聞いたのは。
 声の方向に振り向いて、眼を見開く。
 そこには、彼女がいた。初めて会った時と同じように、優しい微笑みを浮かべた顔で。

お久しぶりです。
ずっと、待っていたんですよ

 嬉しそうに微笑む彼女の声に、私の目頭が熱くなる。
 年を経て、彼女の顔には年相応の時間が刻まれていた。髪にも白髪が混じり、私がずいぶんとここへ来ていなかったことを、感じさせられる。

ええ、そうですね。
お久しぶりです、本当に……

来てくれて、嬉しいです

まさか、閉店だなんて、驚いて

もう、父も私も、歳だから。
時代の流れもありますし

 彼女の言葉に、私は罪悪感のようなものを感じていた。
 ここに来なくなり、こうした事態になった理由の一つに、自分も含まれているのではないかと感じたからだ。

本当に、来てくれて、嬉しいわ

 私の気持ちを計ってか、彼女はそんな言葉をかけてくれた。

でも、久しぶりすぎて……なにを読めばいいのか、わからないんです

 正直な気持ちを言った私に、彼女は、手を差し出しながら言った。
 初めて私を導いてくれた、あの時と同じ仕草で。

大丈夫。
だって、来てくれるのなら……まだ、あなたは見つけたいと、想ってくれているんですよ。
わたしは、そう想います

 なにかが溢れるような、震える声。
 耳に響く淡い声から想い出す、ともに探したかつての日々。
 掘り起こされた記憶から、私は、ある作品のタイトルを想い出す。
 それは、学生時代によく読んだ、伝奇小説シリーズのタイトルだ。
 何十冊も刊行が続いていたけれど、多忙でいつの間にか読まなくなっていたのだった。
 一つを想い出せば、それに関連するタイトルも芋蔓式に出てくる。小説から、学術書、漫画や雑誌まで……かつての自分が、少しずつ引き出されてくる。
 そんな私の内心を知っているのか、それともわかっているのか。
 彼女は、静かに微笑みながら、言った。

もう、ここに全部があるかはわからないけれど……お探しに、なりますか

 どこか申し訳なさそうな、やや低い声。かつて、一緒に本を探してくれた彼女からは、聞くことのできなかった声。
 ――ずっと、待っていた。それは、一緒に本を見つけなくなった、私への不安と願いだったのだろうか。
 抜け落ちた時代に生み出された本、それらをカバーするだけの量は、もうこの本屋にはないのかもしれない。
 彼女は、それが不安なのだろう。
 でも……それらの本は、その時代の、新しい本だった。偶然の出会いもあれば、期待しながら買った出会いもあった。
 一緒に出会った本は、なにも、今も記憶に残る本ばかりではない。
 だから、決して、過去の続きだけを探す必要はない。
 欠けた時代のなか、この場所を守るために、新たに生まれた作品はあるはずなのだ。
 だから私は、彼女にだけ聞こえる声で、願いを呟く。
 新たな出会いを求め、かつて最も私のことをよく知っていた、愛しい存在である彼女へと。

もちろんです。
今の私が読みたい本が、必ずあるはずですから。
そして、よければ……今のあなたのオススメも、教えてもらえますか

 私の言葉に、彼女はやや細くなった身体を曲げて、嬉しそうに微笑んだ。
 そうして私は、彼女と少しだけ一緒に、本を探して店内を歩いた。
 懐かしい感触と、購入する期待。
 途中、私と同じように閉店を惜しんだ客達の対応で、彼女が離れることは多かったけれど。
 私は、じっくりと、懐かしいその本屋を堪能することができた。

 いつしか時間は過ぎ去り、店内閉店の案内がスピーカーから流れ始めるようになった。
 忙しそうな彼女とはすでに別れ、何冊かの本が手元にある。
 大急ぎでカウンターへ行き、手に持った本を購入する。

ありがとうございました

 店員の声とともに、入り口の扉をくぐる。
 気の向くまま、彼女の声のまま、買った本がずしりと腕にくる。
 振り返り、片づけが始まった店内を、ガラス越しに見る。
 かつて、日々を過ごした店内。だが、その灯も、今日で終わる。
 ――もう一度踏み込めば、あの灯の感触を、まだ、想い出せるのだろうか。
 そう考えもするが、店内はすでに灯を落とす準備にとりかかっていた。

 名残惜しそうな人々が玄関に並び、なんとなく入店するのがためらわれる雰囲気になっていた。

 消えてしまった、とは、考えたくなかった。
 両手の本の重みが、自分だけで選んだものだと考えるのは、少し寂しかったからだ。
 多忙な中、これらの本が読めるか、私にもわからないけれど。
 ただ、少しずつでも、読んでいきたいと想う。

 ――彼女が選んでくれた本のおかげで、今の私があるのだから。

 本屋の灯が消え、店長が店の閉店を告げる。
 彼女も横に付き添い、長年の感謝と別れを、まだ残る客達へと告げていた。
 たくさんの人々が悲しみの声を上げる中、私もただ独り……彼女との別れを、胸の中で想っていた。

探したのはこの場所で・後編

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