――ッ!

 テーブルへと置かれていた地域情報誌。
 それを見て、私は驚愕の声を上げてしまう。
 イベントや市政などの記事の片隅に、ある記事が記されていたからだ。

 ――老舗本屋の閉店。その日付は、今日。

 そのニュースを見て、私は落ち着いていられず、急いで車のキーを持つ。
 残り時間まで、あとわずかなことにも気づいていた。だからこそ、気が焦ってしまう。

 驚く妻を説得して、肌寒い車内へと身を預ける。
 風の冷たさに少しだけ冷静になりながら、だからこそ、エンジンを回転させて向かう必要性を改めて感じる。

(……あの頃は、自転車で行ったものだったが)

 今更ながらに、ある存在のことを想い出したから。
 そして再会の機会は今日しかないと、強く感じさせられたからだ。

 ――その本屋で私は、彼女に出会った。
 私にとって、とても大切な時間を探してくれた、彼女と。

 頭の片隅で当時のことを想いかえしながら、クラッチを入れて車を走らせる。

 妻と娘のいない車中はとても静かで、まるで別の車のようだった。

(昔は、よく知っている静寂だった……気もするが)

 ラジオを聴く気分にもなれず、私はただアクセルを踏んで車を走らせた。

 ただ、慣れた道が続くせいか余裕があり、自然と物思いに耽ってしまう。

 振り返るのは、彼女のこと。いつ彼女と出会ったのか、記憶をたぐる。
 それが何歳の頃だったのかは、もうおぼろげで想い出すことはできない。

 初めて踏み入れた、今向かっている書店は、当時の私にはとても巨大で未知のものだった。
 その大型書店は、私の住む田舎の地域では、物珍しい規模で開店した。
 元々、書籍を専門に取り扱う店が少ない地域だったこともあり、注目度はすごいものがあった……らしい。
 らしいというのは、後年、父や母に聞いて初めて知ったことだ。
 というわけで、書店の開店をみな心待ちにしていた。父と母も、あまり普段は本を読まないのだが、開店直後の珍しさから私を連れて行ってくれたのだ。

……!

 幼い私に、詰め込められた棚の本棚は、圧倒的だった。
 壁も見えないくらいに敷き詰められた木の棚に、厳つい文字の列がぎゅうぎゅうに詰め込まれていたのが想い出される。
 それがなんなのか、どういった意味なのか、全然わからなくても、異様な迫力があった。
 そこになにかが込められ、こちらを見ているんじゃないか……そう想ったことを、よく覚えている。
 ただ、子供の上、文字も読めなければ飽きも早い。
 そして、圧迫感だけがある場所。

……

!?

???

 真新しい店内はとても広く、両親も迷子になってしまっていたのかもしれない。
 本棚の壁に貼られた、一枚の紙を両親が見つめ始めた――そんな時だった。

なにか、本をお探しですか?

 ささやくような声に誘われて、両親に向けていた眼をそちらへ向けた。

……!

 そこには、彼女がいた。
 清潔そうな白いブラウスに、まっすぐなロングスカート。
 整えられた髪はきちんと手入れされ、こちらを見つめる瞳は大きく輝いていたように想う。
 幼い私は、驚きはしても、不安は感じなかった。
 彼女の雰囲気や表情の柔らかさに、安心していたのかもしれない。
 両親が声をかけ、彼女は頷(うなず)いて手を差し出す。

児童書のコーナーですね。
それでは、ご案内します

 彼女はちらりと私に微笑んでから、背を向けて歩き出す。

両親に手を引かれながら、私は彼女の背を一緒に追いかけていた。
 背をぴんと伸ばし、自信を持って歩くその姿。
 どうしてか私には、そのしっかりと立ち歩く後ろ姿に、本の背表紙のような芯の強さを感じた。
……そう気づいたのは、もちろん、後年のことだが。

 ある一角に来て、彼女はまたこちらを振り向いて言った。

こちらが、児童書のコーナーになります

 彼女に案内されたのに、私は、じっとその顔や仕草を見つめていた。
 なぜなのかは、今想いかえしても、わからない。
 ただ……彼女とこの場所の統一感というか、空気がとても合っていたのことに、幼心ながら驚いていたのかもしれない。

……僕?

……!?

 心配そうな彼女の声に、ようやく私は眼をそらした。
 そこでようやく、自分がどんな場所へ連れてこられたのか、眼に入れることができた。
 そしてその場所は……私にとって、彼女とは違う驚きを与えてくれるものだった。
 眼の前にあったのは、さっきのどこか堅苦しい世界とは違う、柔らかさが広がる空間だった。
 カラフルな色彩や、絵や写真、ひらがななどを多用したそのコーナーは、子供心にも安心感がわいたのを想い出せる。
 今でも、その時の興奮を想い出すことができる。
 高揚しながら、私は本棚の本に手をかける。
 ただ、文字はひらがなくらいしか読めず、意味をくみ取ることはできなかった。
 それでも、絵や写真をふんだんに使った、わかりやすい本に心をつかまれた。
 両親はそんな私を見て、落ち着きなさいと声をかけてきたような気がする。
 私の姿を見て安心したのか、彼女は

失礼します

 と言って、その場を後にしようとした。

……

……♪

……?

 すると両親は、彼女をひきとめ、なにかを話し始めた。
 そしてその話が終わると……彼女は、私の横へ座って、一緒に本を選び始めた。

……!

 今にして想えば、あまり本を読まない両親は、私へどんな本を送るべきか悩んでいたのかもしれない。
 私も同じだった。いろいろな本がありすぎて、子供心にもどれが欲しいのか、わからなくなってしまっていたように想う。
 そんな私を見ながら、一冊の本を彼女は差し出してきた。

わたしの、個人的なオススメなんですけれどね

 彼女はゆっくりとそう言いながら、私の瞳を見る。
 次いで、微笑みを浮かべてから、言葉を続けた。

楽しんでもらえれば、嬉しいです。
この続きも、とってもステキなんですよ

 正直、その時の私は手の中の本より、楽しそうに本のことを語る彼女の姿にこそ惹きつけられていた。
 だから彼女の言葉に、違う期待を、してしまったのかもしれない……と、今なら想える。

それに……これだけじゃ、ないですから。
だからまた違う機会に、この本屋でいろいろな本を見ていってほしいですね

……!

 彼女の声に、私が声をかけようとしたのだが、うまく言葉が出てこなく。

 いつの間にか、両親が代わりに彼女へ礼を言って、その姿は消えてしまっていた。

 私の手には、彼女が選んでくれた本が一冊、硬い感触をもって残っていた。

 そうしてその本屋を後にし、家へ帰って読んだその本は――とても面白く、すぐに続きが読みたくなるものだった。
 わがままを言う私に苦笑しながら、両親が再びその本屋を訪れたのは、一週間後のことだった。

 そうしてその場所で、私はまた――彼女の姿を見つけ、今度は自分からお願いしたのだ。

……?

――この本のつづき、ありますか。

 今でも、その時の緊張を想い出せる。

はい。もちろんです

 そして、優しい瞳で頷いてくれた、彼女の姿も一緒に。

 ――それから私の向かう遊び場所に、その本屋の存在が多くなった。
 両親は、どちらかといえば喜んでいたように想う。
 そして私も、その本屋に通えることがとても嬉しかった。

いらっしゃいませ。
この前の本は、どうでしたか?

 後々わかったことだけれど、彼女はその本屋の店主の娘だったということだった。
 それに恥じないよう、彼女は広い店内で精力的に働いていた。
 同時に、彼女は色々な本を読んでいた。
 いつそんな本を読んでいるのか、疑問に想えるほどだった。
 少しだけ成長してから、背伸びをした本にも興味が出てきた頃。
 彼女に相談をすると、興味のある本の感想や評価などを、彼女は的確に答えてくれたからだ。勉強家でもあったのかもしれない。
 どうしてそんなに本を読むのが好きなのか、訪ねたことがある。
 すると彼女は、小さな細い指先を口元に当て、ウインクをしながら答えた。

いろいろな人と、本の話をするのが好きだからです。
それは、理由になりませんか?

 その答えに私は、それならと想ったものだ。
 ――もっと、あなたと、そして本達と、会話をしたいと。

(今にして想えば……あれは、初恋だったのだろうか)

 彼女に対してか、本に対してか。
 それとも、両方か。

 胸に抱いた想いを、本を読む口実にはしたくなかったが、混じりあったものであったような気もする。
 ただ言えるのは、中学生になった頃からは、父と母の付き添いなしでその本屋に訪れるようになっていたことだ。

 店に来る度に私は、彼女とともに本を探すようになっていった。
 最初は緊張しながらだったが、次第になれていき、自然な雰囲気で話せるようになっていった。

伊佐木 学(いさき まなぶ)

こんにちは。
あの、この間の本なんですけれど……

ええ、ええ。
……そうですね、そういう解釈もありますね

 彼女と話せるのは、純粋に楽しかった。
 いろいろな本を紹介してもらえたり、感想を言い合えたりできたからだ。彼女のオススメもあったし、私からの返しもあった。
 ――その本屋は、とても、居心地がよかったのだ。
 田舎とはいえ、その店以外にも、本を扱う店はあるにはあった。
 雑多な本を扱う古本屋、一角に雑誌などを置いた駄菓子屋、地元密着型の品ぞろえをする個人経営の本屋。
 ただ、それらの店と比べても、その本屋はとても大きく、品ぞろえがよかった。
 他の店では売れないような本も豊富に取りそろえられており、見ていて飽きることがなかった。
 なにより、彼女がいたからだ。
 年を経ても、彼女は変わらずに、私へいろいろな本を薦めてくれた。
 彼女とともに歩く店内は、私にとって第二の家のような心地よさがあった。
 かつては圧迫感があった棚の列も、まだ見ぬ未開の地を進むような興奮と興味を呼び起こす象徴となっていった。
 見知らぬ文字列を見て、私は、様々な世界と知識へ意識を広げていったのだ。

この間の本はどうでした?
もし良かったのなら、この本もいいかも

 彼女の招きに従って、私は色々な本を読んでいった。

 もちろん、毎月の小遣いで買える限度はあったから、それらの全てが読めたわけではなかった。
 読む時間は限られていたし、学校の勉強や部活などでも時間をとられたりした。
 もちろん友達付き合いもあったし、彼らとの話題づくりに読める本を選んでいたりもしたけれど。
 少なくとも一冊は、彼女の選ぶ本を入れるようにしていた。
 次にここへ来た時、また、話す話題ができるからだ。

嬉しそうに読んでくれて、嬉しいです

 私が何冊もの本を買って、楽しそうに帰る際、彼女はそう言ってくれた。
 ――今にして想えば、若気の至りに想えるほど、私は熱心に彼女との時間を過ごさせてもらった。

 そんな時間が、いつまで続いたのだろうか……。

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