撫子

ん……。……あ、れ? お師匠、様?

フェインリーヴ

やっと起きたか。おはよう、撫子。

撫子

おはよう、ございま、……す?

フェインリーヴ

うわっ!!

 気怠さを身に纏いながら目を覚ました撫子は、寝覚めの一瞬で傍にいたフェインリーヴを寝台の外へと突き飛ばした!!
 な、ななな、なんで、お師匠様が私の隣でさも当然のように添い寝をしているんですか!! と。
 年頃の乙女として、当然の反応である。

フェインリーヴ

い、いや、お前が……、寝言で、寒いって、そう言ってたから、俺が温めてやろうと。

撫子

アホですか!! 嫁入り前の弟子と同衾(どうきん)するだなんて、不潔ですよ!! 不潔!!

 同衾とは、同じ布団の中で男女が一緒に眠る事を言う。これを嫁入り前の娘がやってしまうと、縁談や周囲の評判が大変な事になってしまうので、非常に大問題な事態なのである。
 だが、撫子の場合は以前にも何度か世話焼きなお師匠様が寝台に潜り込んできた事があるので、初めてではないのだが……。
 恐らくは、その胸の内に秘めている想いのせいだろう。以前よりも強く、フェインリーヴを拒絶してしまった。

フェインリーヴ

不潔って、お前……。別に何もしていないだろう? ただ、抱いて眠っていただけで。

撫子

それが大問題なんですよ!! 馬鹿!!

フェインリーヴ

馬鹿……。そこまで言うか。

撫子

そんな、年頃の娘から急な反抗期に突入されたような父親の目をしても駄目です!! まったく、本当に気を付けてくださいよっ。

 思わず心臓が口から飛び出すかと思ったのだから。
 撫子は毛布の中に包まって顔だけを出すと、そういえば、と、話題を変えた。

撫子

ここ、どこですか……? ラヴェルノは……。

フェインリーヴ

全部終わった。あのラヴェルノは消滅し、父上の魂も冥界に還った。で、お前が眠りに就いてから、……三ヶ月の時が過ぎている。

撫子

さ、三ヶ月!? ど、どういう事なんですか、それ!!

ラヴァスティア

契約と、それによる力の行使が招いた反動だ。だが、案ずる事はない。命も身体も、何も不具合はないからな。

撫子

ラヴァスティアさん……。

 三ヶ月。寝坊するにもほどがあるだろう!! 
 と、仰天してしまう事確実の事実に撫子が狼狽えていると、ラヴェルノの長老の一人と、シャルフェイト達が部屋に入ってきた。
 

ラヴァスティア

本来であれば、一人のラヴェルノとの契約が普通だが、そなたの場合は状況が状況であったからな。一度に複数と契約を成し、役目を果たした。――礼を言う。世界を破滅に導く魔王はもういない。

タマ

一瞬の事ではあったが、我らからも礼を言う。これで、主様も我らも救われた。

クロ

主様も、今ではこんなに元気な回復を見せられて……。うぅっ、本当に良うございましたっ。

シャルフェイト

あぁ、はいはい。心配かけた俺が悪かったって……。だから、人の服で鼻水拭くなよな……、お前達。

側近

まぁ、そんなわけでして、お嬢さんはこの三ヶ月間、この魔王城にてお休みだったのですよ。ずっと、陛下が付きっきりで看病をしてくださっていたのですよ。

 微笑ましそうに笑いながら暴露した眼鏡の男に、すかさずゲフェインリーヴの掴んだクッションが飛んでいく。
 しかし、ひょいっとそれを避けられて、また笑みを深められる。 
 その様子を眺めながら、撫子はどう反応したものかと俯いてしまった。

撫子

嬉しい……。

 だけど、それが自分にとって耐え難い毒である事を、嫌でも思い知らされる。
 きっとフェインリーヴは、弟子としての撫子を心配して傍にいてくれたのだ。
 そこに、邪な気持ちは何ひとつない。
 けれど、撫子は……。

撫子

駄目だなぁ……。ラヴェルノ絡みの時は、余計な事を忘れて接する事が出来ていたのに……。

 今は、上手く……、お師匠様の顔を見る事が出来ない。傍にいると、どうしても気持ちが正直になってしまうのだ。

フェインリーヴ

どうした? 撫子。どこか痛むか? それとも、あぁ、そうか。腹が減って当たり前だな。すぐに食事を。

側近

それよりも陛下。先にお伝えすべき事があるでしょう?

フェインリーヴ

――っ!! そ、それは、後でいい。今は撫子のぐーぐー鳴っている可哀想な腹を。

撫子

鳴ってませんよ!! 鳴ってませんから!!

 確かに三ヶ月もの間何も口にしていなければお腹も空くだろう。
 けれど、今はそんな気分じゃないというか、……フェインリーヴの傍を離れたいというか、いや、本心では、もっと近くに行きたいと、そう願っているのだが。
 ともかく、と場を収めた眼鏡の男が、食事を運ばせるようにと、扉の向こうにいた女官に命じてしまう。

シャルフェイト

まぁ、兄貴の気持ちはよくわかるけどな……。

 シャルフェイトの零した切なげな音は、撫子の意識に拾われる事はなく、消えていった……。

撫子

も、元の世界に、戻る方法が……、見つかっ、た?

フェインリーヴ

……あぁ。叔父上の屋敷を調べていたら、長年の研究の成果とやらが出てきた。それによれば、お前を元の世界に戻す事が、多分……、出来る、と思う。

撫子

そ、そうですか!! よ、ようやく、元の世界に……、か、帰る事が。

シャルフェイト

俺とこの二匹はこっちに残る事を決めた。向こうに戻っても、俺はどうせ追われる身だし、暫くしたら旅にでも出ようかって話してるんだ。

クロ

主様となら、どこへでも参ります!!

タマ

同じく!! 主様の故郷を、別の世界を、隅々まで見とうございます!!

シャルフェイト

そんなわけで、戻るなら……、君一人って事になる。凶獄の九尾の事は、適当に誤魔化しといてくれると助かるんだけど。君が帰るまでに、何か信用させる為の小道具でも作っておいてやるよ。 

 帰るのは、撫子……、一人。
 ずっと望んでいた、大切な人達が待つ世界への帰る手立てを与えられたというのに……。
 撫子はすぐに頷く事が出来なかった。
 そのすぐ傍で、フェインリーヴがどうしようもない気持ちを持て余すような表情をしている事にも気付かずに……。

フェインリーヴ

すまないが、お前達……。全員外に出ていてくれるか?

ラヴァスティア

承知した。あぁ、撫子よ。お前から貰う代償は、帰るその時までには回収させて貰うから、そのつもりでな。

撫子

は、はい……。

シャルフェイト

じゃあな。

フェインリーヴ

あ~……、その、帰る方法は見つかったわけだが、別に、……そう、慌てて帰る事もない、と、思うわけだ。

撫子

……いえ、出来るだけ、早い方が、良い、と、そう、思います。

フェインリーヴ

撫子……。

撫子

お、お師匠様にも、皆さんにも、大変お世話になりましたっ。お、恩返しが、全然、出来ていないので……、あれ、なんですが、でも、やっぱり……、帰り、ます。

フェインリーヴ

――っ!!

撫子

一人でっていうのは、ちょっと寂しいです、けど、ね。でも、姉様や皆の待つ世界へ、帰らないと……。癒義の巫女として、妖退治も頑張らないといけませんし。

 頑張れ、頑張れ……、自分。
 絶対に、この笑顔を崩すな……。
 フェインリーヴは優しいから、元の世界でまた撫子が苦労をするかもしれないと、それを先延ばしにしてやりたいと、そう思って言ってくれているのだ。
 勘違いしてはいけない。これは、ただの保護者としての優しさ……。

撫子

お師匠様に教わった薬学の知識。向こうに帰っても役立たせて頂きますね。まぁ、同じ薬草は滅多にないでしょうけど。応用は出来ると思うんですよ。

フェインリーヴ

……に、……の、か?

撫子

え?

 ――瞬間、撫子の世界に大きな影が落ちた。
 自分が押し倒されたと思った時には何もかもが遅くて、ぐっと両手を寝台のシーツに押さえつけられながら……、何かが、彼女の唇に押し付けられてくる。

撫子

――んっ!! 
ん~!!

フェインリーヴ

――っ、は、ぁ。

 今、自分は何を押し付けられているのだろうか?
 唇の表面に感じる、フェインリーヴの熱を宿した吐息と、同じ物の柔らかさ……。

撫子

お、お師匠、様っ!? んっ、……ふっ、やっ。

フェインリーヴ

……そんなに、元の世界の方がいいのか? 俺の傍にいるよりも、役目を押し付けられ続ける残酷な世界の方がっ!!

 フェインリーヴは何を言っているのだろうか……。
 その音になった言葉は、以前と同じように、撫子の役目と立場を否定してくるものだ。
 けれど、以前とは、何かが、――違う。
 自分がされた行為が、所謂、口付け、接吻、こちらの世界で言えば、キスであるという事はわかった。
 何故、そんな真似を、フェインリーヴが自分にしたのか……。
 撫子は困惑しながら彼の腕の中でもがく。

撫子

せ、セクハラですよ!! お師匠様!! いくら上の立場だからって、弟子に何て事をするんですか!!

フェインリーヴ

お前以外にはしないから大丈夫だ!!

 何が!? 何が大丈夫なのか!?
 同意も得ずに、また保護者の熱が唇に押し付けられてくる。今度は、表面を塞ぐだけのものではなく、フェインリーヴの激情を含んだ柔らかなそれが潜り込んできた。
 

撫子

うぅぅっ!! ――、お、お師匠様の、馬鹿ぁあああああああああ!!

フェインリーヴ

――っ!!

 目覚めた時と同じように、フェインリーヴを渾身の力で突き飛ばす。
 今度は寝台から落ちる事はなかったが、拒まれてしまった事で、フェインリーヴの双眸に揺らめいていた辛さが、さらに増してしまった。

撫子

はぁ、はぁ……。な、なに、やってるんですか!! こ、こういう事はですねっ、す、好きな人にしか、好き合う者同士しか、……ぐすっ、やっちゃいけないんですよ!!

フェインリーヴ

お前が、……平気そうな顔で、すぐに帰る、なんて、言うからじゃない、かっ。

撫子

お師匠様……?

フェインリーヴ

そんなわけがないと、ずっと……。これは、保護者としての、師匠としての感情だと、そう思ってきたのに……。叔父上とラヴェルノ絡みの時も、今も、俺はっ。

撫子

お師匠様は何を言ってるの……。

 酷く不安定になったかのよに、フェインリーヴは顔を両手で覆いながら、辛そうに呻き続ける。
 近付いてはいけない。そうわかっている……。
 けれど、撫子はゆっくりと、泣いているかのように見えるお師匠様の傍に寄ってしまった。

撫子

お師匠様……、気のせい、です。そんなのは、違い、ます……。勘違いを、している、だけ……、私も、貴方も。

フェインリーヴ

違う!!

 自分達は、あくまで師弟関係。
 拾った者と、拾われただけの、関係。
 一緒に居すぎて依存してしまったのかもしれないと、そう宥める撫子の腕を掴み、フェインリーヴはその温もりを抱き締めた。
 きつく、強く……、どこにも行かせないとでもするかのように、彼の熱は檻のように撫子を捕らえる。

フェインリーヴ

依存じゃない……。俺は、……撫子、お前をっ。

撫子

聞きたくありません!!

 その音を、想いを聞いてしまえば、きっと戻れなくなる。自分の秘めている感情からも、こちらの世界に残りたいと、そう心の片隅で願っている自分自身からも……。
 撫子は、拒絶の言葉に身体を震わせたフェインリーヴを押しのけ、今度こそ、自分から逃げ出してしまった。

フェインリーヴ

撫子!!

 縋ってくるようなフェインリーヴの呼び声さえも振り払って、撫子は外に出て行ってしまった……。

シャルフェイト

兄貴~……、大丈夫、か?

フェインリーヴ

……。

 撫子が部屋を飛び出した後、どこに隠れているのか、物知り顔で、シャルフェイトが一人で室内に入ってきた。
 寝台の真ん中でぼんやりと項垂れているフェインリーヴの顔を覗き込み、やれやれと嘆息している。

シャルフェイト

俺もさ……、人の事は言えないっつーか、あれだけど……。もう少し上手く立ち回れよな。

フェインリーヴ

……。

シャルフェイト

そうなんじゃないかな、って……、一応、気付いてはいたんだけどな。だからって、いきなりキスなんかかましたら、普通は逃げるだろ……。

フェインリーヴ

反省は、している……。だが、撫子の、あの、迷いのない笑みを見ていたら……、俺の存在は、そこまで軽いのか、と。

 いつでも戻る事の出来る手段を手に入れたのだから、もう少し考えてみてもいいだろう……。
 自分を道具のようにしか見ない異世界の人間達の許になど、何故即答で帰ると言えるのか。

フェインリーヴ

撫子は、俺の事を……、異世界で世話を焼いてくれた保護者程度にしか、見ていなかったんだ。だから、離れる事にも、躊躇いが……。

シャルフェイト

アンタ……、アホか?

フェインリーヴ

何だとぉおっ!!

シャルフェイト

うるさい。……お嬢ちゃんの顔、ちゃんと見たか? 本気で好きなら、もっとちゃんとよく見てやれよ。手順も守らずに、お嬢ちゃんの心を踏みつけるような真似、すんな。

フェインリーヴ

撫子の、顔……。

シャルフェイト

本気で兄貴を残して帰っても平気なら、キスされて、嫌だったなら、……あんな顔はしないだろ。ただ、突然すぎて、お嬢ちゃんの心には、荷が重すぎただけだ。

 寝台の端に腰かけ、晴れ渡る窓の外を見つめながら、弟が寂しそうに呟く。
 フェインリーヴの心がどんなに撫子を求めていても、それを受け止める少女の心が震えていては、惑っていては、何も生まれない。

シャルフェイト

ってか、突然爆発し過ぎだ。いいか? あっちの世界の女ってのはな、大半が慎み深くて、恋愛ひとつするにも、手順命って感じなんだぞ。

フェインリーヴ

……お前の時は、どうだったんだ?

シャルフェイト

あぁ、俺の時は……、桃音、初代の巫女に、グイグイ来られて落とされたな。

フェインリーヴ

全然違うじゃないか!! 慎み深さどこいったああああ!!

シャルフェイト

例外ってやつだな。まぁ、だからこそだが、突然想いをぶちかまされて戸惑うお嬢ちゃんの気持ちはよくわかる……。

フェインリーヴ

乙女か!!

 げしっと容赦なく弟を蹴り飛ばしたフェインリーヴは、このままで終わってなるものかと拳を握り締めた。
 シャルフェイトの背中を踏みつけ、いざ行かん!!
 

フェインリーヴ

今度は順序を守って、攻めてくる!!

シャルフェイト

だから!! さっきの今で何言ってんだ!! アンタ!! ますますお嬢ちゃんに嫌われるぞ!!

フェインリーヴ

時間がないんだ!! ちんたらしていたら、撫子を永遠に失ってしまう!!

 さらばだ!! と言わんばかりに部屋を飛び出しかけたフェインリーヴだったが、ぼそりと弟が零したその音に立ち止まってしまった。

シャルフェイト

自分とお嬢ちゃんの種族の違い、わかってんのか……?

フェインリーヴ

……我儘だと、身勝手だと、わかっている。だがな、それでも……、俺は。

シャルフェイト

はぁ……。やっぱ、兄弟だよな。

 寿命の違い種族の相手を好きになり、相手を自分の生き方に引き摺り込む事の残酷さを知りながらも、それでも、――諦めてはやれないのだ。
 シャルフェイトは寝台に背を預け座り込むと、かついて愛した少女の名を囁いた。

シャルフェイト

桃音……。俺は、今でも君を愛してる。君がいなくなっても、どれだけの巡りの中で生まれ、誰と添い遂げようとも……。永久(とわ)に。

 もう届く事はないけれど、それでも、彼は願う。
 愛する人の魂が、いつの世も幸せであるようにと……。そして。

シャルフェイト

桃音、君とよく似た少女の、俺のどうしようもない兄貴の、二人の幸せを、一緒に願ってくれ……。

 ――その時、閉まっていたはずの両開きの窓が自然と開いて……、甘い香りと共に、優しい風がシャルフェイトの頬を撫でていった。

42・平穏な日常にただいま

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