メイを連れ出し、静かに来た道を戻る――なんて、ただ階段を下りて客間の窓から外へ出るって、たったそれだけのことだけどな。

 俺が藤崎家に侵入してから、およそ十分。
 窓を破っていた時間を合わせると、十五分ちょっとといったところだ。
 我ながら手際がいい方だとは思うが、本物の警察が聞き込みにこないとも限らない。夕月さんのことを思えば、一分でも一秒でも早く離脱したい。
 先に荷物を外へ出し、次に俺。
 女子高生の身長だと少し地面まで距離があるため、抱き留めてやらなければ着地の際に音が出る。

一星

ほら、来い

 両手を広げ、口パクだけで促す。
 メイは一つ頷いて、恐る恐る体を前に倒した。

わっ……――

一星

…………

 なんつうか、あれだ。
 俺はうぶな子供とは違うのだが。それでも頼りない両腕で首にしがみつかれてしまうと、なんとも言えない気分になってしまう。女子高生特有の甘い香りと、大人に差し掛かった体の感触にくらくらする。

一星

胸ェ……

 鼻先に触れた双丘の柔らかさに硬直していると(照れたわけではなく、下心に負けたのだ)上から声が聞こえてきた。

“コール”さん?

 ぺしぺしと俺の腕を叩きつつ、メイ。
 俺はハッと我に返った。しまった。かんっぜんに別の世界へ飛んでしまっていた。

どうしたの? 重かった?

一星

あっ、いや、別に、ちょっと考えごとを

 我ながらくそ白々しいなと思いつつ。メイを下ろし、荷物を抱えて車へ向かう。例の青い軽自動車だ。それから俺は、相棒の携帯に一度だけ発信した。これで、夕月さんは会話を切り上げ合流する段取りになっている。
 五分もしないうちに、相棒の姿が見えた。
 まあ、メイの親父もあの状況で引き留めたりはしないわな。助手席のドアを開け乗り込むと、夕月さんは鬱陶しげにカツラを外して後部座席へ放り投げた。それからメイの姿に気付き、

夕月

やあ、昨日ぶりだな

一星

それ、俺が言いましたよォ

夕月

君が言ったからといって、わたしが言ってはいけないということもないだろう?

 そりゃそうだけど。

一星

女嫌いのくせに、調子いいの

夕月

女嫌いでも挨拶くらいはするし、昨日も言ったとおり高校生までは女未満だからノーカンだ

一星

ったく、なにがノーカンなんだか

 高校生はノーカンっても、いつまでも高校生のままじゃあるまいし。やっぱり変なルールだよなと思いながら、エンジンをかけてアクセルを踏む。

一星

さぁて、隠れ家で作戦会議といきますか

 向かうは本日の宿である。

 ホテルではない。成人男性二人に女子高生なんて、怪しすぎて通報されてしまう。通報されないまでも、人の記憶に残りやすいしなにかあったときは真っ先に疑われる。となると、やっぱり昨晩と同じような他人名義のアパートを使うしかない。
 俺や夕月さんも根城をもっていないわけではないのだが、さすがにそこへメイを案内してやるほどお人好しにはなれない。
 世の中なにが起こるか分かんねえし、誰に足下を掬われるとも知れねえからな。

 車を郊外に向かって走らせ、治安があまりよくない地域に入った――地価が安く貧困層が集まっているため、いつでもなにかしら軽微な犯罪が起きている。そういう場所だ。叩いて出した埃が他へ舞うのを防ぐため、警察も余程の問題でなければ見ない振りをしてやり過ごす。メイのような普通の(?)女子高生には恐ろしかろうが、俺たちのようなアウトローが身を隠すにはこれ以上の場所もない。

一星

えっと……確か、この近くだったはずなんですけどねェ

夕月

“コール”、二区画先の角を左。そこから、約二百メートル

 迷う俺に、相棒が横から口を出す。
 夕月さんのナビは正確だが、よくもまあ二区画だの二百メートルだの覚えているものだと感心半分。ちょっと病的じゃないかと疑いたくなるほどの細かさだよなと呆れてしまう俺である。
 なにはともあれナビどおりに進むと、アパートが見えてきた。

 狭い駐車場に車を停め、

一星

はい、ご到着

 俺は後部座席を振り返る。
 先に降りた夕月さんが、ドアを開けてメイをエスコートしてやった。基本的には、紳士なのだ。もっとも女嫌いを抜きにしても、やや短気なきらいはあるが。

あ、ありがとう

 おずおずとメイが頭を下げる。
 俺と夕月さんは顔を見合わせてしまう。

一星

…………

夕月

…………

え、な、なに?

一星

いや、女子高生でもお礼とか言うんだなと思ってな

え、なんで。言うよ

一星

だって、特権階級だろ?
女子高生って

特権階級って?

一星

制服着て可愛くしてりゃ、なにやっても許される

 人差し指で、メイの鼻の頭をつついてやる。少女は年相応にむくれてみせた。

みんな、そんなに馬鹿じゃないよ

 ぷうっと頬を膨らませて、

大人が馬鹿にするから、馬鹿なふりして利用するだけ。いい大人のことは敬うし、言うことだってちゃんと聞く。そんな大人、数えるほども知らないけど

 毒づくメイに、俺はなんとはなしに訊ねる。

一星

お前は、いい大人になれそうか?

なれるわけないじゃん。
お手本、ないんだもん

 言って、メイはそっぽを向いた。
 ううむ……正論というか、他力本願というか、開き直っているというか。なんにせよ難儀な女子高生だ。

夕月

“コール”、お喋りはそれくらいにして中へ入るぞ。早く

一星

あ、はーい。行くぞ、メイ

 名前で呼んだのは初めてではなかったはずだが、その瞬間メイはどうしてか酷く驚いたような顔をした。

一星

おーい、どうしたよ。メイちゃん

 固まってしまっているメイの顔の前で手を振る。
 少女はすぐ我に返ったようだった。両手でぺしぺしと自分の頬を叩きながら、

ごめん。ごめんなさい。
なんでもない

一星

ふうん?

行こう、“コール”さん。
“ゲオルグ”さん、行っちゃった

 先を歩く夕月さんの後を、慌てて追いかけていく。

一星

おい、俺を置いていくんじゃねーよ

 俺も二人に続いて、アパートの階段を上る。
 部屋は二階だ。どのドアの横にもきちんと表札がかかっているが、中にいる人物が同じ姓を持っているとは限らない。
 かくいう俺たちが借りた部屋というのも、表札には“杉山”と手書きで書き付けられていた。

 夕月さんは、もうドアの鍵を開け中に入っている。

お邪魔します……

 玄関で靴を揃えて脱いだメイは、物珍しそうに入り口で中の様子を覗いている。

一星

ほら、とっとと入れよ。
後ろが詰まってんぞ

 靴を適当に脱ぎながら、どさくさに紛れてメイの尻をつついてやる俺である。ライトなセクハラには慣れているのか、それともセクハラを怒るような余裕もないのか、メイが慌てて奥へ進む。
 部屋の造りは2DK。俺たちだけならワンルームでいいが、メイが一緒となるとそういうわけにもいかない――というのは夕月さんの主張である。俺がそんなことを気にするはずがない。

 以前使われてから期間が空いていたのか、床はうっすらと埃が積もっていた。

夕月

“コール”、掃除。あと、座布団

一星

へいへい。
ったく人使いが荒いんですから

 自分ではやろうとしない夕月さんの代わりに、俺が立てかけられていたモップで適当にあたりを拭いて、クローゼットから座布団を三枚取り出す。

夕月

テーブルも拭いてくれ。
汚くて食事をする気になれない

あ、わたしがやる

 どこまでも横柄な夕月さんに、部屋の中を見回していたメイが応じた。

一星

お、じゃあ頼むわ。キッチンに未開封の布巾があるはずだから

うん

 一つ頷いてキッチンへ引き返していく。
 その後ろ姿と窓際の夕月さんとを交互に眺め、なんとなくそわそわしてしまう。考えてみれば、かなり妙な光景だ。少なくとも俺には、そう感じられるのだ。

 赤の他人――天涯孤独の夕月さんや、俺と同じように機能不全の家で育ったメイと、こんなふうに飯を食うなんて。

 幼い頃に少し夢見た、ごく普通の家族。
 普通の食卓を錯覚させる。兄貴に手伝えよなんて言いながら、妹と――いや、俺には妹なんかいなかったけど――テーブルの上を片付け、優しそうな母親が料理を運んでくる。料理がすべて並んだ頃に父親が帰ってきて、家族で食卓を囲みながら手を合わせるのだ。

 いただきます、と。

いただきます

 手料理にはほど遠い――コンビニで買っておいた弁当とペットボトルの麦茶を前に、メイが丁寧に両手を合わせる。夕月さんも育ちがいいので、食事前の挨拶は欠かさない。
 俺は同じように両手を合わせて頭を下げる仕草で、二人に合わせた。

一星

で、これからのことですけど

 我ながら気が利かないなと思いつつ。
 この光景に馴染んでしまうと未練が生まれてしまいそうなので、仕事の話題に持っていく。

夕月

ああ。君の取り分と我々の取り分を、先に決めてしまわなければな

 サンドウィッチを口に運びながら、夕月さんがメイを見た。

わたしの取り分?

一星

ああ。母親と同じ条件を引き継ぐってんなら、身代金が六百万。そのうち、俺たちが百万を報酬としてもらうことになる。他に、お前の希望がなけりゃ――

わたしの希望……

一星

だって、母親とまったく同じってわけにゃいかねえだろ。お前の場合、まだ学生だしな。どのあたりを落としどころにするか決める必要もあるだろうし

 そういや、俺たちはまだ母親の方の落とし前も付けてなかったんだっけか。
 ふと思い出し、どうにか使えねえかなと俺は思案する。夕月さんも口を閉じて、室内に沈黙が降りた。

 それからしばらくして、

わたし、家を出たい

 メイが言った。

父さんとも母さんとも暮らせない。だから、自立するのに必要なお金がほしい。大学は――進学したかったけど、無理なら諦めるよ。とりあえず高校を卒業するまでの学費と生活費……
五百万じゃ足りない、かな

夕月

君は明城大付属に通っているんだったな

 ここらじゃちょいとばかし有名な私立の学校だ。
 学費や教材費だけならいざ知らず、生活費まで含めると少し心許ない。大学まで行かせてやりたい気持ちもあるが、無責任なことは言えないのが現実である。

夕月

となると、とりあえず和解して仕送りという形で振り込ませるのが妥当だろうか

 ううう、夢も希望もねえ話題だよな。

 まあその手の話は相棒に任せておけば問題はないはずなので、俺は口を挟まないでおく。
 というか、口ぶりからすると夕月さんは報酬を諦めていそうな感じだ。この人が、メイにそこまで肩入れしてやるというのは意外だった。

夕月

今回はイカれた犯人を装う必要もないから、わたしが君の父親に電話を掛けよう。こちらの手札は君が隠している横領の証拠。引き替えに、君の自立と生活の保証を認めさせる。そういうことで、いいだろうか?

父さん、約束守ってくれるかな?

夕月

証拠を渡すのは契約の終了時ということにすればいい。高等課程を修了するまで、一年半だ。それくらいなら、君の父親も条件を呑むだろう。君の生活費という条件を突き付ける以上、こちらが容易く会社に証拠を提出するわけにいかないことは、彼の方にも知れる。
こちらの弱みが、逆に信用手形になるというわけさ。ま、すっきりはしないが落としどころとしては妥当だよ

 横領を暴いて非道な親父をぶちのめし、めでたしめでたし――正義のヒーローだったら、そんなふうにメイをハッピーエンドへ導くんだろう。
 だが、俺たちはしがない小悪党だ。
 親父をぶっつぶして、メイの人生まで面倒見てやれるような甲斐性はない。

夕月

“コール”
君は彼女を連れて少し外へ出ていてくれ

 と言ったのは、単純にメイに手口を見せたくないからだろう。俺は二つ返事で頷いた。

一星

はいよ

 飯を食い終えていたメイの肩を、叩いて促す。

一星

さて、オニーサンと散歩だ

うん。ごちそうさま

 メイは頷くと、やっぱり律儀に手を合わせた。

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