ブラウディムの手から逃れる為に、必死に考えを巡らせていた撫子の耳に聞こえた、――その音。
声のした方に振り向いた撫子の目に、小さくあの人の姿が見える。
叔父上!!
ブラウディムの手から逃れる為に、必死に考えを巡らせていた撫子の耳に聞こえた、――その音。
声のした方に振り向いた撫子の目に、小さくあの人の姿が見える。
お師匠様……!!
星屑の煌めく闇夜の中に浮かぶ、撫子の保護者。
フェインリーヴだけでなく、レオト達の姿もある。
絶望的かと思われたこの状況に、望んではいけないと思いながらも、心の奥底では求めていた奇跡が起きた。
さっきなんかやってるな、とは思ってたけど……、やっぱりか。叔父貴の奴、兄貴を誘き出しやがった……!!
じゃあ、やっぱり……、お師匠様にも何かを仕掛けようと?
俺が贄にされるところを見せつけたいのか、それとも、復活した親父の、最初の餌食にしたいのか……。どちらにしろ、悪趣味な何かを仕掛ける気だろうな……。
先代の魔王は、とても強い魔族だったらしい。
フェインリーヴに討たれたとはいえ、もしも再び蘇るような事があれば……。
俺の器を使えば、中にいる妖達の力も使い放題になるだろうな……。俺と違って、親父は精神的にもかなり強い、いや、凶悪性が半端ないから、すぐに従える事が出来る。もしそうなったら、兄貴に勝ち目は……。
そんな……!!
何か、何か手立てを見つけなくては……!!
しかし、シャルフェイトは極限まで力を封じられており、体力的にも喋るのが精一杯。
撫子の力は封じられていないが、先に囚われていた場所で試せた方法は、ほんの僅かだ。
それをしている最中にブラウディムが現れ、撫子達はここに連れて来られた。……とんでもない目に遭った、その後に。
試してみたい気持ちはある。
けれど、ブラウディムが近くにいるこの状況では、試す以前の問題だ。
だから、逃げ出す術(すべ)がない。
でも、……今なら、ブラウディムさんがお師匠様に注意を向けているこの状況なら。
ブラウディムはフェインリーヴを出迎える為に空へと飛び立っており、撫子達の周囲には誰もいない。
普通なら部下の何人かでも配するべきだと思うのだが、それを申し出た男達を、ブラウディムは笑顔で拒んだ。何も出来ないと油断しているのか、それとも……。
術以外の、こういう類に効く方法は……。
――え? ちょっと!! んぐっ!!
ちょっと黙っててください! ブラウディムさんに聞こえちゃいますから!!
突然、ロングスカートの中に手を突っ込んだ撫子に、当然の事ながらシャルフェイトの驚愕の声が上がる。その口をむぎゅりと押さえつけ、撫子はスカートの中を探り、太腿のあたりから何かを引き摺り出した。
最初からこれを使えば良かった……。
何をする気だ?
これで、血を媒介にこの檻みたいな球体に干渉を始めるんです。私の世界でも似たような方法があるんですが、こちらの世界の書物にも、使い方が載っていました。だから、ちょっと貧血を起こすかもしれませんけど、やってみます。
じゃあ、俺の血を使えばいいよ。遠慮なくどうぞ。
溜息を吐きつつも、そう申し出てくれたシャルフェイトに、撫子は首を振った。
シャルフェイトは撫子よりも負傷の具合が酷い。
これ以上負担をかけるわけにはいかないだろう。
撫子は肌に傷をつける前に上空へと視線をやると、さっきよりも近く見えるようになった味方側の者達の一人を見つめた。
それぞれが距離を取ってブラウディムを囲んでいるのだが、レオトだけは視線を動かしても気付かれない位置にいてくれたのだ。
だから、撫子は口をパクパクと動かして、ナイフを手に当てて、身振り手振りでこれからの事を伝えてみた。
それ……、伝わるのか? 意味不明にしか見えないんだけど。
大丈夫です! レオトさんなら、根性とフィーリングでわかってくれるはずですから!!
うわぁ……、一番あてにならない期待の仕方だ。
残念な目で撫子を見るシャルフェイトだったが、ちらりとレオトの方を見つめると、何故か心得たような視線と笑みが返ってきた。
流石はレオト。撫子が食堂で注文しようとしているメニューを即座に予想してドンピシャで当てられる最高の騎士団長様だ。
よしっ、それじゃあ……。やりますよ。
どうかここから出られますように、と。
撫子は服を捲り上げて、露わとなった左腕の表面にナイフの刃先を押し当てた。
叔父上、父上はもう死んだんだ……。死者は眠るべき者、それを呼び戻すような真似は、誰にも許されはしない。
そうだね……。私も最初はそう思っていたよ。摂理に逆らう事は出来ない、してはいけない、と。けれどね、私が望む事は、少し違うんだ。
違う……? どういう事だ。
ここはね……、私と兄上が、幼い頃に、共に暮らしていた屋敷があった場所なんだ。もう、跡形もなく、ただの荒れ地となってしまっているけれど。
知っている……。先々代の魔王にとって、父上と叔父上は、妾の子。それ故に、この地で母親と共に暮らし、その頃はまだ……、平穏であったと。
先々代の魔王……。
フェインリーヴにとっては、祖父にあたる人物だ。
王妃の存在を顧みず、好色に走った女好きの魔王。
その妾の一人が、先代と叔父の母親。
責任を取る、などという言葉など持たなかった祖父は、この辺境に屋敷を与えただけで、親子を放置した。稀に昔の女の味を愉しもうと訪れる事もあったそうだが……。
おおよそ……、父親とは呼べない男であった事は、叔父のブラウディムから聞かされていた事もあり、間違いない。
母親と共に親子三人と、僅かな使用人と共に暮らす日々は、決して悪くはないものだったそうだ。
その頃はまだ、フェインリーヴの父親は人の情を抱いていたらしく、親子仲も、兄弟仲も、悪くはなかった、と。
今思えば、兄上が変わってしまったのは……、先々代の妻であった王妃の残酷な仕打ちが原因だ。そのせいで、兄上は変わらざるをえなくなった。
……。
先代の魔王は、やった事だけを事実と捉えれば、フェインリーヴと同じ存在であったのかもしれない。
祖父の妻は自分以外の女を抱き捨てる夫に矜持も心も無碍に扱われ続けていた。
その結果、……妾を自身の臣下を使って消しにかかったのだ。
妾も、その子供も、何もかも……。
祖父に対する王妃なりの報復だったのかもしれない。
知られてしまえば、殺されるかもしれないとわかってはいても、王妃は残虐な行為をやめる事はなかった。
そして……、先代魔王と叔父、その母親の許にも、刺客は現れてしまったのだという。
兄上はね、私と母上を守る為に目覚めてしまったのだよ。抗わなければ殺される……。その簡単な法則に、兄上は全力で抗った。そして……。
自己防衛の為だけではなく、……自分達を狙った刺客も、王妃も、側室も。……そして、先々代の魔王さえも、父上は葬った。
あの時を境に、兄上はどんどん変わってしまわれた。私達を守る為に……。最初はね、いつか自分を取り戻してくれると、そう信じていたのだよ。けれど、兄上は止まらなかった。
その兄を、俺の父上の凶行を一番憂いていたのは、貴方だろう!! 叔父上!!
あぁ、その通りだよ……。私は変わり果ててゆく兄上が恐ろしかった。もう優しい私の愛する家族の姿はどこにもない。それを痛感するにつれ、悲しみは私の身体と心を蝕み、屋敷に籠るだけの生活となった。
それなのに何故!! 今更父上を求める!? シャルフェイトを使ったところで、残虐非道な魔王が蘇るだけだ!! 悲劇を繰り返す気か!?
魂を呼び戻し蘇ったところで、状況を正しく認識し、自我を保つ事が出来るかもわからない。
もしも、怒りや憎しみの情に支配された状態で復活などしたら、フェインリーヴ達だけでなく、魔界全土が恐ろしい惨劇に見舞われてしまうかもしれないというのに……。
私は、兄上の魂をこの地に呼び戻すよ。けれどね、今私が欲しいのは……。ん?
甥御の訴えさえ意味を成さないのか、ブラウディムはそれを聞き入れない。
意味深な音で何かを口にしようとした叔父が、背後に何かを感じたのか、ゆっくりと振り返ってゆく。
フェインリーヴも、その視線を追って……。
撫子君!! シャル!!
フェインリーヴの目に、檻として使われていた光の球体を打ち破った撫子達の姿が映る。
出来るだけ会話を長引かせ時間を稼ぐつもりだったが、どうやら気付かれてしまったらしい。
飛び出して行ったレオトとポチが、撫子達の救出に向かう。
しかし、その手に救われたのは撫子だけで、社フェイトの方は、ブラウディムから放たれた攻撃から彼女を庇う為にその餌食となってしまった。
シャルさあああああんっ!!
くっ……!! 俺の事は、いいから、さっさと行け!!
ぐぅぅっ!!
ポチが何とかシャルフェイトを救い出そうと動くが、ブラウディムの攻撃の手は凄まじかった。
フェインリーヴや側近の妨害が入っているのに、一度に沢山の事をこなすように、防御と攻撃魔術を大量に繰り出してくる。
病弱な先代魔王の弟……。
寝台で臥せるばかりの叔父が、嬉々としてその力を揮っている光景に、得体の知れない恐ろしさを感じる。
――ぐっ!! 何故だ……? 叔父上にこんな強大な力は。
どんなに身体が弱くとも、魔王の血を引く御方です。その力を引き出す為に、……良からぬ法に手を染めた可能性がありますね。
くそっ!!
さぁ……、私の望みを、叶えておくれ。シャルフェイト。
ぐっ……!! 誰が、アンタの道具に、なんか……、うぅっ、がはっ!!
ポチとの間に走っている炎を壁に阻まれ倒れこんでいたシャルフェイトの身体が、ふわりと浮き上がる。
禍々しい黒紫の揺らめきがその傷付いた身体を覆い、一瞬でブラウディムの腕の中へと飛ばされた。
怖がる事はない……。お前も私の大事な家族。
その、大事な家族を……っ、アンタは贄にする気だろうがっ!! この腹黒野郎!!
何故だろうね……。負けん気の強さは兄上にそっくりなのに、お前は……、いつもフェインリーヴに勝つ事が出来ない。
余計な、お世話、だっ!!
シャルを離せ!! 今ならまだ、なかった事に出来る!!
攻撃の手を放つが、叔父の目の前に現れた黒紫の揺らめきがそれを跳ね返す。
実力差で考えれば、現・魔王であるフェインリーヴが負けるはずなど、ないというのに……。
フェイン……。そしてお前は、兄上によく似た面差しをしているが、叔父である私の方に似てしまったね。けれど……。
残念そうに、フェインリーヴが一番言われたくない事実を告げた叔父が、――妖しい微笑を浮かべた、その時。
この私が、教えてあげようね……。
叔父の微笑と共に、真下の地に描かれていた魔術の陣が発動し、夜空に抱かれている星々が雲に覆われてゆく。
その場にいる全員が、殺気じみた恐ろしい気配に鳥肌を立てる。
我が身に取り込みし、ガルダウア原石の本質……。それは、死者の魂にとって、道標となる。そして……、お前は、大好きな父親を呼ぶ光となるのだよ。シャル……。
ぐあぁあっ、ぁああっ、うあぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
主様ぁああああああああ!!
主様ぁあああああああああっ!!
白銀の光に縁どられた神々しい月さえも、闇に飲まれ……、――時は、満ちた。