ケットは一目散に走り出し、そして同時に、自分がどうして苛立ちを抱えているのか、理解したような気がした。
……だが、このサリーの身体で、それを言っていいものか。……少しだけ、そのような懸念は持っていたが。
ケットにとって動かす事の出来る身体は今、この身体だけなのだ。ならば、仕方がないだろう。
帰り始めた女性達。その帰路を塞ぐようにして、ケットは女性達の前に立ちはだかった。
ケットは一目散に走り出し、そして同時に、自分がどうして苛立ちを抱えているのか、理解したような気がした。
……だが、このサリーの身体で、それを言っていいものか。……少しだけ、そのような懸念は持っていたが。
ケットにとって動かす事の出来る身体は今、この身体だけなのだ。ならば、仕方がないだろう。
帰り始めた女性達。その帰路を塞ぐようにして、ケットは女性達の前に立ちはだかった。
…………サリー・アントゥリォ
ぽつりと、先程までサリーを嘲笑していた女性が呟き、表情を歪ませる。どちらかと言えば、恐怖の色が見えているように感じられた。
ケットは躊躇いもなく、女性達の視線を真正面から受けた。サリーの身体は猫の時よりも遥かに重く、少し走っただけで息が上がってしまう。
だが、物怖じする事はなかった。
……なんか……私に、言いたい事があるんじゃないの……?
ケットは女性達にそう言ったが、彼女等はサリーを受け入れるように――やや、顔を引き攣らせてはいたが――サリーに対して、笑顔を見せた。
いいえ? ごきげんよう、アントゥリォ。今回はお話出来ませんでしたが、次の茶会を楽しみにしていますわ
これだ、とケットは思った。
この、気味の悪い仮面。表面を取り繕っただけで、他に何も意味のない行動。
これこそが、ケットの気分を悪くさせている原因だったのだろう。
ケットは息を整えて、女性を睨み付けた。
影では、『愚かな雌豚』とか言うくせに。正面に立たれたら、目を見て文句を言う事もできないの?
声を張り上げたからか、周囲の人間がケットと女性達のやり取りに振り返った。
サリーに対して罵声を浴びせた張本人は、ケットに内容を暴露されて、衝撃を受けているようだった。
なっ……!! 私がいつ、そのような低俗な言葉を使ったと言うのですか!? 少しは礼儀をわきまえて頂けるかしら!!
表向きは綺麗な振りをしているかもしれないけれど、私からしてみれば礼儀が無いのは貴女の方だと思うけど。自分を棚に上げて、人を避難しないでよ
ようやく、ケットは言葉にして、その気持ちの悪さを伝える事が出来た、と思った。彼女等は心外なようで、眉を吊り上げて今にも怒鳴り出しそうだ。
だが――……ケットにも、引く気は全く無かった。
ねえ。……私は直接、貴女に危害を加えたの?
貴女は充分、周りに危害を加えて来たでしょう!! それが気持ちを入れ替えたからと言えば、許されるとでも!?
ふーん。……やっぱり、何もしてないんだ?
目の前の女性は、唇をへの字に曲げて、声を押し殺した。
嘲笑したくなる感情は、自分よりも能のない相手だと思うからこそ生まれるものだ。もしもサリーが何かをしたのだとするなら、それは嘲笑という形ではなく、恨みや憎しみといった形でケットに伝わる筈だった。
本当に私の事が嫌なら、直接何が嫌なのかを言えば良いのよ。……更正させる気も無ければ、本音を聞く気も無い。それで、どうして自分よりも価値が低いって思えるの? 貴女は私の事、何も知らないじゃない
そ、それは…………
横で笑っていたかったの? 人を見て『ああ愚かだな』って言えば、自分の品位が高くなるとでも思った?
……私がすごい人間だなんて思わないけれど、その行為が『愚か』だっていうのは、私にも分かるわ
シンが呆然と、そのやり取りを見守っていた。周囲も同じように、ケットの言葉に聞き入っている。
女性達の先頭に立っていた女性は、顔を真っ赤にして、わなわなと震えていた。
私は下らなくなりたくないから、自分の気持ちを言ったよ。……貴女も言いたい事があるなら、私に何か言えばいい
別に、一方的に言うつもりもない。『本当の意味で』何か失礼があったなのなら、謝るつもりでもあった。
釈然としない玉虫色のような態度は、どうしても許せなかった。
…………帰ります!!
だが、どうやらその気持ちは、女性達には届かなかったらしい。
ケットをすり抜け、何も言わずに去って行った。ケットはその後姿を、静かに見詰めていたが。
不意に大きな手で肩を叩かれ、ケットはその人を見上げた。
よく言ったね。……君の評価がこれから変わって行く事を、私は期待しているよ
先程挨拶をした、スコット・ツァイェだった。
次第に、周囲から拍手が巻き起こった。ケットを中心に、ケットに対して送られた拍手なのだという事は、誰の目にも明らかだった。
変わったな、アントゥリォの令嬢も
ああ、変わった。シンの言う通りだった
何処からか、そんな声も聞こえて来る。ケットは少し、気恥ずかしい思いもあったが――……苦笑もした。何しろ、本当に入れ替わっているのだから仕方がない。
シンは?
ケットは、シンの方へと目を向けた。
シンは少し、呆然としたような顔で、目を丸くしていた。周囲の状況に付いて行く事が出来ていないようにも見えたが――……やがて、くすりと笑って、言った。
――――――――すごいね。僕には、出来ないや
たったそれだけで、ケットは誇らしい気持ちになる事ができた。
ねえ、シン! 今日の夕飯ね、シンを家に呼びたいって、お父様が!
えっ……僕を?
自分はシンに懐いたのかもしれない。ケットは、そのような事を考えていた。
以前の主人に、少し似ていただろうか。男性でありながら、どこか淑やかで美しい紳士に。
シンは暫しの間、考えているようだったが。――……やがて、苦笑して言った。
そうだね。……近いし、じゃあ、お邪魔しようかな
その顔の裏に隠されたものを、ケットが汲み取る事は出来なかった。
☆
…………へえ。サリーが、そんな事を?
はい。皆さん驚いていて、サリーの評価を見直す良いきっかけになったのかな、と
日が落ちる手前、ケットはシンを連れて、家に帰った。茶会の後にディナーではくたびれてしまうのではないかと懸念していたらしいが、シンは元気だった。
茶会の場で起こったケットと女性達とのやり取りについて話し、サリーの父親はそれを驚いたような顔をして聞いていた。
しかし、全く信じる事は出来ていないようだ。ケットは苦笑して、ナイフとフォークを動かした。
サリー。……サリー
何かしら、お父様
『持ち手』が逆だ
見ればケットの両手は、食器の『よく刺さる側』を持っていた。いつの間にすり替わったのだろうか。
慌ててケットは、それを直した。
本当に、サリーが? 信じられん……
意外と失礼な父親だった。
しかし、サリーが言われていたから、とはいえ、随分と目立つ事をしてしまった。どこかの綻びから、自分が猫である事が判明したらと思うと、内心気が気でない、とケットは思った。
何しろこのような事は初めてだったので、つい言いたい放題に言ってしまったが。
言葉遣いに難はあるが、やはり言葉というものの力とは恐ろしいものだ。
ようやく啜りながら飲めるようになったスープに手を伸ばし、ケットは舐めるように飲んでいた。
しかし、どういう風の吹き回しなんだ? 人前に出るの嫌だっただろう、サリーは
このように、何かしらの影響は与えるものである。
ケットは自らの行いを、少しだけ反省した。
だが、サリーの気持ちを代弁して、ここは考えられる限りの正解を父親に伝えなければ。相変わらず勘違いされたままでは、生活もし辛い。
……今までの私は、現実に抗おうとしていたような気がする。何もかも嫌になっていたような……
でも、その時の私はもう居ないから。今は、本当に大切なものは何かとか、そんな事を考えて……いるよ
ケットが父親に笑い掛けると、父親はぶわ、と両目から涙を噴き出させた。
仰天して、ケットは食器をテーブルに落とした。
サリーが……あのサリーが、まともな事を言っているっ……!!
あなた…………!!
大袈裟にも程があるだろう。
シンは笑っていたが、ケットは恥ずかしい想いが先行して、目を逸らした。
逸らした先に、シンの顔があった。笑っていたが、ケットは思わず目を丸くして、シンを見てしまった。
楽しそうにしている。確かに、楽しそうにしているが――……あれは、違う。
茶会でも見せた、嘘の表情だ。作り笑いに近いものだ。
何故だろうか? ……ケットは、考えた。確かに、シンにとっては慣れない人間と話をしている。だからだろうか。
サリー。ナイフは右手で、フォークは左手だ。お前、右利きだろう
ケットは慌てて、持ち手を入れ替えた。
サリーの父親はため息を付いていた。まるで子供みたいだと、小さく呟く……
食器など、皿以外に使った事が無いのだから仕方ないだろう。ケットはそう思ったが、何も言わない事にした。
いつまでこの状況が続くのか分からないが、いつかはケットもこの生活に慣れる時が来る。そうすれば、誰もケットの事を奇行だの何だのと騒ぐ事も無くなる。
そうすれば、晴れてケットも人間の仲間入り、という訳だ。
それにしても……シン君、ありがとう
唐突にサリーの父親がシンに向かって礼を言うので、シンもケットも、食事の手を止めてしまった。
どうしたんですか、急に?
いや……サリーがこんな風になれたのも、君と話せたお陰なのかと思っていてね。……ありがたい限りだ
サリーの父親がそう告げると、シンは俯いて、小さく首を振った。
いえ……僕は、何もしていませんよ。……本当に
その言葉に何処か、憂いにも似たものをケットは感じ、シンの横顔を眺めた。
顔の整った青年。その細い指には、これまで苦労して来た傷の痕など見える事もない。限界の飢餓を体験したケットにしてみれば、シンはとても優遇された環境に居るように思えた。
だが。そうだとするなら、時折見せるこの顔は一体、何なのだろうか。