ケットはそう言ったが、シンは笑った。
あの、お父様が夜は危険だから、絶対に出るなって……
ケットはそう言ったが、シンは笑った。
暗いだけだよ、悪魔のひとつも出やしない。大丈夫
不思議なものだ。そういえば、シンと初めて出会ったのも、夜の出来事だった。
後になってみれば、人間は夜を恐れ、絶対に外には出ないようにしているようだ。
最も、ケットにとってはシンの感覚の方が、よりケットに近いと言えるが。
シンとケットは部屋に戻ると嘘を吐いて、家を抜け出していた。
今日は楽しかったよ、ありがとう
シンが帰る手前、そのように話した。満月で、空が透き通るような闇に包まれる夜だ。玄関扉を出ると、ツンとした冷たい空気がケットの肌を撫でた。
シンは外を指差した。……どうやら、少し歩かないか、と云う事らしい。
外は寒いが、長く歩かないのならそこまで気にする事もない。遠くの木々による葉擦れの音が、音楽のように流れ続けていた。
こちらこそ、ありがとう。お父様も喜んでいるみたいだったし、良かったわ
そうか。それは、僕も良かった
ケットはシンの隣まで歩き、シンに笑い掛けた。どうしようもなく、シンは苦笑していた。
いい加減に慣れて来ていた。シンが次にどのような顔をするのか、すぐに予想ができる。
……もっと、自信を持って良いのに。そんな想いから何気無く、ケットの口から言葉が漏れた。
お茶会の時も、大人達と色々な話をしていたみたいだし――――シンは、すごいね。立派だし、もう怖いものなんて何もないみたい
そう言うと、シンはふと、闇に紛れると云うのか、光が当たらないと云うのか、そのような顔になって、自然を装って――……ケットから目を逸らし、前を向いた。
――――僕は君が思っているほど、まともな人間じゃないよ
冷たい空気に、乾いた言葉。
ケットはいつも、シンを見ていた。だからこそ、シンがこのような表情をする理由が、ケットには見当たらなかった。
シンがそんな顔をしていると、とても寂しくなる。だが、ケットにはその理由が分からない。不思議と、胸が痛くなるのだ。
ねえ、サリーは妖精って信じる?
不意に、シンが言った。
出会った事はないけど……信じたいとは思う、かな。シンは?
信じたいと思うよ
東の空に、分厚い雲が見える。
やがて雲は美しい夜空を呑み込み、大地は涙で濡れるだろう。
雨は苦手だ――……誰かの姿を隠して、そのまま闇の中に引き摺り込んで、二度と出られなくなるような気がするから。
そういえば、ケットの主人が家から出て行ったのも、本物のサリーが身体だけを残して何処かに行ったのも、激しい雨の夜だった。
どうして、信じたいと思うの?
え? どうして?
何か、理由があるのかなあと思って
水は証拠を消してしまう。足跡も、匂いも。水浴びは昔から嫌いだったが、それはそういう意味だったのかもしれない、とケットは思った。
水を浴びる事で、この世から自分という存在が消えてしまうような気が、していたのかもしれない。
……ある日妖精が現れて、僕を連れ出してくれればいいのに、と思うからかな
光は無い。歩いていて思ったが、シンは光が無くとも、夜の街を歩けるのだ。
不思議だった。人間になってから、夜の街は信じられない程に暗く感じられた。盲目のままで外を歩いているようなものなのに――……シンはケットから離れ、振り返った。
そろそろ、行くよ。付いて来てくれてありがとう
ううん…………シン、あの
名前、教えてくれないか?
ケットの言葉は、シンには聞こえなかったらしい。ケットは出し掛けた言葉を引っ込めて、沈黙した。
…………え?
サリーじゃないよ。……君の、猫の時の名前。あるのかな、と思って
ケットは、両手を胸の前で合わせた。何か、嫌な予感がしていたからかもしれない。
シンが夜の闇に紛れてしまうような気がしたのだろうか。
主人や、死に逝くサリーのように。いつか誰の記憶からも忘れられ、話題にも上がらない存在になるのかもしれないと、僅かに思っていたからだろうか。
…………ケット
それは、嫌だ。ケットは、漠然とそう思った。
何も、起きていない。杞憂に終わるのではないか、と思う。……だが、それなら良い。せめてそうであって欲しいと、思う。
ケット。……私の名前は、ケット
初めて出会った時、主人が自分に付けてくれた名前だ。
ケットがそう告げると、シンは笑った。……今日一日で何度も見せていた、あの『仮面の』笑顔ではなく。
くたびれているようだったが、どこか穏やかに感じられる、柔和な笑みだった。
☆
ヴェルツァイェ帝国のストリートに、ケットは倒れていた。
まだ子猫だと言われた方がしっくり来るような大きさで、交差する陸橋の影になる場所を利用し、雨露を凌いでいた。
既に一歩たりとも動く事は出来ず、噎せ返るような雨の中、日光浴をするかのような姿勢でいた。
このような格好では、体温を奪われる。どうしてもこの場所を動く事が叶わないと云うのであれば、一刻も早く身体を丸め、冷たい夜風から身を守るべきだ。
そのような実情は理解していたが、しかしケットは動く事が出来なかった。空腹に次ぐ空腹で、遂に腹が鳴ることを止め、穏やかな眠気さえ訪れていたのだ。
無理も無い事だ。もう、三日以上も食べていない。ケットの主人は何の用だったのか、家を出たきり戻って来なくなり、それきりケットは見捨てられた。空腹に耐えられず外に出る頃には、ケットに狩りをする体力など残されてはいなかった。
もしかしたら、主人は逃げるしか無かったのかもしれない。とても、貧しい人だった。
身動き一つ取る事が出来なくなった頃、ケットは考えた。
生とは孤独である、と。
誰も、自分の死に気付かない。同じ国土、同じ大地に生を受けようと、命とは孤独なものだ。誰もが自分の生きる道に死力を尽くしているのであり、余所見をする余地など与えられてはいないのだ、と。
ならば、生きる為の術を磨いて来なかった自分にとっては、当然の結末だとも言える。
遅い――――遅過ぎる、後悔。
だが、何時の世も後悔とは、先には立たないものだ。
そう考えた時、身動き一つ取る事の出来ないケットに、小さな疑問が浮かんだ。
本当に、そうだろうか?
それは唯、ケットがこれまでの過程で、共に生きて行く相手を探さなかったから。それだけなのではないだろうか。
若しも本当に、生と云うものがこれ程までに冷たく、無味乾燥とした物であるならば、喜びなど何処に見付ければ良いと言うのか。
――――やり直したい。
漠然とした、希望。だが既に、ケットの身体は悲鳴を上げ、遂には限界を越えている。ケットの願いは、その心とは裏腹に、決して叶えられる事の無い願いだ。
だが、ケットは願っていた。
やり直したい。
…………大丈夫かい…………パンしか無いけど、食べられる?
不意に、ケットに話し掛けてくる存在があった。ケットは既に目を閉じていたが、耳だけでその存在を確認していた。
あの時は、そうだった。確かに、ケットは目を閉じていた。
それなのに今は、その時の様子を見る事ができていた。小さな黒猫は――ケットは――倒れ、その傍らにシンが屈み込んでいた。
ああ、これは、夢なのか。
駄目か。でも、心臓は動いている…………首輪があるのか。飼い主は、どこに行ったの?
ケットの鼻に、香ばしいパンの香りが広がった。だが、ケットはそれを口にする事が出来ない。
応えられない事に、悲しさを覚えた。……いや、それは虚しさだったのかもしれない。
そうか。君も僕と、同じなんだね…………
ふわりと、シンは自分の着ていた上着を、ケットに掛けた。
ケットは、黒猫だった自分に言ったシンの言葉に、目を見開いた。
自分と、同じ。
そうか――――シンはケットの事を、『自分と同じ』だと思っていた。同じとは、どういう事だろう? ……そんな事、決まっている。誰にも気付いて貰えず、死んでしまう事に対してだ。
ざわざわと、ケットの胸が傷んだ。硬い棘のあるもので表面を擦られているかのようだった。
はっ――――!!
目を覚ました。
心臓の鼓動が激しい。誰も居ない部屋に、雨の音だけが響いていた。酷い夢を見てしまった――……頭はずきずきと痛み、気持ちが悪く、今にも吐いてしまいそうだ。
ベッドから降り、窓から外を眺めた。相変わらず、雨は降り続いている。
…………嫌な予感がした。
夜間着のままガウンを羽織り、ケットは部屋から出た。時折、雷の音が鳴るたびに、ケットは身を震わせた。
身体が酷く冷えている。夜は暗い。……探すには、空手では駄目だ。ケットはリビングまで降りると、何か明かりになりそうな物を探した。
――――これだ。
燭台に火を灯し、ケットは強引に引っ掴んで外へと飛び出した。