昼を過ぎて、ピアノの講師とやらの正体をケットが知る頃、既にケットはくたくたになっていた。

楽器というものは、覚える事が多過ぎる。どうやらサリーはある程度ピアノを使いこなせていたようで、講師の女性は開いた口が塞がらない様子だったが……出来ないものは出来ないのだ。仕方が無い。


窓際の椅子に座り、天井を見上げた。……どんな家も、この天井の雰囲気だけは大して変わらないものだと思う。

そういえば、ティータイムと呼ばれる時間も凄かった。人間は、葉に熱い水を浸して色と匂いの付いたものを好んで飲むのだ。……あれとクッキーは嫌いではなかったが、やはり熱かった。

人間の食べ物飲み物は熱いものばかりである。それだけで、体力を消耗してしまう。

流石のケットも警戒して、おっかなびっくり触るようにはなったが。それはそれで、両親や使用人の目を引いてしまうのだ。

ケット

もー、耐えられない……

人目を忍んで、猫のようにぐったりと椅子で伸びるケットだったが。


不意に、窓から音がした。


あまりに近かったので、直ぐにケットは警戒して首を窓に向けた。窓には何も、変化の兆しは見えない――……が、暫くしてもう一度、音がした。

小石が当たっているのだ。ケットはそれに気付いて、窓から外を見た。

美しい栗色の髪の青年が、こちらに向かって手を振っている。

ケット

…………シン!


ケットは内心、安堵したような気持ちと、浮き上がるような高揚感に包まれ、外に出た。


シンはケットを連れ出し、ヴェルツァイェ帝国の敷地を歩いた。

シン

人間の生活には慣れたかい?

ケット

……当分、無理そうだわ

家を出て行くに当たり、勝手に出掛けていると思われると困るため、『シンと日が暮れるまで外に出ている』と話すと、母親はまた、怪訝な顔をしたものだ。

ケットが行き先を告げて家を出たのもそうだろうが、シンの一族と仲良くなっているというのが、母親にとっては意外な出来事だったらしい。

まあ、以前のサリーは大層悪名高いようなので、シンのように潔白なイメージのある異性と仲良くしているイメージが持てなかったのだろう。


無理もない。何しろその手前は、家出娘だ。

ケット

それで、用事って?

シン

ああ、そうだね。先に済ませておくか。……実はね、来週に茶会をやろうと思っているんだ。両親には反対されたんだけど、僕は君を誘いたいと思って

ケット

私を?

茶会と言うと……ティータイムの事だ。あれは人を招いてやる事もあるのか。確かに、先程食べたクッキーなるものは大層美味しかった。

人間は戯れてのパーティーが好きだ。ケットの主人はやっていなかったし誘われる事も無かったが、散歩しているとよく、そんな事を説明されたものだ。

だが、ケットは気付いた。今朝の朝食でさえ、サリーの両親にあれ程までに不可解な表情をされたのだ。

シンの隣人が集まる茶会になど出席しようものなら、どんな顔をされるか分かったものではない。

何より、自分が出席する事でシンの立場を悪くしてしまう可能性があるのが嫌だ。ケットは、そのように考えた。

シン

はは、大丈夫だよ。僕もフォローするから


考えている事を見透かされたのか、シンは穏やかに笑った。それだけで、ケットの心は幾らか休まった。

シン

……君は本当に、あの時の黒猫なんだね

不意に、シンはそのように言った。

もう直、夕暮れだ。暖かな日差しは隠れ、風は少しずつ冷たさと悲しさを帯びていく。

ケットにとって、闇は不得意なものではなかった。それはケットの隣に常に寄り添っているものであり、さながら姿の見えない友人のようであった。

だが、シンは違う。

ケット

…………ねえ

シン

ん?


ケットは、シンに声を掛けた。シンが振り返ると、切れ長の瞳の向こう側に、慈愛と誠実に満ちた眼差しが見えた。

だが、それだけではないように感じるのは、何故だろう。

ケット

…………どうして、もう死ぬ猫に、上着なんて掛けたの

あの時も、そうだった。初めて人間の姿で、シンに声を掛けられた時。

優しさの奥に、どこか影を帯びた……冷たさや、悲しさのような感情が現れる事があるのだ。それはケットの感覚的なものではあったが、しかし漠然とした感情の中に、確信に近いものを感じていた。


シンは風になびく栗色の髪を、徐ろにかき上げた。香水の香りがケットの鼻を擽ると、ケットは何故か、胸が高鳴る想いだった。

シン

どうして、か

まるで、夢の中の世界に居るようなのだ。


ケットにとって、人間の姿の『生』などと云うものは、花畑の上で観る白昼夢のような、どこか浮わついていて形のない物でしか無かった。


それは紛れもない現実であるのだが、シンに出会うたび、ケットはその白昼夢のような感覚を何度も覚えていた。

何度地に足が付いても、再び浮き上がらされる。

シン

似ているな、と思ったからかな

ケット

似ている? ……私と、シンとが?

シン

そうだね


ケットはその感情について、理解する事は出来なかった。

小さな猫だった自分にとって、シン・ツァイェという存在はあまりに大きく、そして絶対の存在だった。

シン

哀しんでいるように見えたんだ。死ぬ時さえ、誰にも見て貰えないと……そんな風に、言われたような気がして。だから僕は、君を見ていようと思って


そう言われて嬉しさを感じる程に、愛しい。

ケット

どうして――――


瞬間、視界はふわりと浮き上がり、ケットの視界は翔び立つ鶺鴒のように広がった。


沈み行く太陽を背に、僅かに橙色へと染まり始めた草原の中央に、シンの笑顔があった。

シン

夢を見てるみたいだよ。その君が、ここにいるなんてね


抱き上げられたのだ。そう気付いた時には、ケットは目を白黒させていた。

ケット

ちょ、ちょっと、シン

シン

はい、ごめんね

束の間、すぐにシンはケットを地に戻し、まるで何事も無かったような顔をして歩き出した。


はぐらかされたのだ。


ケットがそう気付いた時には、既にシンは背を向けていた。

ケット

もうっ…………

それきり、ケットはシンにその話題を振らなかった。シンもまた、自分の話をそれきり、する事は無かった。

それは二人の中で、踏み入ってはいけないルールなのだ。少なくともケットは、そのように感じたからだ。


シンは、優しい人間だ。それが嘘偽りでないことは、ケットには分かっていた。


だが、優しいからこそ損をすることも、世の中には幾らでもある。

そんな所が少しだけ、昔の主人に似ていると、ケットは心の片隅で思っていた。

5 | 黒猫、抱き上げられる

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