まるでゆらゆらと揺れている、水の中にいるかのようだ。
どこか声はくぐもっていた。目を開いても光はなく、どこか闇の中にいるような、そんな気がしていた。
身体の動作は覚束ない。迫り来る恐怖から逃げ、なおも逃げる。
やがてケットは、その身体が人のモノである事に気付いた。まだ猫だった時の記憶ではない。それどころか、過去の何れとも一致しなかったのだ。
まるでゆらゆらと揺れている、水の中にいるかのようだ。
どこか声はくぐもっていた。目を開いても光はなく、どこか闇の中にいるような、そんな気がしていた。
身体の動作は覚束ない。迫り来る恐怖から逃げ、なおも逃げる。
やがてケットは、その身体が人のモノである事に気付いた。まだ猫だった時の記憶ではない。それどころか、過去の何れとも一致しなかったのだ。
――――は。……これが、最後ってわけ
血は雨に溶け、やがて消えてなくなるだろう。ケットは自らの手で、傷口を撫でた。べっとりと左手に付いた血を見て、苦笑していた。
ここは、闇ではない。当人の視界が機能していないだけだ――……気が遠くなるような意識の中、僅かに見える物もあった。
壁。……いや、これは天井だ。ケットは自分の物では無い、何者かの記憶を見ている。
横向きに倒れると、茶色の上着が目に入った。動物の毛皮で作った――……その中に、小さな黒猫の姿があった。
どうして少女がこれ程に愁いを帯びているのか。何に絶望しているのか。ケットには分からなかったが、しかし少女は確かに、そのようでいた。
もう、いいわ。……つまんない、全部
やがて全てから解放され、全ての苦しみから解き放たれ、無に還る。
少女は、そう感じているように思えた。
――――――――あんたにあげるよ
はっきりと、少女は黒猫のケットに向かって、そう言った。
それきり、目を閉じてしまった。その後に残るのは、血だまり。そして、憂いを帯びた少女の遺体だった。
不意に、小石を転がしたような音がした。
お嬢様、朝でございます
ケットは目を覚ました。
カーテンを開いた音だったようだ。窓のそばに使用人が立っていた。
全身を包み込むような、柔らかな羽毛布団に包まれて、ケットは寝ぼけ眼を擦った。
……あれは、サリーの記憶だろうか。やはり、この身体にも生前の少女が持つ記憶が眠っているのかもしれない。
少しだけ、ケットは推理を楽しんだ。やはり頭が大きいと、考えられる内容にも深みが出て来るのかもしれない、等と、寝起きの漠然とした頭で思う。まだ自分が、この身体を上手く使えていないだけなのだ。
お嬢様、お着替えを済ませましょう
また? 本当、人間はころころ毛の代わりを替えるのね……
…………
しまった、と思った。
つい口から飛び出してしまった言葉に、使用人は首を傾げた。
まだ寝惚けていらっしゃるのですか?
そういう事にしておこう。ケットは内心そう思い、咳払いをして立ち上がった。
服を着替えて下に降りると、既にサリーの両親は食卓に座っていた。ケットを見て、怪訝な表情を浮かべている。
…………?
……何だろう、このモノモノしい雰囲気は。ケットは他人事にもそのような事を考えつつ、自分の席に着いた。
……あの、お嬢様。こちらです
!
使用人が椅子の背に構えて待っていたのは、ケットを座らせるためだったらしい……慌ててケットは席を替える。
自分が座る予定の席を確保しているのかと思っていたが、これは思ったよりも裕福な家系のようだ。
…………
…………
……両親の視線が痛い。この家で当たり前の作法を忘れてしまった、という所だろうか。
…………あー、おはよう、サリー
朝一番から、疑問は次々と浮かんで来る。
このサリーという娘は、自分の父親、母親の事をなんと呼んでいたのだろう? ……お父さん、お母さん? パパ、ママ? ダッドマム? バッボ? ナッターレ?
おはようございます、お父様
特に反応もなく、父親は珈琲に口を付けた。……どうやら、正解だったらしい。
先日、母親が『お父様』と呼んでいたのを思い出したのだ。我ながら何たる機転かと、ケットは自分で自分を褒め称えた。
装飾の施された豪華なテーブル。主人との散歩では外からしか見た事の無かった、大きなシャンデリア。シンの家で見た物に負けず劣らない暖炉。その全て、この一族の所有物なのだろう。
未だ、姓さえも分からないこの状況。ケットにとっては、居心地悪い事この上ない。
お嬢様、朝のお飲物は如何なさいますか?
あー……あれと同じものを
え? お嬢様、珈琲が飲めるようになったのですか?
勿論冗談よ。いつものを頂戴
かしこまりました
くすりと笑って、使用人は奥へと引っ込んだ。ケットの危険察知能力が発揮されたのである。
なんだ、『飲めるようになったのですか』とは。人間の飲み物というのは、人によって飲めるものと飲めないものがあるのか。
冗談じゃないぞと思いつつ、ケットは父親の珈琲を凝視した。
……確かに、あんな泥水のような、黒い液体を飲むとは。……冷静に考えて、常識的とは言えないだろう。良くて薬、悪ければ泥水のような味がするに違いない。……しかも、よく見れば熱そうだ。
飯の時、主人は何を飲んでいただろうか。……よく思い出せない。
…………サリー。今日も昼からピアノの講師を呼んでいるのだが
いけない。あまり凝視し過ぎると、また父親に変な顔をされそうだ。
ケットは直ぐに視線を逸らし、父親の言葉に反応した。
ピアノ。……何だかよく分からないが、硬そうな雰囲気だった。檻か何かだろうか。
お昼から? そこに詰め込まれるというわけ?
詰め込まれるってお前な……確かにお前にとっては退屈な事かもしれないが、お前の将来に必要なものだと思って呼んでいるんだぞ
父親は溜息をついた。……何か、表現が良くなかったようだ。良く分からないが、ケットにとって必要なものらしい。
どう、必要になるのだろうか。ケットは考えたが、理由が分からない――……
あれか。狩りをする時の、狩られた動物の気持ちになる訓練ということか。
……お父様がそう仰るのなら、詰め込まれてみるわ
ほ、本当か!?
本当もなにも……嘘を吐く意味が無いと思わない?
目を白黒させて、父親は驚愕していた。
ようやくその頃、ケットの所にも朝食が配られる――……
これはあれだ。パンと卵、ベーコン。パンは主人がよく食べていたから知っている。他は何度か食べているのを見た事がある。
身体は美味しそうな香りだと認識している。昨日シンから貰ったココア以来、何も食べていないのだ。
ケットは意気揚々と、卵に手を伸ばした。人間は前足が自由に使えるので、便利である。
そうして、それを掴む。
ぴぎぃっ――――――――!?
ケットが悲鳴を上げてから使用人が仰天するまでに、およそ一秒ほど掛かっただろうか。
お、お嬢様!?
信じられない温度だった。火傷をするに決まっているではないか。相変わらず、湯気を確認しないのはケットの悪い癖だったが――……それにしても、信じられない。人間はこんな温度のものを平気で口に運ぶのか。
食卓に置かれた赤銅色の液体も、何やら湯気が立ち昇っている。
お嬢様!! どうか、お気を確かに!! 食器を使ってください……!!
使用人に冷たい布巾で手を包まれ、ようやく冷静になったケットは、食器と言われて卓をもう一度、見直した。
食器。
見れば、父親も母親も、食べる時だけは銀色の……そう、あれはナイフとフォークだ。食器を使っていた。手で掴んで食べているのはパンだけだ。
パン以外のものは、食器を使うのか。主人はパンを食べているイメージしか無かったので、気が付かなかった。
何故、わざわざそんな、無駄な事を…………!! 食べ物くらい人肌と同じ温度にしておけばいいのに…………!!
本当に信じられなかったケットは、涙ぐんだままで二人の様子を観察した。
あなた。やっぱりこの子、頭を打ったんじゃ……
…………ああ、そうかもしれん
ケットは思った。自分は何も、間違った事は考えていない筈だと。