『ヒールが折れて、池に落ちた事にしよう』

家に帰ろうにも、家の場所すら分からないケットに対し、シンがそのように提案し、二人は合意した。

血塗れのドレスはシンの家で一度、洗われる事になり、それが体良く池に落ちた演出になると言うのだ。

本人の知らない家へと帰しても良いのか。小さくシンはそんな事を呟いていたが、何れにしてもあのままシンの家で暮らす訳にも行かない。

ケットが乗り移った身体は年端も行かない子供と云う程幼くはなかったが、かといって熟した成年かと言われればそうでもない、大人と子供の間を彷徨うような、うら若き乙女の身体だった。

猫の時の自分が人間の年齢として、どの程度成熟していたのかは、『過ぎ往く年を数える』と云う風習の無いケットの家からは分かる事も無かった。しかし、感覚的には同じ位の歳のようにも思えた。

しんしんと降り頻る雨の道を、ケットとシンは歩く。敢えて使用人を置いて来たのは、シンなりの気遣いなのかどうか。


ふわりと、ケットの背中に何かが掛けられた。

シン

外、寒いから。家まで着て行った方が良いよ


黒猫の時のケットに掛けられた、動物の毛皮で作られた上着。


ケットは何処となく、気恥ずかしい想いに駆られた。息の白い寒空の下でも、不思議と心からぽかぽかと暖かいように思えたからだ。

懐かしい香りがした。まるで、遠き日に出て行った自分の主人のような。

シンは上着を手放し、見た目にも寒そうなのに、震える事もなく、むしろ笑みさえ見せていた。

ケット

シン? ……どうして、笑っているの?


その様子が気になって、つい、ケットは声を掛けてしまった。

シン

君が本当に、『あの黒猫』なら……嬉しくて

ケット

嬉しい?

シン

話せるものなら、話してみたいと思っていたから

つい、ケットはシンから目を逸らしてしまった。

上着の前を閉じて口まで埋めると、ほのかにシンの香りがする。柑橘系のフルーツのような、甘い香りだ。


その香りを嗅いでいると、暖かい春の陽気のような気持ちになり、不思議と心が舞い上がるようだった。

ケット

……どうして、話したいと思ったの?

シン

あ、あの家だよ。まだ明かりがついてるな

ケットの言葉は途中で遮られ、シンは前を指差した。ケットが視線をやると、そこにはシンの館と比べると、幾らか小さな――しかし、周囲の家と比べれば、全く比較にならない程に大きな――館があった。

どうやら、ケットの身体の主――サリー――は、それなりに金持ちだったらしい。

黒猫だった時の主人の家とは、全く比べ物にならない大きさだ。主人はいつも、金に困っていた――……周囲の反応は芳しくないが、生活は豊かだったと云う訳だ。

何とも皮肉な現実に、ケットは苦笑した。

シン

サリー?


ケットの様子に、シンがふと気付いて声を掛けた。

ケット

……いえ。いつの世も、富と名声が全てなのは変わらないのね

人間社会とは、そういうものである。

貧困層と富裕層があり、それらは決して均等に分配される事はなく、富裕層は有り余る裕福を噛み締め、貧困層はより貧困になり、日々の食べ物にすら困ってしまう。


ケットも、そのような現実を幾つも見て来た。

シン

一応、言っておくけど。こんな時間に外を出歩くというのは、本来あまり良く思われる事ではないんだ

ケット

そうなの? ……シンは、大丈夫なの?

シン

うちはあまり、そういうのに煩くない家でね


猫の身では、好き放題に外へと飛び出していたものだが。意外な言葉に、ケットは目を丸くした。

シン

だから、怒られると思う。それだけ、気を付けて

ケット

なんだ、そんなこと。……愛されている証拠じゃない


ケットは穏やかに笑った。その様子が意外だったのか、今度はシンが驚く番となっていた。

だが、気にもならなかった。

シン

遅くに、すいません!! 扉を開けて頂けませんか!!

門を乗り越え、玄関扉をノックすると、奥から足音が聞こえて来た。それまで全く何の抵抗も無かったケットだったが、その時だけは僅かな緊張感に身を委ねていた。


扉が開く――……

女性使用人

――――お嬢様?


扉を開けて登場したのは、使用人の姿をした中年女性だった。

シン

池に落ちてしまったんです。身体が冷え切っているから、とにかく中に!


やはりシンが言った通り、この身体はサリーと呼ばれる娘のもので間違い無さそうだ。

ケット

あの…………ただいま。入れて貰えるかしら

女性使用人

しょ、少々お待ちください……!!

ぱたぱたと足音を響かせて、使用人の女性は奥へと入った。ケットに続き、シンも玄関口へと入る。


……一応、気遣ってくれているのだろうか。送ってくれるとは言っていたが。


程なくして、顎髭に眼鏡を掛けた中年男性が現れ、ケットを睨んだ。その後ろには、ブロンドの長い髪を持つ美しい中年女性の姿も見られる……女性の方は、男性に恐怖を感じているようだった。

シン

あの、池に落ちているのを発見して……


予定通り、シンがケットの事情について説明した。……が、父親はシンの方を見ていなかった。

男性

このっ……!! 馬鹿娘がっ……!!


頬に、衝撃があった。

ケットは、その二人がケットの身体の両親である事に気付いた。中年男性は怒りも怒り、両の拳をわなわなと震わせて、今にもケットを殴る勢いだ。

いや、もう既に殴られていたか。頬に残る平手打ちの痛みを感じながら、ケットはそう思った。

母親

あ、あなた……!!

父親

お前は黙ってろ!!


中年男性は――ケットの新しい父親は、シンを見て、更に苦々しい表情になった。……確かに怒られるとは聞いていたが、これ程のものとは。悲しくはなかったが、その剣幕にはケットも驚いた。

父親

今更、何の用事で帰って来たんだ…………!!

ケット

今更って……ここは、私の家なんでしょう?

父親

ここはもうお前の家ではない!!

ケット

…………?

ケットは目を丸くして、腕を組み、首を傾げた。

一体この男は、何を言っているのだろう?

……ここは、サリーの家ではなかったのか。シンには確かに、そうだと告げられていたのだが。

シン

……一応言っておくけど、サリーの日頃の行いが悪いから、怒られているだけだからね


ああ、なるほど。破門という意味か。ケットは内心、言葉の意味を理解して、少し安堵した。

父親

一体何日、家を空けるつもりだったんだ……!? 挙句、こんな夜中に人様に迷惑を掛けて帰って来るなどと……恥を知れ!!


遂には目尻に涙まで浮かべて、父親はケットを叱り出した。どうやら、もう随分と帰っていないとの事だが……人間的には、あまり芳しい出来事ではないらしい。

まあそれもそうか、とケットは思い直す。まだ子供なのだ。人間の世界では、子供は常に親に寄り添っているものだろう。年齢的には微妙な年頃とはいえ、夜行性ではない彼等は、おそらく夜の活動に気を遣うのだ。

夜の街に誰も居なかった事が、何よりの証拠ではないだろうか。

父親

遂に夜も恐れず遊び始めたとは……!!
私はもう、お前の事をどうしていいのか分からん……!!

ケット

いえ、多分夜遊びではないわ


ケットは当時の状況を思い返して、そう伝えた。血塗れで倒れていたサリー。もしもそれが怪我だとしたら、きっと彼女は何者かに攻撃され、深手を負ったのだ。

母親

サリー!! あなた、お父様になんて口の利き方……


母親はそう言ったが、父親は気付いてもいない様子だった。

父親

た、多分……?

まさか反論されるとは思っていなかったのか、父親の男は驚愕していた。シンも驚いていたが、ケットは続けた。

恐らく、そう思われるのも無理はない程の悪事を働いて来たのだろう。ケットには、そのような確信があった。

何しろ、周囲の反応が悪過ぎたのだ。だが、真実を話さなければならない事も、また義務としてあった。

ケット

何かから逃げていたのよ。事情は分からないけれど……だから、以前に何があったのかは分からないけれど、今回は事故なのよ

父親

何かって……お前の話なんだが……


拍子抜けしてしまったようで、父親と思わしき男は溜め息をついていた。シンは苦笑し、しかし事が穏便に済んで安堵している様子もあった。

母親は父親の肩を叩いて、どうやら宥めようとしているようだった。

母親

あなた、もういいじゃない。無事に帰って来たのよ

父親

…………そうだな。とにかく、中に入ってもう寝なさい。詳しい事は明日、聞くから


やはり、愛されている。ケットは内心、そう思っていた。

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