歩いてみて分かったのだが、この人間の身体。

ケット

さ、寒い…………

想像以上に、冷たい。

ぶるぶると震えながら、ケットは奥歯を噛み締めて歩いていた。

水に濡れるだけで、この状況――……猫の時には考えられなかった事態だ。人が素肌の上に何かを着るのはこの為か、と思う。

猫の自分に掛けられた上着を、濡れる前に羽織っておけば良かった。今となっては、この状態で羽織った所で意味など無いだろう。

ケット

何なのよ……そもそも毛の発達、遅れ過ぎじゃないの……?

だが、霊長類は人間以外、立派な毛を持っているものだ。剥かれた鶏か爬虫類のようにすべすべとした肌をしているのは、人間位のものだ。

しかも、この身体はどうやら腹が減っているようだ。せっかく黒猫の姿から一転、人の姿になったと云うのに。これでは、何も状況が変わっていない。

ケット

うう……しかも、何で誰も人が居ないのよ……

通りは伽藍堂のようで、遂に街を出てしまうと、店も無くなっていた。草原の向こう側に、点々と民家がある程度だ。

ケットはこの身体の記憶を思い起こそうと、特に勝算も無く考えてみたりもしたが、残念な事に実家や親の顔など、肝心な情報は何も思い出す事が出来なかった。


一体どうしろと言うのか。これでは、黒猫として死んだ後に人として死ぬだけになってしまう。


……とにかく、商店街を抜けた事は幸いだ。何処かの民家に声を掛けてみよう。言葉は分からずとも、今の事情は察してくれるのでは無いだろうか。

猫の時は苦笑するだけで見向きもされなかったが、同族とあらばそうも行くまい。

青年

…………サリー?


人の声がして、ケットは振り返った。

青年

やっぱり、サリーじゃないか……!!

驚いたように、その人間はケットに駆け寄った。

明るい栗色の髪。少年と青年の狭間のような見た目だ。

ケットの目にも分かる程に整った顔立ち、夜道にも映える、透き通るような碧眼。黒い雨避けを手に持ち、濃茶と白の布を身に纏っている。

青年

血だらけじゃないか……!! 大丈夫!? 一体、誰にやられたんだ……!!

青年の剣幕に、ケットは少し慌ててしまった。何しろ、ケットには目立つ傷も無ければ、痛む箇所も無かったからだ。


気になる事と言えば、この赤い液体位のものだが……。

ケット

あれ? 言葉、分かる……

そうして、ようやくケットは、青年が何を言っているのかを自分が理解している事に気付いた。

ケットの様子に、青年は更に慌てふためいて、黒い雨避けをこちらに差し出した。

青年

サリー、大丈夫? 僕が分かるかい?


どうしようもなく、ケットは苦笑した。サリーというのは、この身体の名前なのだろうか。

青年がケットの手を握ると、ほのかに暖かさが広がった。身体の冷えたケットには、それが堪らなく嬉しい出来事だった。

青年

酷く冷えてるな……とにかく、うちにおいで。暖かいココアを出してあげるから

猫でありながら、ケットは青年の姿に美しさを感じていた。まるで、神話に登場する戦士のようではないか。

ケットには、ケットの知識がある。昔主人に語られた、ヴェルツァイェ帝国に伝わる神話――彼はそこに登場する戦士か、勇敢な若者のようだった。

青年はケットの手を引き、暗い闇の中を歩き出した。


どうやら、ケットは血塗れになっていたらしい。そう気付いたのは、青年の家と思わしき場所に入った後、奥から出て来た使用人の女が

女性使用人

ひええ……

と言って腰を抜かしたからだった。


あまりに現実感が無かったので、どうしてもこれが血だとは思えなかったが。


本当にそうだとしたなら、何故ケットは――この人間の身体は――自由に動く事が出来ているのか。

兎にも角にも使用人に血塗れの布切れを脱がせて貰い、身体を拭いて貰い、ケットは館にある別の布を仕立てられた。


人間は、身の回りの世話まで誰かにやらせる。まるで子供のようで不自然だと思っていたが、やって貰うと意外にこれが心地良いのだ。


まるで天上の存在にでもなったかのような気分だった。

だが、人間にとってはこれが当たり前。ケットはその現実に苦笑しながらも、使用人と共に衣裳部屋を出て、暖炉のある広い部屋へと向かった。

青年

傷は?

ケットの姿を見ると、開口一番、青年は使用人にそう問い掛けた。使用人は青褪めた顔をしながらも、青年に向かって首を振る。

女性使用人

それが、どこを探しても見付からなくて……

青年

脇腹。服が破けていただろ。そこは?

女性使用人

いいえ……

そうか、あの人間がいつも身に纏っている布は、そういえば服と言うのだった。


少しずつ過去の記憶と照らし合わせながら、ケットは漠然とそんな事を考えていた。


服の存在を思い出すと、今まで思い出せなかった色々な単語が、コップから溢れる水のように湧き出て来る。

知っているもの、知らないもの。それらは様々だったが。

青年

……そうか、分かった

青年はそう言って、少し緊張したような視線を暖炉に落とした。

ケットには、青年が自分に――この身体に――対し、何かを警戒しているように見えた。

初めて出会った時からそうだったが、彼はあまりケットと目を合わせようとしなかった。

どうしたのだろうか。彼からしてみれば、自分は何ともか弱い風貌の女でしかない――……しかも、中身は猫ときている。

これは、青年が知る由もない情報だったが。

ケット

ありがと。……助かったわ

青年

……いや、別に僕は。……そうではなくて、何があったのか説明してくれないか

ケット

その前に、これを……乾かしたいのだけれど

ケットはそう言って、猫の時に誰かが掛けてくれた羽織を青年に見せた。

暖炉の近くであれば、濡れてしまった羽織も乾くと思ったのだ。

階段を降り、暖炉の近くに立っている青年に向かって歩いて行く。

だが、それを見て青年は衝撃を受けているようだった。

青年

それは…………それを、どこで拾ったんだ?

ケットはふと気付いて、足を止めた。

これは元々、猫の時の自分に掛かっていたものだ。当然、今の自分とは似ても似つかない――……

不自然ではないだろうか。人間の自分は、何処の誰とも分からない人間が恵んでくれた上着を猫から奪い取った事になるのでは。


…………まずい。


ケットは思った。

何か、言い訳をしなくては。

ケット

誰かに貰ったの


青年は、凛々しい眉を吊り上げた。

あまりに貧相な、自分の想像力に乾杯。ケットは内心、そう思っていた。

青年

誰かって……誰?

ケット

えっと…………

更に言い訳が苦しくなってしまった。

一体ここから、どうやって弁解すれば良いのだろうか。

ケットは悩み、そして。

青年

…………あのね、それは僕の上着なんだけど

ケット

えっ……掛けてくれたのは、貴方だったの?

遂に、気が付けば致命的な一言を口にしていた。

青年は全く会話が噛み合っていないと思ったのだろう。口を開けて、既に言葉を失っているようだった。

おかしい。自分は今、人間の脳を使っている筈なのに。

黒猫だった時に、自分はこれ程までに頭の回らない存在では無かった筈だ。

内心ではそのように自分を責めつつ、ケットは青年に苦笑した。

青年

僕は、君に掛けたつもりはないんだけど……

ケット

そ、そうよね。私の間違いだったわ。

……これはそう、拾ったの。街の方で

青年

…………君、本当に、サリーなのか? ……あの、サリー?

そんな事を言われても、私にだって分からない。

青年の顔が近付いて、思わずケットは焦ってしまったが。

絵画か彫刻のような青年の顔が近付くと、夢物語の世界に入ってしまったかのようで、少し動揺してしまう。猫だった時は人の顔など皆同じように見えていたが、人間になるとこうも違うとは。

やはり、同種の個体識別能力というものは侮り難い……

ケット

…………サリーに見える?

青年

見えるというか、どう見てもサリーなんだけど……まさか、本当に違うの?
どこから来たんだい?

駄目だ。

これ以上何をどう取り繕った所で、どうにもならない。真実を話すしかない――……

言い訳上手の筈の自分が、まさかこんな事になるなんて。ケットは歯痒い想いに駆られたが、しかし現状が現状なのだ。


信じてくれるかどうかは別として、本当の事を話すしかなかった。

ケット

実を言うと…………私、猫だったの

青年

ああ、君が猫被りだっていうのは、僕もよく知ってるが……

ケット

そうじゃなくて……


青年の言葉を聞いた時、ケットはようやく、この身体の持ち主がどういう存在だったのか、その真実を朧気ながらに把握し始めた。

青年の表情にどこか挙動不審な様子が見られたのも、それが原因だろうか。ケットは含み笑いを抑えられなかった。

ケット

正直に話すわ。私自身、まだ何も信じられていないのだけど……聞いてくれる?

そう話した時、ケットは気付いた。


間違いない。この男、私を疑っている。

青年

…………君の言葉を? 信じろと?

ケット

…………

一体どんな悪事を働いたんだろうか。そう云えば、使用人の態度も何処か宙に浮いているというか、よく分からない対応をしていた。

青年とケットの身体は殆ど同世代に見えるが、もしかすると近所中に知れ渡っている話なのかもしれない。

何者なのだ、この娘は。ケットはそう思ったが、しかし――……ある事に気が付いた。

ケット

多分、この身体の持ち主は、死んだのよ

そうだ。これが半信半疑の青年を納得させる為の、最もシンプルな解答ではないのだろうか。


青年も大きく目を見開いて――サファイアのような輝く瞳に、一瞬我を忘れて見惚れてしまった――そして、眉をひそめた。

青年

死んだ……?

ケット

私はね、橋の下で動けなくなっていたの。
その時、隣で倒れていたのがこの身体、と言うわけなのよ


いっそ、堂々と。胸を張ってそう答えたが、当然のように青年は怪訝な眼差しでこちらを見るばかりだ。

いや、既に怪訝を通り越して、ケット自身の頭について疑われているような気もしていた。

青年

橋の下で動けなくなっていた……という事は、君があの時の、猫だと……?

ケット

そうよ

青年

ちょっと、頭が痛くなってきた……


聖者のように綺麗な顔が困惑に歪んでいる事に、どうにも申し訳無さを感じるケットだった。

だが、これが真実である。他にどう説明する事も出来ないのだから、仕方が無い。

青年

…………まあでも確かに、そうでもないと説明が付かない……ということも……あるか


おや?

意外にも、すんなりと受け入れてくれそうだ。人間というのは、摩訶不思議な現象に慣れている生物なのだろうか。ケットにとっては、ありがたい事この上無いが。

ケット

信じてくれるの? ……私も正直、自分の事が信じられないのだけれど

青年

ちょっと待って。君が猫なら、どうして君は言葉を喋れるのかな

ケット

なんか喋れるのよ。だから、しょうがないじゃない


ケットは胸を張って答えた。

青年

まあ、確かに……そうだよね……

ふう、と一息ついて、青年は遂に、椅子に腰掛けた。傍目には、倦怠感から脱力したように見えた。

使用人がケットの側に、カップを置く。茶色の液体から、湯気が出ていた。

青年の所にも、同じ物が置かれ――それを青年は、一口啜った――どうやら、飲み物らしい。

ケットも、カップを持って一口。

ケット

――――うぷぇっ!?


星が見えた。

青年

だ、大丈夫!?

おかしいな、そんなに熱くしたつもりはないんだけど……

堪らず咳き込むと、心配した青年が駆け寄って来る。

舌が痺れ、口内が大火事だった。床に向かって盛大に吐いてしまい、使用人が慌ててケットの噴いたココアを拭くため、布巾を探しに奥へと入って行った。

何故、こんなものを。いや、それ以前に、どうしてこの青年は平気な顔をしてこんなにも熱いものを飲んでいるのか。

見れば、青年側のカップからも、もうもうと湯気が立ち昇っている。

ケットは言った。

ケット

これは猫の飲み物じゃないわ!!


青年は困ってしまい、頭を掻いた。

青年

うん、猫の飲み物ではないけど……


当然の返答だった。

青年

…………君は、ほんとうにサリーではないみたいだね


だが、そのやり取りが遂に、青年を信じさせるに至る根拠となったらしい。ケットが棒立ちになって青年を見詰めていると、使用人がケットの口周りを綺麗な布巾で拭いた。

ケット

そうよ。実は、私を助けてくれる人を探していたわ


無駄にケットは無い胸を張った。

青年

じゃあ、これまでのサリーは……死んだという可能性も、あるのか……


すう、と青年の瞳が細くなる。遠い過去を思い出しているかのようにも見えた――……暖炉に向かって腰掛け、思い悩む青年。

どういう訳か、見惚れてしまった。すらりとした細い手足も、どこか爽やかな風貌も、青年の白い肌も、今のケットには魅力的に映っていた。

何故か、目を逸らしてしまう。同時に、少しばかりの悔しさがケットの胸に湧いた。

ケット

……もしかして、この人を愛していたの?
それなら、残念な事かもしれないけれど


ところが、青年は不意にケットを丸い瞳で見詰めて、首を振った。

青年

いや、それはないよ。絶対にない。未来永劫、ない


何故か、ケットの胸に青年の言葉が突き刺さった。

一体、どういう人生を送って来たのだ、この娘は。生まれ変わったにせよ、乗り移ったにせよ、これは神が自分に与え給うた試練なのだろうかと、ケットはそんな事を考えた。

青年

むしろ……ほんとうに黒猫の君がサリーの身体に乗り移ったなら、僕はすごく嬉しいよ

青年はそう言って、少し安堵したかのような笑みをケットに見せた。


――――瞬間、ケットの胸が高鳴る。


これは一体、何だろう。自分はどうしてしまったのだろうか。自身の心臓の音が、やたらと大きく聞こえる。ケットは今一度、青年から目を逸らした。

青年

僕は、シン。シン・ツァイェ。よろしくね、サリー

ケット

…………よ、よろしく


青年の自己紹介に、ケットは上手く反応する事が出来なかった。

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