ヴェルツァイェ帝国のストリートに、小さな黒猫が倒れていた。



まだ仔猫だと言われた方がしっくり来るような大きさで、交差する陸橋の影になる場所を利用し、雨露を凌いでいた。

既に一歩たりとも動く事は出来ず、噎せ返るような雨の中、日光浴をするかのような姿勢でいた。


このような格好では、体温を奪われる。どうしてもこの場所を動く事が叶わないと云うのであれば、一刻も早く身体を丸め、冷たい夜風から身を守るべきだ。

そのような実情は理解していたが、しかし黒猫は動く事が出来なかった。

空腹に次ぐ空腹で、遂に腹が鳴ることを止め、穏やかな眠気さえ訪れていた。


無理も無い事だ。もう、三日以上も食べていない。黒猫の主人は何の用だったのか、家を出たきり戻って来なくなり、それきり黒猫は見捨てられた。

空腹に耐えられず外に出る頃には、黒猫に狩りをする体力など残されてはいなかった。

元より、訓練もしていない飼猫に、狩りなど無理な話だという事もある。気が付けば、黒猫は誰からも相手にされず、とぼとぼと花崗岩の敷き詰められた路上を歩いていた。

身動き一つ取る事が出来なくなった頃、黒猫は考えた。


生とは孤独である、と。


誰も、自分の死に気付かない。同じ国土、同じ大地に生を受けようと、命とは孤独なものだ。誰もが自分の生きる道に死力を尽くしている。余所見をする余地など与えられてはいないのだ、と。

ならば、生きる為の術を磨いて来なかった自分にとっては、当然の結末だとも言える。


遅い――――遅過ぎる、後悔。


だが、何時の世も後悔とは、先には立たないものだ。

そう考えた時、身動き一つ取る事の出来ない黒猫に、小さな疑問が浮かんだ。


本当に、そうだろうか?


それは唯、黒猫がこれまでの過程で、共に生きて行く相手を探さなかったから。それだけなのではないだろうか。

もしも本当に、生と云うものがこれ程までに冷たく、無味乾燥とした物であるならば。喜びなど、何処に見付ければ良いと言うのか。


――――やり直したい。


漠然とした、希望。だが既に、黒猫の身体は悲鳴を上げ、遂には限界を越えている。黒猫の願いは、その心とは裏腹に、決して叶えられる事の無い願いだ。

だが、黒猫は願っていた。



やり直したい。

???

…………!”#$…………&%$?

不意に、黒猫に話し掛けてくる存在があった。

黒猫は既に目を閉じていたが、耳だけでその存在を確認していた。

言葉の内容は分からない。だが、人間のものだ。声の低さからして、これは黒猫の主人と同じ、男性のものだと分かった。

???

”#$%…………!”#$?

黒猫の鼻に何か、香ばしい食物の香りが広がった。

どうやら、この男性は自分を助けようとしてくれているらしい。

だが――――既に、口を開く事さえ出来ないのだ。

男性には申し訳無いが、その好意に応える事も、甘えて擦り寄る事も出来はしない。

応えられない事に、悲しさを覚えた。……いや、それは虚しさだったのかもしれない。

???

#$%&…………

ふわりと、黒猫の全身に何か、柔らかいものの感触があった。

程無くして、全身がぽかぽかと暖かくなった。最も、冷たい身体には一時凌ぎにしかならないだろう――……

自分が意識を失った時、この身体は二度と熱を取り戻す事は無いのだろう。だからこれにも意味は無いのだと、頭では分かっていた。当然、男性にもそれは分かっていたのだろう。


しかし、黒猫は嬉しかった。


嬉しいと感じる事が出来たのだ。


誰かに気付いて貰えたのだと、実感する事が出来たから――――…………

全身が、何かに変わった感覚があった。驚いて、黒猫――――ケットは、目を開いた。

身体が重い。その代わり、動く筋肉も今までのそれとは比較にならないほど大きい。ケットはそのような感想を持っていた。身体が巨大化してしまったかのような、この感覚。

一面、真っ赤だ。何処なのか分からないが、塗料で塗られたかのように赤い地面。その中心に、自分が寝そべっていた。

鉄の匂いがする。

ケット

…………なに、これ


赤いのは塗料ではなく、液体のようだ。自分を中心に広がっているようだが…………地面に前足を突くと、それが今まで自分が動かしていたそれとはまるで違う事に気付いた。

ケット

へっ…………?

驚いて自分の口から出た声でさえ、記憶に残っているものとは全く違う声色だった。


白い指。掌には肉球も付いていない。今までとは比較にならない程自由に動かせる前足を、ケットは自らの意思で動かしていた。

全身ごわごわとした布地に覆われ、これでは歩くのも大変なのではないかと思えるが。


慌てて、立ち上がる。


ケットもこの格好は、何度も見た事がある――……これは、人間の格好だ。特に、この街に来てからは何度も見ていた気がするが。

ケット

…………この街?

気が付いて、顔を上げる。そこは相変わらず、陸橋の下だった。最も、今までに見ていた光景より遥かに高く、塀の上に登ったような視点だったが。

すぐ近くに、今まで自分が居た場所がある。そこには、黒猫の姿をした自分が寝そべっていた。ご丁寧に、動物の毛皮で出来た人間の羽織が掛けられている。


ケットはそれを、拾い上げた。

ケット

一体、誰が……

雨が降っている。直感的に、自分が今動かしている存在は、つい先程までは別の誰かが入っていた器だと――……ケットは、そのように感じていた。

もしも人間として生まれ変わったとすれば、今のように成熟した器にはなっていない筈だと。

以前、まだ主人がケットの面倒を見ていた時に、赤子を見た事があった。それが成長すると、今のようになるのだ。

身体は女性。……ケットも雌猫だった為、そこまでの違和感は無いが。


とにかく、何が起こったのかを確かめなければ。


ケットは、夜の街を歩き出した。

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