雲行きが怪しくなってきてしまった。

一星

メイのやつ、どうするつもりだ?

 こんな情報を母親に売りつけるわけにもいかないだろう。浮気の証拠程度なら礼一郎も諦めて金を払うかもしれないが、横領の証拠となれば取り戻すために――あるいは揉み消すために必死になるはずだ。一方で母親の方は、無茶なことを考えつくわりに見通しが甘いようなところがある。返り討ちに遭いそうなことは、想像できてしまう。
 そうなれば母娘ともども大火傷だ。
 ……あいつも厄介なもんを掴んじまったよなァ。
 俺がメイだったら、見て見ぬふりをする。ガキ一人でどうにかするには、ちょっとばかり荷が重い。黙っていれば大学まで金を出してもらえるのなら、卒業までは我慢して独り立ちの準備をするというのが現実的だ。
 どんだけ家庭環境が殺伐としていようと、メイもおそらく金銭的な苦労だけはしたことがない甘ちゃんなのである。
 親父の横領を会社にチクッて社会的に破滅させてやれば痛快ではあるのだろうが、その後メイ自身が経済的に困窮してしまう――経験者は語るというやつだ。
 ちなみに俺は家出だった。元から非行少年だったため手癖の悪さでしのいできたが、メイに同じことができるかといえば多分無理なのだ。
 可愛げがなかろうと、女子高生は女子高生。
 器用さや賢さよりも単純に体に価値が付く。悪魔のように知恵が回ろうと、もっと悪賢い大人にあっという間に食われて泣きを見るのがオチだ。下手すりゃもっと酷い目に遭う。
 そういう世界だ。

 そのまま二十分。
 リトルカブを走らせて、メイは帰路についた。誰も待っていないでかいだけの家を見上げながら、なにを考えているのだろう。勝手にいろいろ想像してしまいそうになって、俺は小さく舌打ちをする。
 気分転換のためコーヒーに手を伸ばすも、カップの中身はすっかり冷えてしまっていた。苦味の増したように思える黒い液体を舌先で舐め、溜息を吐く。
 やーっぱ見るんじゃなかったなァ。
 賢い相棒の言うことは、聞いておくべきである。ちょっと学校の様子でも見守ってやるつもりだったのに、俺も家にいた頃を思い出して精神的ダメージを負ってしまった。

 家族ってのは、人間が生まれて最初に与えられる“不平等”だ。
 血は水よりも濃い。親は無条件に子供を愛する。そんなの、家族に恵まれた連中の妄想にすぎない。我が子を疎む親。我が子を自分のステータスの一部としか思わない親。メイや俺のケースは氷山の一角で、親に売りをやらされただとか、犯罪に利用されただとか、見た目に分かるほどの虐待を加えられただとか、そういった酷い話もまま聞く。

一星

 ……なんて、どんよりしてる場合でもないか

 俺は軽く頭を振って、液晶画面に視線を戻した。毒を食らわば皿まで、という言葉もあることだ。こうなったら最後までストーキングしてやる。
 なんとなーくウエイトレスが嫌そうな顔でこちらを見ている気がするが、無視だ、無視。
 メイは家を見上げるのをやめ、再び動き出していた。まずリトルカブを敷地から出し、自宅から少し離れたコンビニへと持っていったのだ。愛車をコンビニの駐車場へ置き去りにし、徒歩で自宅へ戻る。
 合い鍵で家の中へ入ると、メイは次に食品保存用の大袋――ジッパーが付いている、厚手のビニール袋だ――にタブレットパソコンとUSBメモリを突っ込み、庭の花壇を掘り始めた。

一星

……埋める気か?

 なんつうか、もうその時点で嫌な予感しかしない。証拠は全部埋めて素知らぬふりを決め込もうってんならいいのだが、そういうわけでもなさそうな雰囲気だ。

一星

本人の表情が見えないってのは、不便なもんだな

 独りごちつつ、俺は観察を続ける。メイは証拠を埋めてしまうと、何事もなかったように家の中へ引き返した。玄関で脱いだ靴を持って階段を上り、自室へ。クローゼットの中から少し大きめのバックパックを選んで取り出す。
 ――あちゃあ、そうきたか。
 思わず呻いてしまう俺である。
 あのガキ、よりにもよって最悪な選択をしやがった――そう口に出して言いたい気分だ。原付を敢えてコンビニに停めたのは、万が一あの親父が帰ってきたときに帰宅していることを悟られないためだろう。こいつは今、こいつなりに細心の注意を払って家出準備をしている。つまり証拠を持って逃げ、礼一郎をぶっつぶす気なのだ。
 娘に家出された上、横領まで暴かれたとなればダメージ大には違いないが……ううむ……捨て身だ。

 一日分の着替え、薄手の上着、下着とタオル、そして財布。通帳と印鑑。携帯の充電器にモバイルバッテリー、レインコート――まるであらかじめ決めてあったみたいに、必要なものを詰め込んでいく。

あとは……あ、携帯食料

 メイは呟き、両手でバッグを抱えた。ゆっくりと部屋の中を見回し、廊下に出るともう振り返らない。そのまま階段を降り、ダイニングルームに入った。
 ストッカーを漁り、いくつか携帯食料らしきものを選んでいる。と――

…………!

 不意に、メイが慌てだした。あたりをきょろきょろ見回す動作で、カメラの視点が忙しなく切り替わる。その様子は、どこか隠れる場所を探しているようにも見える――集積マイクでは音を拾えなかったが、なにかあったのか?
 ともあれメイが迷ったのは、ほんの数秒だった。
 すぐに動き出し、キッチンの床下収納を開く。
 そこには、なにも入っていなかった。バッグを抱えた少女の体が、狭い空間に滑り込む。携帯のバックライトを点けたのは、さすがに心細かったからか。

 収まりが悪かったのか、メイがヘッドフォンを外した。今は――暗がりに、ぼんやりと少女の顔が見えた。酷く不安そうに、息を殺している。
 ややあって、声が――

礼一郎

ただいま、冥。帰ってきているか?

 礼一郎だ。そっか。メイが聞きつけたのは、車のエンジン音だったのか。
 そういえば――と、アパートからの帰り際に管理人らしき女が騒いでいたことを思い出す。あの騒ぎは、もしかしたら部屋の中にまで聞こえていたのかもしれない。

礼一郎

冥、仕事が早く終わったからケーキを買ってきたんだ。昨日はお前の誕生日だっただろう?

 薄気味悪い猫撫で声で、大根役者もいいところだ。そんな演技で騙せるのは、小学生までのガキか、無償の愛しか知らないお花畑野郎くらいだろう。
 俺は、それが愛情を装った毒入りの餌だってことを知っている。食らいついたが最後、手酷く裏切られてもっと傷付く羽目になる。
 暗がりの中で、メイがいっそう顔を歪めたように見えた。
 それからほとんど吐息のような声で、

お祝い、する気なんてないくせに。サイテーの嘘だよ、父さん

呟く。

誕生日なんて、だいっきらい

 こいつも、俺と同じように毒を毒と見抜いている。自分の親の人間性に、欠片も期待しちゃいない。
 賢くて、どこまでも生意気なガキなのだ。そんなガキの虚勢は哀れで、けれどどこか懐かしく、俺の胸にどうしようもない疼痛を呼び起こす。
メイは親父の声には応えず、狭い収納庫の中でじっと丸くなっていた。
 しつこく呼びかけていた声が途切れる。
 ややあって、なにかを派手に倒すような音が聞こえてきた。礼一郎が娘の不在に苛立って、物に八つ当たりでもしたのかもしれない。メイは一度だけびくりと体を震わせたが、声は上げなかった。

 どれだけそうしていただろう。
 メイがまたなにかを聞きつけたように顔を上げ、収納庫の扉を押した。射し込む陽光に目を細め、のそりと這い上がる。ヘッドフォンを首に掛け直し、玄関へ走っていく。礼一郎はまた出かけていったのだろうか。仕込んだ集積マイクではやはり外のエンジン音まで拾えないため、状況が理解しにくいが――
 メイは爪先に靴を引っかけ、慌てた様子で玄関のドアを押した。庭に車は停まっていない。
 確認したメイが安堵の息を吐き、そのまま駆け出そうとする――その体が、ぐらりと傾いた。映像のぶれ方からして、横から殴りつけられたような印象だ。
 メイはこけそうになりながらもどうにかバランスを取って、衝撃の原因を見やった。

そこには、

父さん?

 礼一郎が佇んでいる。

なんで? 出かけたんじゃ……

礼一郎

お前は誘拐犯を出し抜いて帰ってくるぐらい頭のいい子だ、メイ

 言いながら、くそ親父はにこりとも笑わない。

礼一郎

なのに、あの馬鹿女と同じようにわたしを煩わせて……まったく、忌々しい

 なんの予備動作もなく腕を振る。鈍い音が響いた。多分、こめかみのあたりを殴りつけられたんだろう。容赦のない殴打に、メイの体が今度こそ崩れる。
 同時に、カメラの視点も切り替わった。地面しか映らない。どれだけ待っても、動かない――ということはメイのやつ、気を失ったのか。
 まさか打ち所が悪くて死んだなんてことは……いや、洒落になんねえぞ。
 男の呟きが、聞こえてくる。

礼一郎

今なら……仮にお前がいなくなっても、出し抜かれた誘拐犯の報復ということで片付けられるかもしれないのか。なんせ犯人はまだ捕まっていない

 ぎゃー!!
 あの娘にして、この親父ありってやつかよォ!

一星

父娘揃って、なんつう悪魔的発想力だ。その発想力を、もっと世の中に役立つことのために使え。マジで!!!

 出かかった悲鳴を、俺はすんでのところで呑み込んだ。コーヒー一杯で三時間近く居座って、ただでさえウエイトレスの視線が痛いというのに、絶叫なんぞしてみろ。つまみ出されてしまう。いや、状況的にもこれ以上長居できそうな感じでもねえけど。

一星

これはまずい……

 二重の意味でまずい。あの親父の言う“いなくなっても”というのが“殺す”という意味ならメイはこれから殺されるんだろうし、俺と夕月さんは殺人犯にされてしまう。

一星

最悪な事態になっちまった

 メイのことが気がかりではあったが、とりあえずなにも知らない相棒に殺人犯の濡れ衣を着せられそうになっていることを教えてやらなければならない。
 俺は躊躇いつつもカメラの接続を切ると、夕月さんの番号を呼び出した――

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