異変に見舞われたタマの声に導かれながら辿り着いた先で見つけたのは、黒い子狐の妖。
王都を抜け、撫子がよく向かう小さな森の奥で……、黒い子狐は傷らだけの姿で発見された。
レオトの調べた様子では命に別状はなく、治療後に安静にしていれば元気になると、そう御墨付きを貰えたのだが、タマの動揺は治まらない。
ゲージの中から出されたタマは、クロの傍に寄り添いながら、ペロペロと黒い毛並みを舐めている。
うぐ……。はぁ、はぁ。
クロ!! クロ!! しっかりするのじゃ!!
異変に見舞われたタマの声に導かれながら辿り着いた先で見つけたのは、黒い子狐の妖。
王都を抜け、撫子がよく向かう小さな森の奥で……、黒い子狐は傷らだけの姿で発見された。
レオトの調べた様子では命に別状はなく、治療後に安静にしていれば元気になると、そう御墨付きを貰えたのだが、タマの動揺は治まらない。
ゲージの中から出されたタマは、クロの傍に寄り添いながら、ペロペロと黒い毛並みを舐めている。
タマ、大丈夫よ。レオトさんがちゃんと手当をしてくれたんだから、ちゃんと休ませてあげないと。
やかましい!! 誰が、誰がクロをこんな目に遭わせおった!? 許さぬっ、許さぬぞぉおおっ!!
まぁまぁ。犯人捜しも大事だけど、この子の傷を早く治したいなら、少し静かにしていようね。
バウッ……。
くぅぅぅ……。
治療をしてくれたレオトにこれ以上抗う事は出来ないと判断したのだろう。
タマはしゅんっと耳と尻尾を垂れて丸くなった。
小さく、クロ、クロと祈るように呟いている姿を見ていると、胸が痛む。
魔物か何かにやられたんでしょうか……。
……いや、この傷口は、魔物の類じゃないね。魔術の類で仕掛けられたものだ。多分、それから逃げ延びて、あの森に辿り着いたんだろうね。
いつもは穏やかな笑みを浮かべているレオトの顔に、普段は見る事のない険しさと緊張が宿っているのを見た。
魔術による攻撃……。この世界においては、それを扱える者は多種族に渡る。
誰に攻撃されてこんな状態になったのか、何故、そんな事をされたのか、聞けるようになるには時間がかかる事だろう。
この、クロと呼ばれている妖が目覚めるその時まで……。
流石に、もう仕掛けてこないとは思うけど……、撫子君。
は、はいっ。
俺は騎士団の仕事でまた戻るけど、暫くはこの部屋にいてくれるかな? ポチもつけるし、不便がないように取り計らう。いいかな?
はいっ!! この子が目覚めるまで、ずっと傍についておきます。
九尾に関係のある存在が自分から飛び込んできたようなものなのだ。
もしかしたら、九尾の行方を知る事が出来るかもしれないし、それに……。
誰かが、この子達を守ってあげなくちゃ……。
まさか、九尾が自分の眷属を襲った……、とは、あまり考えたくなどないが、あらゆる事態を想定して慎重深く動かなければならない。
撫子はレオトが騎士団に戻る前に一度席を外すと、フェインリーヴの部屋から調合用の道具や薬草を抱えて戻ってきた。
薬草学には、人の傷を治したり毒を浄化するものもあるが、攻撃用の類を作る事も出来るのだ。
この部屋で長い時間を過ごす事になるのなら、時間を無駄にせずに色々とやっておきたい。
すでに作り置きの薬瓶を収めた布カバンも持ってきている。万全の状態だ。
というわけで、さぁ、どうぞ行ってらっしゃいませ! と意気込んだ撫子に、レオトがぷっと笑いを噴出した。
ふっ、ふふ、ははははっ!! 撫子君、き、君、本当に真面目だね~。ここにフェインがいたら、大喜びで君の頭を撫でていたと思うよ?
ワンッ!!
レオトの言葉に、ポチも賛同するように頷く。
別に笑わせようとしたわけではないが、なにか変だっただろうか?
部屋の中に道具を設置し始めたり、薬草学の本を棚から引き出そうとしたり、忙しなく動き回る撫子に、レオト達の微笑ましい視線が向けられる。
え~と、褒め言葉、ですか?
うん。ちゃんと褒めてるよ。……フェインの弟子として、傍にいる存在として、申し分のない子だよね、君は……。
え?
さ~てと! 仕事、仕事~!!
扉の方に向く前、レオトが何かを呟いたような気がしたけれど、撫子には何も届かなかった。
右手をひらりと振って去っていく騎士団長の姿を見つめながら、――。
何だったんだろう……。
レオトの音を拾えなかった撫子は、なんとなくそれを気にしながらも、クロとタマに向き直った。
目から涙を零しながら小さく鳴いているタマにとって、このクロはとても大切な存在なのだろう。
見たところ、色は違えど同じ狐の姿。
こうやって二匹揃って寄り添っている姿は、まるで兄弟か、番のようにも見える。
撫子はそっとタマの頭を撫でると、尋ねてみた。
ねぇ、タマ……。この子はお友達?
友、という言葉では足りぬ!! 我らは九尾様を主と崇め、互いにその力になれるようにと力を合わせてきた関係。決して、切れぬ絆によって結ばれた同胞……。
そっか。じゃあ、これでタマは一人じゃないね。
む?
だって、この異世界で……、タマは一人ぼっちだったでしょう? だけど、クロと再会出来たんだから、二人。ね?
そう、この世界で唯一人の異世界人である自分とは違う。たとえ故郷を同じにしていても、人間である自分と、この妖達は同じではないから……。
だから、タマが羨ましい。友達に会えた、タマが。
私も……、姉様に、会いたいなぁ……。
自分を知っていて、自分をその両手に抱き締めてくれる家族……。
大切な姉の笑顔が……、撫子の瞼の向こうに映る。
けれど、その美しい天女の面差しが水面の中で揺らいだようなイメージが見えた直後、そこに……、蒼い髪の男性の顔が映った。
撫子、と……、心地の良いお師匠様の低い声が聞こえた、気がした。
しかし、それが幻聴でない事に気付いた撫子は、いつの間にか木のテーブルに置かれていた手鏡の中から、彼の声に捕まった。
あぁ、いたいた。お前の顔がバッチリ見えるぞ、撫子。
お、お師匠様!? え? なんで!? さっきまで鏡なんてっ!!
ワンッ!!
主張するように一声鳴いたポチ。
もしかしなくても……、まさか、ポチが?
席を外せない部屋の中、どこにも逃げ場はない。
鏡の中から溢れ出した光が宙に流れ出し、そこに映っているお師匠様が、何故か物凄く怖い笑顔で愛想たっぷりに言った。
逃げるなよ?
え、えっと、に、逃げたりなんかしませんよ~!!お、お久しぶりです!! お師匠様!!
わざとらしく、お利口さんな弟子スタイルで応えてみたが、次の瞬間には、じっと冷たい迫力のある視線に射抜かれた。
あぁ、絶対に何度も通信を断っていた事を根に持っている!! それも、かなり、根深く!!
この馬鹿弟子がぁあああああ!!
ひいいいいいいいいいっ!!
やっぱり怒られた!!
冷静さを保っていたフェインリーヴの怒りは凄まじく、その場に思わず正座をしてしまった撫子は、お師匠様から飛んでくる嫌味と怒りのお言葉にビクビクと震えてしまう。
すみません、すみません!! 悪気はなかったんです!! ただ、色々と心の中の葛藤やら面倒なあれがあれでそれで!!
マメに弟子の様子を見てやろうという師匠の親心がわからんのか!! お前は!!
うぅっ、すみません、すみません!! ちょっと、色々とありまして……。
色々ってなんだああああっ!!
えっと、えっと……、と、とにかく!! 色々あって、お師匠様の顔を見たくなかっただけなんです!!
なぁぁぁんだぁぁぁとぉぉぉおおおおおおお!!!!!!!!!!!
だ、だって、だって……。
どう言えばいいんだろう……。
激怒状態でブチギレているお師匠様に委縮しながら、撫子はぷるぷると子犬のように震えて言葉を重ねる。どう考えても逆方向にしか突っ走らない発言ばかりを……。
そ、そのっ、い、いつまでも、お師匠様に心配ばかりかけるわけにはいきませんしっ。い、一ヶ月の出張くらい、全然平気です、って、そうお伝えしたかったというか……。お、お師匠様離れを目指した結果があれだったというか。
フェインリーヴの顔を全く見ずに、撫子は下を向いて言い募る。
まさか、お師匠様に対してちょっとアレな感情を抱きかけているので、その想いを深めないように距離をとっていました、とは流石に言えない。
そんな本音をぶつけては、いくらフェインリーヴとはいえ、絶対にフリーズしてしまう。
そして、動きを取り戻した後に……、必ず。
――キラワレテシマウ。
――オシショウサマガ、ハナレテイッテシマウ。
――モウ、ソノヤサシイテデ、フレテモラエナクナル。
――子、おい!! 撫子!!
あ……。す、すみません。
今のはなんだ!? 師匠離れだと? まだ弟子入りして一年も経っていないくせに何を言ってるんだ!! いや、一年どころか、千年早い!!
ま、まぁまぁ!! そのくらい、弟子は日々成長してますよって話で……。それに、人は千年も生きませんよ。私の世界でも、人間は八十歳ぐらいが限度ですからっ。
――っ!!
撫子が誤魔化すように笑顔を浮かべてそう言うと、光の中に見えていたフェインリーヴの顔に、わかりやすい程に強い動揺と、辛そうな気配が浮かび上がった。
さらなる怒りの言葉を返す事さえ出来ず、言葉を封じられてしまったかのような、戸惑いの気配。
その時……、撫子は悟った。
今、自分は間違いなく、フェインリーヴを傷つけてしまったかもしれない、と。
お、お師匠、様……?
撫子……、お前、は……。
あ、あの……。
……、……、……け。
俯いたフェインリーヴから発された声が、小さすぎて聞こえない。
つい、その言葉をきちんと聞き取りたくて近づいた撫子のすぐ目の前で、お師匠様が勢いを取り戻したように怒鳴り声を上げた。
独り立ちなど一万年早いわ!! この馬鹿弟子が!!
ぇええええええええっ!?
ついでにっ、お前みたいなひよっこは、――一生俺の弟子でいればいいんだ!!
そんな通信終了音!? と、普通に見ていた者達がいれば的確なツッコミを入れた事だろうが、生憎とそれどころではない。
お師匠様からの意味不明な怒声を受け止めきれずに思考を緊急停止させてしまった撫子は、通信が終わった事にさえ気付いていない。
ポチが大きな前足で膝を叩いた事で、ようやく現実に戻ってきたぐらいだ。
クロの傍に寄り添っていたタマも、フェインリーヴの迫力に何も言えず口をぽかんと開けたまま。
い、一生……って。お、お師匠様?
クゥゥン……。
私……、九尾の件が終わったら、帰るんですよ? ずっと、……お師匠様の傍には、いられないんです、よ?
ただの弟子としか、飼い犬程度の認識でしか見られていない。
それなのに、どうして撫子を苦しめるような事を言うのだろうか……。
ずっと、一生……、フェインリーヴの弟子でいられる人生。
それは、きっとドタバタとしてはいても、楽しくて充実した日々なのだろう。
毎朝、起きたら……、研究室に走ったら、あの人がいて、おはよう、って、そう言ってくれる日常。
けれど、それは酷く……、辛い人生でもある。
駄目なんですよ……。私は、元の世界に。
受け入れて貰えないとわかっている想いを抱えたまま、フェインリーヴの傍にいる事は残酷でしかない。
でも、弟子としてなら……。
一生を彼の傍で過ごし、看取って貰えるのだろうか?
そこまで考えて、撫子は血の気が下がった。
駄目……!!
!?
やっぱり、ちゃんと元の世界に戻らないと……。
書物で見た事がある。
この世界の人間の寿命は、確かに撫子の世界の者達よりも余裕があり、長い生を謳歌出来る。
成長もゆっくりで、ある時を境に若いまま姿が留まり、軽く、二百年ぐらいなら生きる事が出来る。
けれど、それでも……、無限に近い時を生きる魔族とはまるで違う、儚い存在だ。
そして、撫子は別の世界の人間。
どんなに頑張っても、あと、六十年ほどぐらいしか時間がない。
だから、お師匠様の許に残れたとしても、いつか必ず自分はあの人を傷付けてしまう。
たとえ、向けられている感情が恋や愛ではなくても、あの過保護で世話焼きなお師匠様は……。
絶対、見つけよう。元の世界に戻る方法を。
膝の上で握りしめている両の拳に、無意識に零れた悲しみの雫。
撫子は俯いたまま、声を殺しながら……、泣き続けた。
どんなに見ないふりをしても、結局駄目だ。
走り出した感情は何にも止める事など叶わず、確かな形となって撫子の心の奥で花開いた。
もう、どこにも逃げ場などない。
この想いをどんなに否定しようと……、心だけは、逃がしてやれない。
けれど、元の世界に戻れば、いつか平気になれるはずだ。時の流れに切ない恋心を委ね、ただの優しい想い出となる、その時まで……。
そうすれば、フェインリーヴの中で、撫子はただの思い出の中の人となる。
それが一番いい……。
撫子にとっても、フェインリーヴにとっても……。
――けれど、そんな決意など意味がないと覆い尽くすかのように、撫子のすぐ近くまで……、『影』が迫っていた。