やはり、現魔王は仕事が早い……。帰還早々に、不穏分子の駆除をここまで鮮やかに行うとはな。

先代の魔王陛下の御代によって恩恵を受けていた者の中には、いまだ現魔王陛下に反感を抱く者が絶ちませんからね……。どれだけ消し去ろうと、その意思を受け継ぐ者もまた、絶えません。

父殺しの現魔王……、その力は先代を凌いだ。弱肉強食の魔界において、あれは何ら間違いを犯していない。だが……。

この魔界を統治する者としては……。

あまりに……、不適格。

 無感情に零れ落ちた音を、冷たいクリスタルの床に膝を着いていた男が視線だけで拾い上げる。
 現・魔王……、フェインリーヴ。
 弱き者を救いたいと、力による支配を極力避けようとする先代の息子。
 生まれつき強大な力を抱いておきながら、理想論ばかりを語る、……哀れな魔王。
 彼(か)の王がこのまま魔界を統治していれば、いずれ他種族からの侵略を受け、この地は滅びる事になるだろう。
 そう、……先代魔王に忠誠を誓い続ける者達は考えている。
 それを主張するように、度々時を見計らって現魔王に反旗を翻す者が多いのも事実だが、男が仕えている主はそんな事など、どうでも良いと考えているようだ。気だるげに吐き出された主の吐息と、自分達の頭上に浮いている……、『鍵』。
 主にとって大事な事は、その『鍵』をこれから自分の望みとして、上手く利用する事だけだ。
 『餌』として放置してある者達がどうなろうと、何の支障もない。

これは、どちらの為にもなる事だ……。

御意……。

 主がそう定めたのなら、その存在に忠誠を捧げている臣下の男もまた、心に迷いはない。
 薄暗い闇の中を照らしていた仄かな光が消え去るのと同時に、二人の気配も静かに掻き消えていった……。

誰、か……。止めて……、く、れ。

 男達が去った暗闇の中、『誰か』が苦痛を伴う声音で……、絞り出すように、それだけを闇に溶かした。

タマ

ごらあああああ!! 餌はまだかあああああ!!

撫子

こらっ!! うるさくしたらご飯抜きだって、朝も言ったでしょう? めっ!!

 フェインリーヴからの連絡を受けずに逃げ出してから、一週間……。
 あれから何度もレオトから促されたが、撫子は通信先のお師匠様と話す事が出来ずにいた。
 顔を見てしまえば……、流してしまおうと、見て見ぬふりをしている感情が騒ぎそうで。
 悪いとは思いつつも、撫子の心は彼に背を向けたまま。
 椅子に座って睨んでいる先には、少し大きめのゲージがひとつ。中には、凶極の九尾に忠誠を捧げている眷属の子狐こと、タマがいる。
 フェインリーヴが不在の為、撫子が世話を行っているのだ。
 害を成さない為の術が、ゲージとタマ両方にかかっている為、子犬か何かを相手にしているような心地がするけれど、やはり油断は禁物。
 撫子は町で買ってきたペット用の餌、棒状のそれをゲージの隙間から差し入れる。

タマ

飯じゃあああああああ!!

撫子

こら、そんなにがっついて食べないの!

 毎食食べさせてやっているというのに、何故こうも落ち着きがないのか……。
 天敵の眷属だというのに、日に日に緊張も何もなくなってきている気がする。
 まぁ、これの相手をするのは、気が紛れて、撫子的には良いのだが。

タマ

異なる世界の食い物というのも良いものじゃ。次の菓子の時間には、チーズ味とやらを寄越すが良い。

撫子

毎回毎回、この上から目線!! 見かけは可愛いけど、なんか腹立つわ!! 次は、激苦わさび味にしてやるぅうううっ!!

 餌をやり終えれば、このフェインリーヴの私室に鍵をかけて出て行くか、またはタマの話し相手をするのどちらかだ。
 憎み合う者同士が他愛のないお喋りをするのもあれだが、撫子にも聞きたい事というものがある。
 だから、今日も椅子に座ったまま、囚われの妖に質問を投げかける事にした。

撫子

タマ、昨日の続き!

タマ

もう一本くれたら考えてやろう。

撫子

太るわよ!!

タマ

ふふん♪ 愚か者め。妖は太りなどせぬ!!

撫子

むぅうううっ!! 少しは太りなさいよ!! 体重を気にして生きている人に失礼だわ!!

 話をする礼にと要求されるのも、いつもの事だ。
 けれど、それを最初から素直にやってやるのは気に入らなくて、必ずこのやり取りが行われる。
 そして、最後に撫子が渋々餌を差し出すのも、毎日同じ。
 タマは嬉しそうにそれに齧り付くと、猫みたいな甘えた声を出しながら、餌の棒を口に銜えたまま、ゲージの中に転がった。

撫子

本当に……、犬か猫みたい。

タマ

美味! 美味!!

撫子

ふふ。

 敵なのに、倒さねばならない妖なのに、可愛く思えるようになったのは、餌をやって世話をし続けたからか?
 元の世界にいる時は、妖は全て敵だと教えられ、払い続けていた。
 それが、普通の事で、当たり前の事だと……、信じていたから。
 けれど、タマから聞いた昔の凶極の九尾や、初代の巫女の事を知っていく内に、自分の中で常に生じていた迷いが、確かな形となって表れるようになった。
 妖は、果たしてその全てが敵、なのか……。

撫子

人間にも善と悪があるように、妖にも、それがある……。この異世界に飛ばされてから、それを強く感じている。きっとこれは……。

 ――事実。
 命じられるままに、本家の長老達から押し付けられてきた癒義の巫女としての使命。
 迷いを捨て、情を捨て、ひたすらに妖と向き合い続けてきた中で、撫子はいつも彼らの命を奪い続けてきた。
 そうしなければ、認められなかったから……。
 役目を果たさなければ、捨てられると、知っていたから。

撫子

ねぇ、タマ。昔は、人と妖が一緒に共存していたのよね?

タマ

まぁ、な……。全てがそうではないが、我らに歩み寄り、絆を築いた者もおる。だが、それ故に……、人から敵とみなされ、最後には安息の地を失う。

撫子

でも、初代の癒義の巫女……、桃音(ももね)様は貴方達に歩み寄ったんでしょう? 人と妖の架け橋となる為に。

 桃音(ももね)……、初代の癒義の巫女。
 彼女は、生まれつき強力な霊力を抱き、妖を払う家系の跡取りとして育った。
 実戦に相応しい能力を見せつけ、数多の妖から恐れられた巫女。
 けれど、彼女が払っていたのは……、話し合いの通じない凶悪な妖のみ。
 それ以外の者には温情を与え、追い払うだけに留めていたそうだ。
 妖相手にも屈託なく笑い、手を差し伸べるような懐の深さもあったらしく、伝承に残されている彼女の姿とはあまり重ならない。

撫子

伝承を記した書物には、凶極の九尾を封じた偉大なる巫女という事と、強大な霊力で妖を払い続けた人、としか……。やっぱり、彼女の本質を伝えるものは何もなかったんだ。

 いや、遥かな時を生き続ける、彼女と交流を持っていた妖達が、生き証人なのかもしれない。
 桃音という、当時十七歳の少女と言葉を交わし、触れ合った者達。
 この偉そうなタマも、彼女に対しては一目置いているようで、桃音を軽蔑する音は出て来ない。

タマ

桃音は、我らを嫌悪する事なく、寄り添ってくれた……。我が主、凶極の九尾様の光、愛しき娘。お前達愚かな人間共は、桃音を守る為に命を投げ出した九尾様を、忌むべき存在として伝え遺した。この罪は決して償えぬもの……

撫子

……。

タマ

だが、憎むべき始まりの者達はすでに墓の下。黄泉路を下っておる。桃音もな……。

撫子

私は……。

 きっと、九尾だけを悪者にしてしまった人間達の子孫として、自分は頭を下げるべきなのだろう。
 ここに九尾や桃音はいない。けれど……。
 撫子は椅子から静かに立ち上がると、タマに向かってその頭を垂れた。
 凶極の九尾を宿敵とする一族の顔、癒義の巫女の名を頂く娘が……。
 長老や民に知られれば、きっと石を投げつけられて断罪されてしまう事だろう。
 しかし、だとしても、撫子には逃げる事は出来なかった。
 真実を知って、それに背を向ける事は、罪。
 頭を下げた撫子に、タマは少しだけ吃驚していたものの、気まずげに視線を逸らした。

タマ

やめよ……。確かに貴様はあやつらの血を受け継ぐ者だが、桃音の血に連なる者でもある。それに……、あの娘と瓜二つの顔に謝罪をされるというのは、居心地が悪い。

撫子

え……。瓜二つ?

タマ

同じ一族に生まれた者だ。似た者が現れる事に疑問はない。まぁ、桃音の方が自信に溢れ、かなり騒がしかったがな。

 そう静かに語るタマは、昔を懐かしむように目を細めた。桃音……、会う事も、言葉も交わす事も出来ぬ、遠い過去の朧。
 撫子は顔を上げ、後ろ髪を飾っている簪を引き抜いた。
 桜の花びらが集まったかのように見える、宝玉つきの簪。中央に嵌っている青く美しいそれは、九尾の命の一部。もう、なんの力もない……、かつて愛を交し合った二人の形見。

タマ

懐かしいのう。こんな可愛い簪は似合わぬ! と、桃音は最後まで我を張っていたものじゃ。

撫子

好きな人からの贈り物なのに?

タマ

うむ。なにせ、初対面の時に、主様の頬を拳で殴り飛ばすような女子(おなご)じゃったからなぁ。気質は、貴様とはまるで真逆と言っても良い。

撫子

……最初の時に話してくれた時は、九尾が初代様を華麗に救い上げたとかなんとか……、ロマンチックな事、言ってなかった?

タマ

……あ。

撫子

……。

 タマはゲージの中で丸くなると、突然ガタガタと震えだしてしまった!!
 何かに怯えている!! 撫子以外の何かに、全力で怯えまくっている!!
 一体何に対して? と、撫子が戸惑っていると、何やら小声で懺悔が紡がれ始めた。

タマ

あぁぁぁっ、つい、餌付けされ過ぎた故か、口がぽろっと……っ。桃音よ、すまぬっ。頼むから化けて出てくれるなよぉおおっ!!

撫子

初代様って一体……。

 確か伝承に綴られていたのは、おしとやかで乙女の見本のような女性だと……、どこかに小さく載っていたような。
 しかし、初対面で平手でなく拳を繰り出すような乙女とは一体。
 もしかしなくても、伝承はかなりの詐欺に塗れているのではないだろうか。
 撫子の素直な心に、確かな疑問が生まれた。
 もう少し詳しく聞こう、物凄く怯えているようだが、餌で釣れるだろう。
 そう思って餌を取り出しかけたその時、タマの身体がびくりと震えた!!

タマ

――っ!!

撫子

タ、タマ!?

タマ

クロ……!! クロ!! 何があった!?

 ゲージの中を忙しなく歩き回り、誰かに声をかけているかのように見えるタマ。
 撫子が声をかけても、子狐の妖は落ち着きなく言葉を漏らし続ける。

撫子

えっ!? ちょっ、ちょっとタマ!!

タマ

娘よ!! この檻から我を出せ!!

撫子

で、でもっ、お師匠様の術がかかってるから、それは無、

タマ

ならば、この檻ごと我を外に出せ!! クロが!! クロが我を呼んでおる!!

撫子

ちょっ、無茶でしょう!! このゲージ、かなり大きいのよ!! 私ひとりじゃとてもっ。

 大体、事情もわかっていないのに連れて行けるはずがない。
 なんとかタマを宥めようとする撫子だったが、その激しい動揺と大声はやまない。
 出せ出せ!! と繰り返すタマは、何かを焦っているように毛を逆立てながら叫ぶ。

騎士団長・レオト

撫子くーん、どうかした?

ポチ

バウッ!!

撫子

あっ!! れ、レオトさんっ、タマがっ!!

 事情を知る騎士団長レオトがナイスタイミングで現れてくれたお陰で、撫子はすぐにタマに関する突然の異変を知らせる事が出来た。
 クロ、クロと繰り返すタマ。多分それは誰かの名前。それも、タマにとって、物凄く大事な……。
 事情を把握したレオトは、撫子を後ろに下がらせてゲージに触れた。

撫子

えっ!?

 タマを閉じ込めているゲージが、一瞬にして小型サイズに変化してしまった!!
 それをレオトが腕に抱きかかえ、撫子を促す。

騎士団長・レオト

とりあえず、俺がついていればまず何も問題はないから、一緒に行こう。

撫子

ぇえええっ!? あ、え、えっと、は、はい!!

タマ

急ぐのじゃああああああああああああああ!!

ポチ

ワンッワンッ!!

 タマの怒声に何かを感じ取っているのか、ポチまでやる気満々にレオトの後を追って走り始めた。
 一体何がなんだか、と、とりあえず、ここでおいていかれたら絶対に後悔するような気がして……。

撫子

ま、待ってくださぁああああああい!!

 彼女もまた、城下へと向かって走り出してしまったのだった。

22・不穏の影と、撫子の日常

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