夕月

おい、起きろ。一星、起きないか

 ただでさえ気怠い一日の始まりを、神経質な相棒の声で迎える。それだけで開店休業してしまいたい気分になるよな――と、ベッドの中で目を閉じたまま息を吐く。
 俺は朝が苦手である。規則正しい生活というやつは十代の頃に散々してしまったので、残りの人生は不規則に怠けて生きていたい。
 一方の夕月さんは、祖母と呼んでも差し支えない年齢の老婦人と生活していた頃の習慣から長く眠っていられないらしい。どんなに遅く就寝しても四時とか五時にはもう起き出して身支度をしている、老人のような人なのだ。

一星

あと五分~

 駄々をこねて、カブトムシの幼虫のように丸くなる。が――相棒は情け容赦なく掛け布団を剥ぎ取って、おまけにその嫌みったらしいほど長い足で俺の背中を蹴飛ばした。固いベッドの上から、もっと固い床の上に落ちる。瞼の裏で火花が散った。

一星

いってえ! 
なにしやがるんですか、夕月さん!

 こんなときでも相棒への敬語を忘れない俺は、我ながら礼儀正しい男だと思う。
 もうシャツを着替え、髪まで綺麗にセットした夕月さんは、床で転がる俺を見下ろすと顔を斜めに上げてみせた。ふん、と鼻を鳴らす。早く起きない君が悪いと言わんばかりだ。
 腹が立つので床で二度寝を決め込んでやろうかとも思ったが、いかんせん力関係は夕月さんが上。その上、性格の悪さでも俺が不利ときている。反抗なぞしようものならどんな追撃をされるか分かったものではないので、俺は渋々起き出した。
 幸い――と言っていいのかどうなのか、床に落とされた衝撃で目は覚めている。

一星

今、何時です?

 窓には遮光カーテンがかかっているため、外の様子は分からない。
 腕時計に視線を落として、夕月さんが答えた。

夕月

七時だ

一星

そりゃ早い。眠いはずだ……

夕月

なにを言う。遅いくらいだ

 そりゃ四時、五時に起きるあんたにしてみりゃ遅いでしょうよ。
 俺は溜息を吐き、携帯を探す。あった。テーブルの上だ。俺が寝ている間も、夕月さんはメイの様子を見ていたんだろう。充電器を差した携帯は、メイの部屋を映していた。
 ヘッドフォン、警察に渡さなかったのか。
 とことん警察に対して非協力的なやつである。あの女子高生がなにを考えているのか、俺にはいまいち分からない。
 眺めていると、制服に着替えたメイの姿が見えた。

夕月

君ももう少し早く起きていれば、彼女の着替えが見られたのにな

一星

見たんですか、夕月さん?

夕月

まさか。わたしは紳士だぞ、一星

 少し煽られた程度でこっちがドン引きするほど女を罵るような人が、紳士だなんてよく言うぜ。自称紳士の戯言は聞かなかったふりをして、俺は無言で携帯を眺める。と――メイがヘッドフォンに手を伸ばした。
 カメラに気付かれたか?
 と思いきや、そうではなかったらしい。少女の姿が消え、視点が変わる。昨日と同じ、メイの肩越しだ。

夕月

彼女、君の趣味を気に入ったらしい

一星

嬉しい誤算、でいいんですかねェ

夕月

浮かない顔だな?

一星

ってほどでもねえんですけど

 だって、なあ?
 ただでさえ、少女の家庭環境にちょっとばかり親近感を覚えてしまっている俺なのだ。情が移ってしまうような情報は、あまり知りたくない。
 複雑な顔で黙り込む俺の気持ちなど知りもせず、メイは音楽プレイヤーの電源を入れた。曲は、カサノヴァの『ルナティック・コード』――少女から零れる滑らかな鼻歌を聴きながら、俺はますます顔をしかめてしまう。
 メイは周囲の音が遮られない程度に音量を絞ると、鞄を掴んだ。昨日、誘拐現場に置き去りにしたのとは違う鞄だ。そちらはまだ見つかっていないか、回収した警察が捜査のために預かっているのだろう。部屋を出て、階段を降りる。
 カメラ越しに見る藤崎家は、小綺麗だがどこか生活感のない印象だ。まるで定期的にハウスクリーニングでも入れていそうな、そんな潔癖さに他人事ながら居心地が悪くなる。

 階段を降りたメイは、玄関から近い部屋のドアを開けた。ダイニングルームだ。白い色のキッチンは、人工大理石か。まさか天然石ってこともないだろう。
 やっぱり使用感はなく、モデルルームを見ているようだった。コンロには鍋の一つも出ていない。壮年の男がテーブルに着いて、トーストとコーヒーだけの軽い朝食をとっていた。

父さん

 メイが声をかける。
 ってことは、こいつが藤崎礼一郎か。昨日予想したとおり、夕月さんと同種の神経質さをまとっている。娘の声に、新聞を眺めたまま顔を上げようともしない。これは、ちょっとイラッとくる光景だ。

礼一郎

なんだ、冥

補講、行ってくる。
父さんは? 今日は休みでしょ?

礼一郎

休出になった

早く帰ってくるの?

礼一郎

いいや

そう。昨日は――

 メイはなにか言いかけたようだ。あるいは、音量を絞った曲にさえ掻き消されてしまうほどの小声でなにかを呟いたかもしれないが。沈黙にルナティック・コードのアップテンポなメロディが流れていく。

 ――欠けた月の下、独り。白けた夜を抱きしめ歌う。道の影ではくたびれた三毛猫が一匹、眠るように死んでいた。誰もかのじょに気付かない。ああ、僕も同じ。渇いた日々、心はすでに死んでいる。誰も気付いてはくれないのさ。よく似た君、せめて僕が埋めてあげよう。

 カメラが揺れる。メイがかぶりを振ったようだ。

……行ってきます

礼一郎

ああ

 父娘の会話はそれで終わり。
 結局、礼一郎は一度も新聞から顔を上げなかった。メイは飯もまだだろうに、入り口で立ち尽くしたまま中には入ろうとしなかった。そのまま踵を返そうとして、半歩。廊下へ踏み出し、メイは思い出したように肩越しにダイニングルームを振り返った。

ねえ、父さん

 返事もしない父親に、少女が声をかける。

身代金の受け渡しのとき、どうして警察に通報したの? わたし、殺されちゃうかもしれなかったのに。しかも待ち合わせには警察しかいなかったって、誘拐犯の人が言ってた

 問いに――礼一郎が、初めて顔を上げた。娘を見つめる瞳は、酷く冷ややかで、不機嫌そうに見えた。引き結んでいた唇が、わずかに開く。

礼一郎

……死んでいてくれた方がよかった、と言えば黙って学校へ行くのか? お前は

…………

 息を呑む気配が伝わってくる。けれどメイはなにも言わず、ダイニングルームを飛び出した。乱暴にドアを閉め、大きく息を吐く。そのまましばらく、映像は小刻みに揺れていた。多分、メイが震えているんだろう。並の女子高生なら――というか女子高生でなくても並の子供なら、そこで泣いてしまいそうなところだ。
 だが、メイはすぐに歩き出した。玄関で革靴を履き、意外としっかりした足取りで外へ出る。

だから、言ったでしょ

呟く声が、今度は聞こえた。

期待、するだけ無駄だって分かってるくせに。ばっかみたい

 まるで囁きかけるように言うからいちいちぎょっとしてしまうのだが、それはやっぱり独り言だった。くそ生意気なガキの虚勢だ。

夕月

それにしても、死んでいてくれた方がよかった――とはね。思っていても普通は言わないものだと思うが。あの子にして、あの親ありといったところか

一星

逆でしょうよ、それ

夕月

まあ、彼女が我々に取り引きを持ちかけたがった理由は分かったな

一星

ぶっちゃけ、昨日はとんでもないガキだと思いましたけど……

 あの親父が本気でメイの死を願っていたのだとしたら、愛人関係の暴露くらい可愛いものだ。携帯の液晶画面から一度視線を外して、俺は夕月さんを見上げた。

一星

夕月さーん

夕月

だからと言って、我々が冥のことを気遣ってやる義理はない。彼女が口を割らなかったのは、単純に両親や周囲の大人に対する反抗心からのようだし、これ以上監視をする必要もないかもしれないな

 相棒は通常営業。至極冷静だった。そりゃ俺たちに関係ないのは確かだし、同情で関わってもいいことなんか一つもないのも事実だ。どんなにしょぼれていても俺たちは悪党で、正義のヒーローなんかじゃァない。
 そもそも俺たち自身が他人の悪意や世の理不尽によって辛酸を舐めさせられたからこそ、こうして一般社会からほんの少し外れたところで生きているのである。他人を脅したり騙したりしながら寄生して、日々の糧を得ているのが現状だ。とてもではないがガキの面倒まで見る余裕はない。自然界と形は違えど、その世知辛さが人類にとっての弱肉強食というやつなのだろう。
 なんて物分かりのいいことを考えてしまったが、割り切れないのが馬鹿な人間。つまり俺なのだ。

一星

夕月さん、もうちょっと。もうちょっとだけお願いしますよォ。ほら、あいつのことだからもっと小賢しいことを考えてるかもしれねえですし。念には念を入れてってやつでェ

夕月

こで縁を切ってしまわないと、もっと面倒なことになる

 夕月さんの言うことはいちいちごもっともだ。

一星

……分かりましたよォ

 俺は降参して、テーブルの上から携帯を取り上げた。

一星

で、今日の予定は?

夕月

わたしは依頼主と決着を付ける。話合いに同席させるためにも、まずはこんな依頼を仲介してきた幸村のやつを掴まえるか……

一星

じゃあ、俺は辻谷さんにここの支払いをしてきます。ついでにご機嫌伺いでもしときゃ、またなんかあったときに手ェ貸してもらえるでしょうし

 夕月さんが頷く。
 こうして俺たちの一日が始まった。

 夕月さんが出かけていくのを見送って、このボロアパートの名義人に会いにいく。
 都会の真ん中にある、ちょいと広めの公園だ。大きな花時計が特徴的で以前は子連れの利用者が多かったようだが、少し前に猟奇事件が起きたってことで以来閑散として、今はホームレスの溜まり場のようになっている。
 俺はあたりを見回した。敷地の中央にある花時計からやや離れ、通りからは死角になる日影。鬱蒼とした茂み近くの青いベンチに、くたびれた恰好の男が寝転がっている。風呂には何日入っていないのか、少し近寄っただけで悪臭が鼻腔を突く。それでも俺は、極力笑顔で彼に話しかけた。

一星

どーも、辻谷さん。“コール”です

 男が薄目を開け、ちらりと視線を上げる。色褪せた茶髪に、伸ばしっぱなしの髭。目はいつでもやぶにらみで、お世辞にもいい男とは言いがたい。それでも女にはモテるらしく、支援者に事欠かないという話だ。見た目どおりのホームレスというわけでも、もちろんない。商売上の都合、というやつだ
 ホームレスたちだけには留まらず、学校に居場所をなくした子供、そのままドロップアウトした不良ども、そして俺らのようなしょぼくれた悪党と――社会から爪弾きにされた人間は、結局のところみな一所に集まる。情報を収集するにも、売りつける相手を探すにも、安く使い捨てられる人材を確保するにも、社会の掃き溜めは絶好の場所だ。
 蛇の道は蛇。この人は、まさしく蛇のように狭い隙間から獲物を狙っている。

辻谷

よお、“コール”。昨日は大変だったみたいじゃないか

一星

もう辻谷さんの耳に入ってんですか

辻谷

まあな

 辻谷さんは含み笑いで頷いて、詳しいことは話さない。カマ掛けだとか牽制の意味合いも強いんだろうが、どこまで知られているのか分からないので不気味だ。
 俺の方は、サスガデスネーと愛想笑いで誤魔化して封筒を差し出す。

一星

部屋代です

 中身は三万。一泊飯なしボロアパートの宿泊代金としては少々高いが、隠れ家の維持費と思えばこんなもんだ。ホームレスに擬態した男は唇をにやりと歪めて、受け取った。

辻谷

ご利用ありがとうございました

一星

こちらこそ世話になりました。あ、朝飯まだでしたらどうぞ

 つつつっと近くのチェーン店で買ってきたホットサンドとコーヒーを、ついでにベンチの上へ乗せておく。見え透いた機嫌取りだ。だが、この人はご機嫌伺いをされて機嫌を損ねるようなしょぼい人ではないのである。

辻谷

おー、すまねえな。でもよ、お前も俺みたいなのにまでへこへこしないで、もう少し厚かましくなれよ。そんなんだから“ゲオルグ”の尻に敷かれんだぜ?

 こちらの小者ぶりをたしなめつつ、

辻谷

ま、俺はお前のことが嫌いじゃねえけどな。近頃、可愛げがないやつらばっかりでうんざりしていたところだ。今回の件で困ったことがあったら、力になってやるから言えよ

 上機嫌に笑ってみせる。まあそれも一種の社交辞令ではあるが、そんなやり取りでもないよりはよっぽどいい。
 気取った夕月さんはこの手の体育会系コミュニケーションを嫌がるし、俺は俺で逆に仲介屋のようなビジネスライクな相手との相性は悪いので常にこういった役割分担になる。

 俺は辻谷さんに再三礼を言うと、公園を後にした。
 お次は――

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