◇五章 宮殿に巣食う化け物(2)
◇五章 宮殿に巣食う化け物(2)
バルバラのサロンは彼女のお気に入りの離宮で開かれた。
招待客はもちろんバルバラを支持する“皇后派”と呼ばれる者たちばかりだ。
皇后派の人間はロマアール王国の者も多く、この夜の招待客もアレクサンドラ始めロマアールの大臣夫人が何人も出席している。
政治的な派閥や宮廷での女権の争いなど何も知らないリーゼロッテでも、彼女のサロンに足を踏み入れた途端、好意的な歓迎を受けていないことを感じた。
バルバラさま、本日もお美しくあられまして
リーゼロッテをエスコートしてきたディーダーはにこやかにバルバラに挨拶をするが、彼女は長椅子に座ったままきつく睨みつける。
ディーダー、わたくしはあなたを招待した覚えはありませんわよ
ええ、存じております。本日は我が婚約者リーゼロッテのエスコート役として付き添ってまいりました
ならばもう用済みでしょう。わたくしはリーゼロッテとお話がしたくて招待したのです、あなたはお帰りなさい
主催者に帰れと言われてしまい、ディーダーは苦笑しながら一礼し部屋を出る。
残されたリーゼロッテはまるで敵地に放り出されたような気持ちでドレスの裾を握りしめながらも、バルバラに向かって挨拶をした。
本日はお招きありがとうございます。お初お目にかかります、リーゼロッテ・クライスラーと申します
ディーダーから離れひとりで人前に出されるのは初めてだ。失敗しないようにしなければと緊張感を抱いて面を上げる。
……なんだ、あの少女は。白磁の肌に琥珀の目、まるで精巧な人形じゃないか
プラチナ色の髪なんて初めて見たわ。髪飾りの方が髪の美しさに負けてしまいそう
なんて綺麗なのかしら。飾っておいて眺めたいくらいだわ
噂の美少女を目にし、客たちからはヒソヒソと驚きや感嘆の声があがる。
それを耳に捉えて、バルバラは僅かに眉をしかめた。
女主人の不機嫌に気付いた周囲の者は慌てて咳払いをし、気まずそうにリーゼロッテから目を逸らす。
そのとき、応接間の扉が開き新しい客が入ってきて俄かにざわついた。
アレクサンドラさまのご到着です
女官の言葉に、リーゼロッテはハッと入口を振り返る。
そこには舞踏会の夜に見たあの黒髪の姫君が、今日は深い紫のドレスを纏って立っていた。
他人を威嚇するような居丈高な表情で、彼女は連れの夫人たちを引き連れツカツカとバルバラに向かって歩いてくる。
そしてバルバラの前に立つリーゼロッテに目を留めると、一瞬その美貌に驚き、すぐさま燃えるような嫌悪の表情を浮かべた。
けれどアレクサンドラはすぐに澄ました笑みを湛えるとバルバラの前まで行き一礼をする。
バルバラさま、ごきげんよう。今日は新しいお客様がいらっしゃるのですね
横目で見られ、リーゼロッテはビクリと緊張感を走らせた。
紹介するわ。クライスラー男爵の息女、リーゼロッテよ
お、お初お目にかかります。リーゼロッテです
バルバラに紹介されて、リーゼロッテはアレクサンドラに向かって頭を下げた。
けれどアレクサンドラは扇で口元を隠しながら彼女を忌々しげに見つめるばかりで、挨拶を返してはくれない。
そしてリーゼロッテを頭のてっぺんから足の先まで見やると、あからさまに蔑んだ笑いを浮かべた。
バルバラさま。吸血鬼の伝説をご存知?
吸血鬼?
ええ。夜にしか生きられない化け物だから、肌が青白く薄気味の悪い色の目をしているんですって
唐突に始めた怪奇話が、誰を嘲笑しているかは応接間にいる誰もがすぐに分かった。
他に類を見ないほど白い肌と珍しい色の瞳を持つリーゼロッテを、アレクサンドラは“化け物”と揶揄したのだ。
それを聞いたバルバラが
まあ、気味が悪い
とクスクス笑えば、彼女の取り巻きたちも同じように笑い出す。
忌み子として育てられたリーゼロッテは“化け物”と揶揄されたことに、密かに酷く傷ついた。
そして蔑む眼差しの嘲笑に囲まれ、恐怖といたたまれなさを感じる。
ディーダーが『戦え』と言った意味が分かったような気がした。招待を受けたというのに、この場所はリーゼロッテを歓迎していない。
きっと……バルバラさまもアレクサンドラさまも、私がお嫌いなんだわ
なぜ嫌われるのか、なぜ嫌いなのにサロンに招待をしたのか、そこにある複雑な事情まではリーゼロッテには分からない。
ただひとつ分かるのは、ここで嘲笑されることに耐えるのが自分の戦いで、ディーダーの言葉を信じるのならばそれがフォルカーを守ることに繋がるということだけだ。
リーゼロッテは唇を噛みしめると、泣きたくなった気持ちを無理矢理押し込めて顔を上げた。
気丈な表情を浮かべたリーゼロッテに、アレクサンドラはまたも嫌悪感をあからさまに滲ませる。
ねえ、バルバラさま。もしも宮殿に化け物が出たら恐ろしいでしょうね。きっと数多の不幸を呼び込むわ
そうね。我が栄光のコルネリウス家に万が一にでも化け物が近付くことがあったなら大変だわ。考えただけでも忌まわしい。絶対に退治しなくては
捕まえて火炙りにすべきですわ。モンテグリー帝国は太陽の紋章を司る国ですもの。夜が相応しい化け物は十字に掛けられ太陽に焼かれてしまえばいいのよ
自分のすぐ側でそんな恐ろしい話までされて、リーゼロッテの足が竦む。
化け物の話に例えてはいるが、まるでコルネリウス家に……フォルカーに近付いたら火炙りにしてやると脅されているようだ。
残虐な会話をするバルバラとアレクサンドラに、周囲も内心はどうであれ調子を合わせる。
そうですわ。不気味な化け物など殺してしまえばいいのよ
化け物の分際でコルネリウス家に近付くなんて身の程を弁えないのがいけないんだわ
バルバラのサロンでリーゼロッテに優しい声を掛けてくれる者などいない。
その後、サロンでは楽団が音楽を奏で客人は珍しい異国のお茶と菓子でもてなされお喋りを楽しんだが、当然リーゼロッテはくつろげるはずもなく針の筵のような場所でひたすらに時間が過ぎるのを待った。
月も高く昇った頃、ようやくサロンの夜会は終わりリーゼロッテは地獄のような場所から抜け出すことが出来た。
見送りもつけられずに離宮の門を出たリーゼロッテを待っていてくれたのは、ディーダーだった。
彼の姿を見つけたリーゼロッテは一目散に駆け寄って抱きつき、ずっと我慢していた涙を零す。
……つらい思いをさせましたね。よく頑張りました、リーゼロッテ
中で何が起きていたか、ディーダーは分かっているのだろう。
肩を震わせ泣き続ける少女の頭を、優しく何度も撫でてやる。
そうしてリーゼロッテが落ち着いた頃、ゆっくりと月の下の道を宮廷に向かって歩きだした。
どうしてディーダーさまは私をあんな場所へ連れて行ったのかしら……
すっかり赤くなってしまった目を擦りながら、リーゼロッテは華奢な肩を落として歩く。すると。
リーゼロッテ。バルバラさまとアレクサンドラさまをどう思いましたか?
ディーダーは突然そんなことを彼女に尋ねてきた。
少し戸惑ったものの、リーゼロッテは素直な感想をおずおずと述べる。
……とても怖い方たちです。地下に居た頃、鞭で叩くお父さまのことが1番怖かったけれど、バルバラさまとアレクサンドラさまはもっともっと怖いです
では、そんな怖い方が義母で婚約者であるフォルカーさまを、どう思います?
続けて聞かれた質問に、リーゼロッテはハッと顔を上げた。
……心配です。だって、おふたりは私のことが嫌いで火炙りにすればいいと仰ってたんだもの。もしもバルバラさまかアレクサンドラさまがフォルカーさまのことを嫌いになったら……酷いことをされるかも知れない
残虐性を秘めた彼女たちがフォルカーのとても近い立場にいる。その恐ろしさに気付いたリーゼロッテは、ゾッとして背筋を震わせた。
リーゼロッテの答えを聞いたディーダーは彼女に向かって深く頷いて見せる。
そうですね。僕もそれが心配です。しかもね、残念なことにバルバラさまもアレクサンドラさまもフォルカーさまとあまり仲良しではないのですよ
……そんな……
月影を落とすディーダーの横顔は、今までで1番真剣で愁いを帯びてるように、リーゼロッテの瞳には映った。
彼が具体的に何を企んでいるのかは分からない。けれど、主であるフォルカーの危険を心から憂慮し、それに立ち向かおうとしていることはハッキリと分かる。
そしてその戦いに、自分も尽力すべきだということも――。
ディーダーさま。私も……フォルカーさまを守りたいです。どんな酷いことを言われても、もう泣いたりしません。だから私にも出来ることをさせてください
ありがとう、リーゼロッテ
残酷なことを言われたくさん傷付いたけれど、リーゼロッテはそれでもまた立ち向かおうと思った。
空に浮かぶ月は今年8回目の満ち欠けをしようとしていた。フォルカーとアレクサンドラの結婚式の日は着々と近付いている。
帝国にうずまく計策はそれぞれの思惑を乗せて大きく動き出そうとしている。
【つづく】