夕暮れは くものはたてに 物ぞ思ふ
あまつそらなる 人を恋ふとて(詠み人知らず)
…夕暮れには物思いをする。
遠い遠いあの人を想って。
夕暮れは くものはたてに 物ぞ思ふ
あまつそらなる 人を恋ふとて(詠み人知らず)
…夕暮れには物思いをする。
遠い遠いあの人を想って。
ごめんね、優華(ゆか)
外はもう真っ暗な夜。
淡い月明かりに照らされ、きらきら光る優華の涙を僕はそっと拭った。
優華はぼんやりとした目で、僕のことを見ていた。
その静かな目に、僕の心は痛んだ。
僕は、怒りにまかせてこのいたいけな少女の体を奪ったんだ…
こんなことをするつもりなんてなかったんだ。
…愛着が残っても困るから。
ずっと、そう自分に言い聞かせて耐えてきた。
優華は、こんな僕に嫁がされても、それでもこうして一生懸命尽くしてくれている。
僕がいなくなった後まで、優華の自由を奪っちゃいけないと思ったんだ。
僕には、今まで未練なんてなかったはずなんだ。
いつ、死んでもいいとさえ思っていた。
死にたくないなんて、生きたいなんて――…、優華に出会って、はじめて思ったんだよ
僕は、優華の体をきつく抱きしめた。
直接伝わる肌のあたたかさ。
その小さな体を抱きしめるだけで、愛しさが込み上げた。
もう、二度と離れたくない。
…好きなんだ、愛してるんだ、優華っ…
僕はそのまま、震える声で愛を囁く。
すると、彼女の手がそっと動き、僕の背に回された。
それから、一度体を離すと、優華が両手で僕の頬を包んだ。
濡れた目で僕のことを見つめている。
…あたしも。
あいしていますわ、戴輝(たいき)さま…
彼女のせいいっぱいの告白に、僕は泣きそうになった。
衝動を抑えきれず、力いっぱいにその体を掻き抱く。
あんなに泣いてたのに、無理矢理抱いても、彼女が僕を責めることはなかった。
どうせなら、ひどく罵ってくれればいいのに。
そしてそのまま、いっそのこと僕を嫌いになればいい。
君がそのきれいな顔を怒りに歪ませ、ただひとこと嫌いと言ってくれれば、僕はきっと君を諦めることが出来る。
君を手放すことが出来るはずなんだ。
でも、君はどこまでもやさしいんだね。
抱きしめた躰は、このまま折れてしまいそうなほど小さく、頼りない。
守ってやりたいと、彼女はこの手で守るべき存在なのだと、そう思った。
ずっとそばにいたいと、そう願っても。
僕にはできない。
そんな中途半端な僕が、彼女とこうなってもよかったのだろうかと今更考えてしまう。
彼女との永遠の別れがそう遠くはないことを知っていながら、僕はまたこうして彼女との関係を深めてしまった。
こうなれば、その別れの時彼女が味わう悲しみを深くするだけだと、そうわかっていながら、僕は彼女を抱いた。
なんて、愚かで浅はかな男だ。
それでも僕は、本当はもうずっと前から、彼女に触れてみたかったんだ。
僕の口から無意識にこぼれ出たのは、最も単純な贖罪の言葉だった。
…ごめんね…
朝目が覚めたのは、胸が激しい痛みに襲われたからだった。
激しく咳き込んだのち、自分の唇がなにかで汚れていることに気がついた。
慌てて袖口で拭って、そこについた鮮烈な色に眩暈がした。
…血だ。
喉でも切れたか。
それとも、もっと奥の…
自分で考えた可能性に、びくりと身震いした。
…死にたくない。
もっと、優華のそばにいたい。
僕には、まだ未練が――
僕は静かに布団から出て立ち上がった。
優華が目を覚ますよりも先に、この汚れを落とさなくてはならない。
こんなみっともない姿を見せるなんて、できないから。
開いた窓から、花びらが舞いこんでくる。
まだ外が薄暗い、夜明け前。
あの方が部屋を出て行かれてすぐ、あたしは目を開けた。
手を伸ばす。
かすかな光に照らされた両手首には、痛々しい赤い指の痕が残っている。
…戴輝さまがつけた、あと。
あんなに優しい方が、あれほどまでに変わるなんて。
冷静さを失くした、彼の声、言葉、動き。
変えたのは、あたし。
後ろ暗い歓びが胸を満たす。
やっと、あの方を手に入れた。
あの頃は、恋なんて知らなかった。
自分がこんな気持ちを抱くことになるなんて。
――そう。
好きにならない方が、どんなに楽だったか。
先程のあの方の様子が気になる。
…すごく、つらそうだったわ。
あの方は、隠し通しているつもりなのだろうか。
あたしは知っていた。
あの方が急な眩暈や、胸の痛み、咳に悩まされていること。
時には、吐血までしている様子。
確実に、不治の病があの方を蝕んでいた。
それを知ってて、あたしは、あの方を試すような言葉を放った。
…あたしは、悪い人間だわ。
でも。
神様…
お願いです。
あたしはどうなってもいい、だから。
あたしからあの方を取らないで…