――とはいえ、やるべきことは決まった。計画は続行。変更もなし。となれば次は、身代金の要求だ。相手はもちろん親権を持っている父親。指定は六百万。相手の収入を考えると、それくらいが一括で出せる妥当なところだろう。欲をかけば失敗する。適当なところで折り合いを付けられるのが、できる悪党の条件ってやつだ。
 俺は夕月さんから携帯を受け取り、あらかじめ登録していた番号に掛ける。
 ちらりと視線を落とすと、腕時計は十八時を表示していた――相手はまだ、会社にいる時間か。メイの父親、藤崎礼一郎はとかく仕事熱心な男のようである。離婚原因も、そのあたりにあるという話だ。
 しばらく待つ。やがて、相手の声が聞こえてきた。

礼一郎

もしもし……?

 見知らぬ番号からの着信を訝る声だった。
 どことなく冷えた声音に夕月さんと同じインテリタイプを想像し、口を開く――

一星

もしも~し、藤崎さんですかァ?

 大事なのは、相手に話の通じない相手だと思わせることである。お高くとまった相棒は脅迫電話に向かないので、ようやく俺の出番だ。俺が馬鹿でラリっている、という意味ではない。こう見えて器用な男なのだ、俺は。

 なんたって自称、平成のヴェア・コールだ。かの先達はケンブリッジ大学に在籍していた頃、学友たちとエチオピア皇帝一行に扮してイギリス海軍を騙したことがある。エジプト半島南端の遥か遠い国、エチオピア。イギリス海軍にはエチオピア語はおろか、文化宗教に通じている者さえいなかった。
 コールはまず友人に頼み、外務省高官ハーディングの名で艦隊司令部宛てに電報を打たせたのだ。本日、エチオピア皇帝ならびに皇太子一行到着。ロンドン発ポーランド着特別列車にて艦隊見学予定。歓迎応対は国賓待遇にて行うべし――特別列車到着までの時間は、三時間半。その報せだけでもう、提督は大慌てだっただろう。
 悪戯好きな学生たちがなりすましたのは皇帝、皇女、側近二人、通訳、そしてイギリス外務省派遣員。彼らが身につけていた衣装はすべて特注。ヘアメイクは劇場美容師に依頼したというのだから、手も込んでいるし金も掛かっている。彼らの悪戯は大成功。海軍に一晩歓待させ、しまいには式典の写真を新聞社にまで送りつけ笑いものにしたのだ。
 馬鹿な悪戯。意味のない悪ふざけと言ってしまえばそれまでだが、ここまで規模のでかいごっこ遊びができる馬鹿ってのもそういない。馬鹿と天才は紙一重。そう、ヴェア・コールは天才なのだ。悪戯の天才。この贋エチオピア皇帝事件を思い返すたび、感動とともに言いようのない悔しさが胸に込み上げてくる――コールは多くの悪ふざけで世間を引っかき回したろくでなしだが、愛すべき悪党であることも間違いない。だからこそ、ちんけな小悪党である俺はコールに羨望と嫉妬を抱かずにはいられないのだった。

 かの悪戯の天才たちがエチオピア皇帝一行に扮してイギリス海軍を騙したように、俺もなんにだってなれる――と、思う。多分。それくらいの意気込みがあるってことなので、将来性をかってほしい。
 まあ、なんにだってというのは言い過ぎにせよ、ボイスチェンジャーで声を変えてイカれた誘拐犯のふりをするくらいわけはない。

一星

慌てず騒がず聞いてもらえませんかね。実はァ、おたくの可愛い可愛いメイちゃんを預かってんですけどォ。早い話が誘拐ってやつで。お金払ってくれないと、無事で返せないかも? なんちって

 我ながらむかつく喋り方である。隣をちらっと見やると、夕月さんも苛々しているらしい様子が窺えた。腕を組んで、指の先で神経質そうに二の腕のあたりを叩いている。とことん心の狭い人だよなァ。
 内心溜息を零す俺の耳に、相手の声が聞こえてくる――少し待ってください。近くに部下がいるので、と。悪戯とは疑われなかったようだが、妙に冷静なおっさんだ。なんとなく信用ならないな、と俺は思った。
 耳を澄ますと、スピーカーから微かに周囲のざわめきが聞こえる。お疲れさまでした。お先に失礼します――云々。そうした声が遠ざかり、再び藤崎礼一郎の声が聞こえてきた。

礼一郎

すみません、お待たせしました。で、娘は? 無事なんでしょうか?

 無事も無事。くそ生意気なメイちゃんは倉庫でぐっすり眠っているわけだが、本当のことを言うわけにもいかないので薄ら笑いで誤魔化す俺である。

一星

へへへ、どうでしょうねェ? オトーサンの返事次第では酷い目に遭っちゃうかも? 撫でくり回したくなっちゃうような、いい足してるし。メイちゃん

 短いスカートの裾から覗いていた太ももを思い出しながら、つい本音も零れる。

礼一郎

娘には手を出さないでください

 礼一郎が慌てたような、それでいて押し殺したような声で捲し立ててきた。まあ、そういう反応をするのが普通だ。俺は内心、ほっとする。あの子にして父ありという答えが返ってきたらどうしようかと、密かに懸念もしていたのだ。

一星

はいはーい♪ じゃあ身代金六百万でよろしくゥ。受け渡しは――

 気分よく架空口座の番号を告げようとした俺の手から、夕月さんが携帯を奪った。勝手に通話を保留にして、なにやら思案しているらしい。その顔は、酷く気難しげだ。

夕月

君も行け、一星

 夕月さんの言葉に、俺は首を傾げた。

一星

いつもどおり架空口座に振り込ませて、出し子を使えばいいじゃないですか

 出し子――つまりは預金口座から金を引き出す役割のことである。見ず知らずの適当なガキを雇ってしまえば、仮に身代金の引き出しに失敗したところで足が着くこともない。
 だが、夕月さんはかぶりを振った。

夕月

いや、相手の様子を見ておきたい

一星

だったら受け子を使うとか

 こちらは、代わりに現金の引き渡しをする役割のことを言う。リスクが大きいため出し子より多少値は張るが、安全には代えられない――誘拐犯が身代金の受け渡し現場に赴くなんて、時代遅れもいいところだ。だが、美貌の相棒はかぶりを振るばかりである。

夕月

使い捨ての彼らに観察眼があるとでも?

 顔を斜めに上げて、ふんと鼻を鳴らす。美形だからとりあえず絵にはなるが、感じは悪いよなあと思う俺である。

夕月

指定は若者の多い場所で。服装は黒のシャツに、ジーンズ。赤いスニーカー、と相手に伝えてくれ。時間はきっかり一時間後。遅れても、警察に通報しても、娘の命はないと

一星

はいはい

 こうなった相棒は強情だ。
 保留を切って――溜息を呑み込み――相手にその旨を伝える。

一星

受け渡しにはオトーサン一人でお願いしますねェ。警察に通報したら……

 薄ら笑いをやめて、俺は低く唸った。

一星

可愛い可愛いメイちゃんが、どうなっても知りませんよォっと

 ほんのりと相手の不安を煽って、一方的に通話を切る。それで終わり。夕月さんに携帯を返して、ふーっと息を吐く。
 うまくいきゃいいんだが、どうなんだろうな。
 不安が胸を掠めるのは、夕月さんが妙になにかを懸念しているように見えるからかもしれない。隣に,ちらりと視線を向ける。目が合うと、相棒はその美貌を曇らせたまま淡々と告げてきた。

夕月

適当な子供を使って、指定の服装で声をかけさせる。君は近くから違う服装で様子を窺い、相手に変な様子がなければ正体を明かして金を受け取れ

一星

はいはい。まったく、心配性な上に人使いの荒い相棒サマだこと

 軽く手を振って、準備に取りかかる。
 後部座席から取り出してきたのは、俺の仕事道具。必須のメイクセットだ。俺はヴェア・コールのような金持ちではない。コネもない。莫大な金をかけて変装するなんて芸当はどだい無理な話である――となれば、自分の腕を頼りにするしかない。

夕月

……一時間しかないのだから、仕度に時間をかけるなよ

 無粋な相棒は呆れ顔だ。変身願望、変装の浪漫ってやつをなにも分かっちゃいない。

一星

身支度を急かす男は嫌われますよォ、夕月さん

 俺はヘアバンドで前髪を上げながら、デート前の女のような心地で答えた。

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