少女の名を、藤崎冥という。
 明城大学付属高校に通う二年生。家族構成は父と母。兄弟はおらず、両親もこの春に離婚している。親権は大企業勤めの父親が取った。女性向け商品の開発が主な業務なので、会社への体裁を気にしたという話だ。
 母親は専業主婦だったため、娘を引き取る経済力がなかったのだと――と、聞いてはいたが。

だって、どっちもわたしのこと嫌いだもん。娘がいなければ人生もっと早くやり直せたって考えてるような人たちだよ。ほんと。母さんはお金ないし、父さんもあなたたちがわたしのことを殺してくれればいいって思ってる。きっとね

 掠れた声で少女がまくし立てる。
 なんつうか、あれだ。最近の女子高生は被害妄想が激しいというか、順応力が高けりゃいいってもんじゃねえぞっていうか。普通、小動物のように震えて怖がるもんなんじゃねえのかと――こいつの態度に腹を立てるでもなく、そんなことを思ってしまうあたり、俺はどこまでも小悪党なんだろう。
 隣を眺めると、さすがの夕月さんも呆れ顔だ。

夕月

親の心、子知らずってやつだね

 呟く相棒に、けれど少女――少女、少女と繰り返すのも面倒だからメイと呼ぼう――メイは、アイマスクで覆われた顔を正しく夕月さんに向け、生意気にも失笑なんぞしてみせた。

お兄さん、だよね? 犯罪者なのに、家族の絆とか無償の愛とか信じてるの?

 メイの問いに、夕月さんは答えない。俺も口を挟んだりはしない。メイの言うとおり俺たちは、少なくとも俺は、家族の絆や無償の愛を信じてはいないからだ。
 メイが小さくかぶりを振る。

そうだったら申し訳ないんだけど、うちは違うから。誘拐するなら、もっと円満そうな家庭の子を狙った方がいいと思う

夕月

我々としても、理由なく君を誘拐したわけではないのだけれどな

 途方に暮れた声で、夕月さんが呟いた。
 まあ、そういう反応になるわな。俺もなんつうか、かける言葉が見つからない。
 とんでもなく苛つく女子高生だなと思いつつ、メイをまじまじと眺める。といっても顔の半分をアイマスクで覆っているため口元しか見えていないが、その唇は皮肉に歪んでいた。あらかじめ渡されていた写真の娘は、もう少し大人しそうな表情をしていたように思うが――
 人は見かけによらないってやつなのか、それとも写真なんてもんは所詮ヒトの内面まで映し出せるもんじゃないってことなのか。

一星

半々くらいってことなんだろうな

 俺は一人腕組みをしながら頷いた。どうとでもないようなことを学習して自分の成長を感じるのが、人間腐らないためのコツだ。
 一方で、陰気かつ皮肉げなガキ――もといメイは、こちらの反論がないのをいいことに欠伸を一つ。それから縛られたままの恰好でころんと床に転がった。

夕べは遅くまで宿題やってたから、寝不足なんだ。少し寝かせてね

 挙げ句、そんなことまで言ってみせる。俺たちが唖然としていると、すぐに微かな寝息が聞こえてきた。なんつうガキだ。ちょっとやそっとのことでは動揺しないと自負している俺でも、これには呻かずにいられなかった。

夕月

なんともまあ、最近の子供は……

 大人びているな、と夕月さんが呟く。

一星

大人びてるっつうか、これは悪い意味で特別でしょうよォ。最近の女子高生がみんなこんなんだって言われたら泣きますよ、俺。くそ、大人の幻想をぶち壊しやがって……

 というのは三割くらい冗談なわけだが。とりあえず、ここからどうしたものか。正直なところ、俺にはこのまま計画を進めてしまっていいものか分からなくなっていた。思春期まっただ中な子供の痛い戯言。反抗期な子供の親不孝な発言――と片付けてしまうのは、短絡的なような気もした。ちらっと相棒を確認する。俺より三つ年上の美貌の男も、顎に手を当ててなにやら思案している。
 ややあって、言った。

夕月

こういう場合は――依頼主に確認した方がいいのだろうな、一応

 まあ、それが妥当なんだろう。俺と夕月さんは頷き合うと、倉庫を後にした。メイはそのまま、だ。仮に狸寝入りだったとしても、手足を縛られた女子高生に鍵の掛かったシャッターを上げるなんて芸当ができるとは思わない。つうか、俺でもできない。
 あたりに人の姿がないことを確認し、車に戻る。助手席に乗り込むと、夕月さんが携帯電話を取りだした。勿論、本人名義ではない。金さえ積めば――というほど高い代物でもなく、小遣い欲しさに社会的信用を切り売りする馬鹿者は一定数存在する。
 しばらく待って、相手が出たらしい。

夕月

どうも、奥様。こちら“ゲオルグ”です

 夕月さんが、そう名乗った――ゲオルグ・マノレスコ。ルーマニアの英雄。稀代の美男子。数々の女を騙した大嘘つきの名前は、華邑夕月という男のコードネームにぴったりだ。
 夕月さんは女を相手にするときにだけ聞かせる、低く甘い声で通話の相手に囁いた。

夕月

藤崎冥を確保しました。ですが、彼女が妙なことを……

 相手に疑念を感じさせないよう、慎重に訊ねる。

夕月

ええ。両親は身代金を払わないだろうと。あまりに自信があるようなので、少し気になりまして――

 スピーカーにしているわけではないので、俺には相手の声が聞こえない。が、美しい相棒の表情から会話の雰囲気を推測することはできる。いつもは綺麗につり上がった眉を少しだけ歪めて、夕月さんは訝っているようだ。

夕月

彼女は冷めたところがある、と。本当に、それだけでしょうか。ええ、はい。そうですか。では、このまま計画を続行しても構わないと? 承知しました。では、また後ほど

 話し合いが済むのは思いのほか早かった。けれど相棒の顔は、やはり浮かない。通話の終了した液晶画面を軽く睨みながら、夕月さんがぽつりと言った。

夕月

計画は続行、だそうだ。なにも懸念するようなことはないと

一星

でも、気になってる?

 ――でしょォ?
 訊き返す俺に、夕月さんは顎を引くだけの仕草で肯定した。

一星

あんたが女の真意を見抜けないなんて、珍しい

夕月

見抜けないわけではない。彼女の言葉に嘘はないと感じた、が……

一星

が?

夕月

どう言ったらいいのだろうね。根拠が足りない。言うなれば藤崎冥の言葉と彼女の言葉、地に足が着いているのはどちらか――と、そういう話だ

 ふうん。と、俺は曖昧に頷いた。
 分かったような分からないような。あ、嘘。実際、俺には夕月さんがなにを言っているのかほとんど分からない。いや、俺が馬鹿なわけではない。断じて、ない。なんつうか、この人にはちょっと気取ったところがあるというか、回りくどいというか、面倒くさいというか。
 とはいえ――それを言えば君の物分かりが悪い云々と責められてしまうので、俺としてはこう言うしかない。

一星

じゃあ、とりあえず身代金請求でもしときますか?

夕月

なにが“じゃあ――”なのか分からないが、まあそれしかないだろうね

 嫌みなほどに形のいい唇から溜息を零す。その陰鬱さに、こちらまで気が塞ぎそうだ。

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