◇四章 計策のロンド(3)
◇四章 計策のロンド(3)
舞踏会の翌日、ディーダーはひとりで市街地へ来ていた。
いつものように馬車を使い肩掛けのマントという役人らしい格好ではなく、身を潜めるようにフードつきの外套を着て。
そして住宅の並ぶ地区の外れにある閑散とした小道を通り、さらに裏路地へ入った所にある寂れた建物の中へと入っていった。
やあ、ディーダーさま。いらっしゃいませ
そこは鬱蒼とした石壁の部屋で、薄暗い部屋にはオイルランプに照らされたカラフルな小瓶が並べられている。
店主、と呼ぶには少々薄気味悪い出で立ちの男が、煤けたカウンターの中からディーダーに声を掛けてきた。
こんにちは。そろそろ例の物は出来ていますか?
外套のフードを外して顔を見せれば、店主はニッコリと微笑んで頷いた。
出来ていますよ。手間が掛かりましたが自信作です。危険も副作用も一切ありません
そう言って店主がカウンターの引き出しから取り出した小瓶を、ディーダーはマジマジと見やってから口角を上げて薄く微笑む。
上出来です。それではこれ、いつもの報酬です
ディーダーは男にズシリと重い金貨袋を手渡す。男はそれを受け取り頭を下げると、中を確認しながら話し掛けた。
こんなものが必要になるなんて、最近の宮殿はずいぶんきな臭くなりましたねえ
下賎な者が何やら勘違いして大きな顔をし始めたんでね。我が主をお守りするためには、こういう工作も必要なのですよ
さすがディーダーさま。将来の宰相と言われる男ですな
主人の褒め言葉にディーダーは苦笑いを浮かべると、小瓶をしっかり外套のポケットにしまい店の出口へと向かった。
そして、扉を開ける前に主人を振り返り、
ああそうだ。実験材料が必要でしたらいつでも宮殿の地下牢に来てください。私の名を出せば通すようにしておきますから
目を細めてそう告げた。
いつもありがとうございます、ディーダーさま
いえいえ、こういう関係は持ちつ持たれつですからね
口の端を持ち上げて笑いながら、ディーダーは再びフードを深く被る。
そして店を出ると、来たときと同じように人目に付かぬよう静かに、足早に立ち去っていくのだった。
街道を歩きながらディーダーは昨夜のことを思い出していた。
舞踏会が終わり部屋に戻ると、リーゼロッテが何やら不安そうな顔をして相談してきたのだ。
ディーダーさま、どうしましょう。私、アドルフさまに求婚されてしまいました
と。
リーゼロッテのことはまだ秘密にしておきたい存在だったので正直焦ったけれど、よくよく話を聞いてみれば、それはディーダーにとって非常に有益な内容だった。
ちょっと計算外ではありましたが……こんな功績を生むなんて、リーゼロッテを連れて来た甲斐があったというものです。
ディーダーは目深に被ったフードの下、ひとりでクスクスとこらえきれない笑いを零す。
待つまでもなく時は満ちましたね。さあ、リーゼロッテのデビュタントを急いで整えなければ
街の片隅に隠しておいた馬に跨ると、ディーダーは急いで宮殿へと向かった。
雲ひとつないよく晴れた空には、真昼の月がうっすらと天に浮かんでいる。
まだ陽の高い午後。
いつもより早い時間に目覚めてしまったリーゼロッテは、ベッドの上で身体を起こしたままボンヤリとしている。
昨夜は色々なことがありすぎてあまりよく眠れなかった。
初めて見たフォルカーが婚約者と踊る姿、そしてアドルフとの出会いと求婚。うぶなリーゼロッテには刺激が強すぎる一夜だったといえよう。
中でもフォルカーの婚約者の存在は彼女の胸を痛め、一晩経った今でも気持ちを沈ませる。
どうしてアレクサンドラさまのことを考えると、こんなに気分が落ち込んでしまうのかしら……
遠くからだったので表情はよく見えなかったが、アレクサンドラと踊るフォルカーの姿は華やかで凛々しく瞳に映った。
美しく着飾ったアレクサンドラと美麗の皇太子はとても優雅で、高貴な者同士お似合いに見える。
フォルカーさまと正妃になるアレクサンドラさまがお似合いなのは当然だし、とても喜ばしいことの筈なのに……
嫉妬という言葉を知らないリーゼロッテには、この渦巻く不快な気持ちの正体が分からない。
この気持ちが治まるまでは、なんだかフォルカーに会いたくないと思う。
けれど、リーゼロッテは今夜フォルカーに会いにいくことをディーダーに命じられていた。
昨夜、アドルフに求婚された話しをしたらなぜだか
それはフォルカーさまに相談しなくてはいけませんねえ
そんなことを言われたのだ。
意味は分からないけれど、ディーダーがそう言うのだから行くしかない。
けれどフォルカーと会っているとき、もしも昨夜の光景を思い出したらと思うと、リーゼロッテはすでに泣きたいような気持ちになってくるのだった。
そして夜8時の鐘が鳴る頃。
リーゼロッテはディーダーに連れられてフォルカーの寝室へと来ていた。
リーゼロッテから大切なご相談があるそうですよ
突然部屋にやって来たと思ったらそんなことを言い出したディーダーに、フォルカーは怪訝そうな表情を向ける。
けれど、一緒に来たリーゼロッテの顔色が浮かないことに気付き、フォルカーは心配そうに声をかけた。
どうした? 困っていることがあるなら言え。俺が必ずお前の心配事を解決してやる
フォルカーさま……
リーゼロッテは不安そうな表情を浮かべたままフォルカーの座るソファーの前まで足を進ませる。
目の前まで来たというのにやっぱり彼の顔が見られない。失礼だとは思いつつも、顔を俯かせたままリーゼロッテは昨夜のことを話し出した。
フォルカーさま。私、昨夜アドルフさまにお会いして求婚されてしまいました
な……!?
彼女の言葉を聞いたフォルカーは思わずソファーから立ち上がり、目を大きく見開く。
彼の反応に、やはりアドルフに存在を知られたことはとても不味かったのかと思い、リーゼロッテは申し訳なさげに肩を竦めた。
申し訳ございません。昨夜、どうしても舞踏会が見たくて部屋を抜け出したときに……偶然アドルフさまと会ってしまいまして
アレクサンドラと踊るフォルカーを見て悲しい気持ちになったから南の庭園に寄ったのだとは、さすがに言い出せなかった。
心配そうに眉を顰めるフォルカーに、リーゼロッテはさらに詳細を説明する。
でも私の正体はバレていないとは思います。鬘を被っていたし……まだ存在を公にしてはいけないかと思い、別名を名乗らせて頂いたので
それを聞いたフォルカーの張り詰めていた表情が少しだけ安堵した。
やはり自分のことがバレるのが問題なのだなとリーゼロッテは思った。
ただ、不思議なことにアドルフさまは自分が近いうちに皇帝を継ぐと仰っていました。そしてアレクサンドラさまとも結婚すると。だから私を最終的に妻ではなく公妾にすると仰られていました
……アドルフが……?
さらにことの概要を話すと、フォルカーの表情が再び変わった。さっきと同じように眉を顰めているが、雰囲気はずっと厳めしい。
そして、まるで睨むようにディーダーに視線を向けると、それに応えるようにディーダーは頷き懐から何かを出して見せた。
リーゼロッテがアドルフさまからもらったそうです。自分の話が嘘じゃないことを証明したかったのでしょう
慎重そうに絹のハンカチに包まれたそれは、例の指輪だ。コルネリウス家に代々伝わる家宝であり、現皇后が息子へ贈る次期皇帝の証。
指輪を目にしたフォルカーは一瞬表情を険しくさせると、奥歯を噛みしめて冷ややかに目を伏せた。
ディーダー
はい
お前はとっくにこのことを……バルバラの企みを見抜いてたのか?
フォルカーは静かな怒りを含んだ声で言ったが、ディーダーは動じず真摯な声色で返す。
疑惑が確信に変わっただけです。主に迫る危機を常に警戒するのは、側近として当然の役目ですから
しかしフォルカーは唇を一回噛みしめると、少しの沈黙を保ってから破った。
……リーゼロッテを宮殿へ連れてきたのも、アドルフから情報を引き出す囮のつもりだったのか
ピリ、と空気が張り詰める。
今まで見せたことのない表情を浮かべるフォルカーにリーゼロッテの胸はざわついたが、ディーダーは落ち着いて首を横に振った。
彼女を連れてきたのは貴方さまを癒すためです。今回のことは神に誓って偶然の功績ですが――今後はちょっと協力してもらうことになりそうですね
それを耳にしてフォルカーはきつくディーダーを見据えたが、彼はリーゼロッテの肩に手を置くと
我が君主、フォルカー皇太子殿下のため。そして、リーゼロッテ本人の幸せのためでもあるんですよ
そう言って、何かを促す視線を向けた。
リーゼロッテはそれを受けて、少し顔を俯かせるとためらいがちにフォルカーに向かって口を開く。
あの……、まだ続きがあるんです
続き?
はい。アドルフさまから公妾になれと言われたあと、その……く、口付けを
口付けをされたのか!?
フォルカーは驚きのあまり大声をあげ、リーゼロッテの肩を強く掴んでしまった。
彼のあまりの形相に驚いてしまったリーゼロッテは、首を横に小さく振って否定する。
さ、されてはいません。されそうになっただけで
本当か!?
どうしてそんなに問い詰めるのだろうと不思議に思いながらも、今度はコクコクと首を縦に振った。
フォルカーはホーっと大きく息を吐き出したものの、口を引き結び複雑そうな表情を浮かべる。
そしてしばらくリーゼロッテの顔をじっと見つめた後、彼女の唇にそうっと指先で触れてきた。
フォルカーさま……?
……俺は、何を焦っているんだ。リーゼロッテが誰と口付けようと、『友達』の俺には咎める権利もないのに
湧き上がる胸の苦しさは、愛する彼女を欲する想いと14歳も年下の弟に対する嫉妬だ。
自分の立場と信念がどれほど大きなものなのかは自覚している。けれど、初めて恋を知ったフォルカーは彼女を手に入れたい気持ちを抑え切れない。
大きな大きな葛藤が、若き皇太子の胸をしめつける。
口付けたい……。彼女の唇を、誰にも奪わせたくない。俺だけがこの麗しい唇にキスを――
摘みたての果実のように瑞々しいリーゼロッテの唇を、フォルカーのしなやかな指がゆるゆるとなぞる。
くすぐったい指の動きに、リーゼロッテの口からは我知らず小さく吐息が漏れた。
「ん……、ぅ……んん」
指先にかすかに感じた彼女の吐息が、フォルカーの欲望に火を点す。
今すぐにでもここで口付け――いや、唇も身体も、彼女の全てを奪ってしまいたいと、衝動的な想いが湧き上がる。
そしてそれは、指先で唇を愛でられているリーゼロッテも同じだった。
恋や欲を自覚出来ないまま、全てを彼に捧げたい想いが本能のように彼女を蝕む。
けれど。
フォルカーはふと視線を逸らすと指を離し、リーゼロッテに背を向けた。
……報告はもういい。今日は部屋に戻れ
これ以上そばにいると欲を抑え切れなくなると思い、フォルカーは彼女を突き放した。長年皇太子として育てられ培われた自制心で、己を律したのだ。
背を向けられたリーゼロッテの胸がズキリと痛む。
頭によぎるのはアレクサンドラの姿だ。フォルカーから愛の籠もったキスをもらえるのは彼女だけで、自分は決してそれには成り得ない現実が胸に突き刺さる。
リーゼロッテは泣き出しそうな表情を浮かべたが、背を向けたフォルカーにそれは見えない。
それがますます悲しくて、リーゼロッテは頭を項垂れさせてボソリと呟いた。
……私、コマドリに生まれてくれば良かった
涙交じりの声が耳に届き、フォルカーは顔を振り向かせた。
そしてフォルカーさまの肩にとまって綺麗な声で歌を歌うの。そうすればきっと……フォルカーさまはご褒美のキスを私にくれるから
……リーゼロッテ……!
愛する少女の切ない望みに、フォルカーの自制心が崩れていく。
苦しいのは自分だけじゃない。生まれて初めての恋を抱くリーゼロッテもまた、結ばれない立場に絶望にも似た悲しみを抱いてるのだと、フォルカーは気付かされる。
…………ディーダー
フォルカーは堅く拳を握りしめると、意を決したように忠実な部下の名を呼んだ。
お前なら救えるというのか。この俺とリーゼロッテを
主の質問に、ディーダーは口角を上げて微笑んでみせる。
フォルカー皇太子殿下の幸せを願うのが、14年前に貴方さまに忠義を誓ったこのディーダーの役目ですから
躊躇もなく当たり前のように言った部下は、口もとを微笑ませてはいるが眼差しは真剣そのものだ。
深い覚悟と忠誠の色が浮かんでいる。
いいだろう。お前が考えていることを全部この俺に言ってみろ
フォルカーはそんなディーダー見据えながら、一国の皇太子として、そしてリーゼロッテを愛するひとりの男として、心の奥で覚悟を決めた。
【つづく】