◇四章 計策のロンド(2)
























部屋へ帰るようディーダーに言われたリーゼロッテだったが、どうしてもモヤモヤとした気分が晴れず部屋にまっすぐ戻る気にはなれなかった。

リーゼロッテ

ゼルマには悪いけれど、少しだけお月さまを見てから帰ろう……



なるべく人目を避けながら、リーゼロッテは南の庭園へと向かった。



何度もフォルカーと逢瀬を重ね、楽しいひとときを過ごした場所だ。あそこに行けば気持ちが落ち着くかもしれないとリーゼロッテは考えたのだ。



















宴に疲れた者たちがチラホラと庭に出ていたが、奥の噴水の場所までは誰も来ていなかった。




静かな水音を聞きながらリーゼロッテは噴水の縁に座り、そっと夜空を見上げる。



遥か頭上には今日も大きな満月が浮かんでおり、優しい光を降り注いでくれている。



けれど、いつもならそれだけで気分が安らかになるのに、今日のリーゼロッテの胸はいつまでも燻りを消せなかった。


リーゼロッテ

私どうしちゃったんだろう……なんだかモヤモヤしてソワソワして、変な気分




そのときだった。大勢の人の足音が聞こえ、何やら騒がしい声まで耳に入ってきた。



リーゼロッテは驚き、慌てて庭木に身を隠す。すると、キョロキョロと辺りを見回す役人らしき男と、近衛兵らしきものが数人、噴水の近くまでやって来た。

役人

ここにもいないか……アドルフさまは何処へ行かれてしまったんだ

兵士

まったく、あのお方の我侭ぶりには手を焼かされますな

役人

今日は大勢の者が宮殿に出入りしてるのだ、どさくさに紛れて誘拐でもされたら大変だぞ。一刻も早く探し出せ



そんなざわめきを残して、男たちは去っていった。



どうやら人を探しているのだろう、しばらくは数人の近衛兵が周囲にいたようだが、やがて静かになったのを感じてリーゼロッテは庭木の陰から出てきた。

リーゼロッテ

みんなとても慌ててたけど、誰を探しているのかしら


再びリーゼロッテが噴水の縁に腰掛けようとしたときだった。




ガサガサと木葉の揺れる音がして、驚いてそちらに目を向けるとモッコウバラの生垣からひとりの少年が姿を現した。



ふう、あやうく見つかるところだったぜ





突然そんな場所から人が出てくるなどとは思わず、リーゼロッテは動揺して立ち尽くしてしまう。



すると少年もリーゼロッテに気がついたようで、目を真ん丸く剥いて驚いた。



うわ! ビックリした! お前誰だ!?






けれど、彼女が役人や近衛兵ではないと一目で分かると、訝しげな顔をしつつも近付いてきた。





アドルフ

……俺を探しにきた訳じゃなさそうだな。舞踏会に来たどこかの姫か?





赤髪の少年は不躾にリーゼロッテをジロジロと眺めると、呆気にとられている彼女の顔を覗きこみ頬を赤らめた。







アドルフ

……お前、綺麗な顔してるなあ。特に目が宝石みたいに綺麗だ





うっとりと感心しながら言われた台詞を聞いて、リーゼロッテはハッとし慌てて扇で顔を隠す。




リーゼロッテ

ありがとうございます。わ、私そろそろ戻らなくっちゃ




リーゼロッテはまだ正式に社交界にお披露目された身ではない。ディーダーが考えているその時期が来るまで、なるべく身を潜めていなくてはいけないと教えられているのだ。



この少年が誰だかは知らないけれど、無防備に顔を曝してはいけない。


そう考えてリーゼロッテは慌てて踵を返し少年の前から立ち去ろうとしたけれど、強く手首を掴まれてしまった。


おい! 客人の分際で俺から逃げるとはいい度胸だな。俺が誰だか分かってるのか?

リーゼロッテ

あ、あの……ええと

ふん、俺の顔も知らないとはな。どうせ公式謁見もしたことのない田舎の公女なんだろう。いいだろう、教えてやる

アドルフ

俺はこの国の皇子、アドルフ・レオポルト・ディードリヒ・フォン・コルネリウスだ。本来ならお前のような田舎娘が口を聞ける立場ではない。よく覚えておけ



その名を聞き、リーゼロッテの瞳が驚きに見開かれた。

リーゼロッテ

この方がフォルカーさまの弟ぎみ……!



帝国の皇位継承順位第二位保持者だとディーダーに教わってはいたけれど、実際に顔を見るのは初めてだ。



わんぱくで気の強そうな顔に手触りの硬そうな赤毛。そして何より人を見下したような尊大な態度。



腹違いだとは聞いていたけれど、こんなにもフォルカーと似ていないことにリーゼロッテは密かに驚いてしまった。



そしてハッと我に返り、慌てて彼に頭を下げる。

リーゼロッテ

お、皇子殿下だとは知らず、大変失礼を致しました




リーゼロッテがやっと自分を認めたことに満足したのか、アドルフは得意そうな笑みを浮かべると、どっかりと噴水の縁に腰を下ろした。

アドルフ

ああ、本来なら打ち首にしてやってもいいところを特別に許してやるからな。これからは気をつけろよ



ディーダーに習った知識では、確か彼は12歳のはずだった。


それなのに少年とは思えないほど言動は横暴で、リーゼロッテは彼に恐ろしいものを感じる。

アドルフ

で、お前はどこの国のなんて姫なんだ? 名を名乗れ



促されてリーゼロッテはハッとした。この国の皇子殿下と顔を合わせて名を名乗らないわけにはいかない。



けれど、彼がフォルカーの弟だからこそ、自分の存在を明かしてしまうのは良くないのではないかという思いも芽生えた。

リーゼロッテ

あの、ええと……モントツェル国のディアナと申します




咄嗟に口にしたのは物語で読んだ架空の国と名前だ。



顔は見られてしまったが今は鬘をかぶって特徴的な髪を隠しているし、いつか正式にアドルフと対面することがあっても別人としてしらを切りとおせるだろう。



アドルフは眉を顰めると

アドルフ

モントツェル? 聞いたことがないな


と首を傾げた。


リーゼロッテはドキリとしたが

アドルフ

よっぽど辺境の国なんだな。さすが田舎者



そう言って笑ったので、どうやらこの場は凌げそうだと安堵する。



けれどアドルフは自分の座ってる隣の場所をポンポンと手で叩いて、リーゼロッテを呼び寄せた。

アドルフ

座れ、ディアナ。俺の話し相手になることを許してやる



早くこの場から立ち去りたいリーゼロッテは困ってしまったが、尊大なこの皇子から逃げられるとは思えない。



あきらめて顔を俯かせながら隣へ座ると、アドルフはそんな彼女をジィッと見つめてきた。

アドルフ

お前、本当に綺麗な顔をしているなあ。ひょっとしたらうちの国で一番の美人なんじゃないか?

リーゼロッテ

そ、そんなことありません……



アドルフの視線から逃れようと顔を逸らせたものの、顎を手で掴まれ強引に振り向かされてしまう。

アドルフ

わ、肌もスベスベだな。……お前、本当に何者なんだ?




今度は頬やら手やらをペタペタと触ってくるアドルフに、リーゼロッテはこの庭園に寄り道したことを心から後悔した。



ちゃんとディーダーのいうことを聞けば良かったと、泣きそうになりながら反省する。



そうして気が済んだのか、手を離したアドルフだったけれど、リーゼロッテがホッとする間もなくとんでもないことを言い出した。

アドルフ

よし。お前、俺の妻にしてやろう

リーゼロッテ

え……ええっ!?



まさか、フォルカーの公妾候補の自分がその弟に求婚されるなどとは夢にも思わず、リーゼロッテは目を見開き口をパクパクさせてしまう。



しかも――続けて彼が言った言葉は、さらに耳を疑うものだった。

アドルフ

俺は近い将来皇帝になる男だからな。それに相応しい美しい妻が必要だ。喜べ、田舎の小国の公女であるお前がこの大帝国の皇后になれるんだぞ。お前の父も母も泣いて喜ぶだろう

リーゼロッテ

将来の皇帝……? アドルフさまが……?



リーゼロッテは不思議に思う。



確かにアドルフは今のところ皇位継承権第二位を有している。


けれど一位のフォルカーは問題なくこのまま皇位を継ぎそうだし、さらにフォルカーに息子が出来れば継承権はそちらの方が上になる。


無いとは言い切れないけれど、アドルフが皇位につく可能性はきわめて低い。




思わず目をパチパチとしばたいてしまうと、そんなリーゼロッテを見てアドルフがムッと口を尖らせた。

アドルフ

なんだ、その顔は。ウソじゃないぞ、俺は父上の跡を継いで皇帝になるんだ

リーゼロッテ

で、でもフォルカー皇太子殿下は……?

アドルフ

兄上のことは知らん。けど、母上がそう言うんだから間違いない



アドルフが自信満々に発した言葉を聞いて、リーゼロッテは何かモヤッとしたものを胸に感じた。



そんな彼女の表情を不信のものだと思ったアドルフは、ますますムキになって声を張り上げる。

アドルフ

本当だぞ! 俺は皇帝になるんだ! ほら、これを見ろ!



そう言ってアドルフは自分の懐に手を入れると細いチェーンを通し首から下げていた指輪を取り出した。



それは純金製の指輪で、表面に帝国の紋章である太陽と獅子の文様が彫られていた。



リーゼロッテはディーダーに帝国とコルネリウス家の歴史を学んだときに、それを図鑑の図で見たことを思い出す。

リーゼロッテ

この指輪は……確か、皇后が次期皇帝になる息子に健勝を籠めて贈るといわれている、コルネリウス家に伝わる家宝じゃないかしら



必死に記憶の糸を手繰り寄せていると、アドルフはそれをチェーンから外しリーゼロッテの手に置いて見せた。

アドルフ

内側を見てみろ。ちゃんと8代目として俺の名が刻まれている



言われるとおりに内側を見てみれば、確かに『Adolph』の文字がしっかりと入っている。どうやらまごうことなき本物のようだ。

リーゼロッテ

ということは、本当に次の皇帝はフォルカーさまではなくアドルフさまなの……?



すっかり混乱しているリーゼロッテに、アドルフは得意そうな笑みを浮かべ腕を組んで言った。

アドルフ

どうだ、やっと信じたか? 俺はこの国の皇子で将来の皇帝、アドルフ・コルネリウスさまなのだ

リーゼロッテ

ええと……あの、……はい



聞きたいことや不思議なことは沢山ある。


けれど、ここで彼に尋ねたところで「次期皇帝だ」と言い張る彼の主張が覆ることはなさそうだし、実際に物証もあるのだ。



アドルフに聞くより後でディーダーに聞いた方が懸命だろうと思い、リーゼロッテは曖昧な相槌を打って愛想笑いを浮かべた。




ところが、アドルフはその指輪をリーゼロッテの手から取ると自分の懐には戻さず、なんと彼女の薬指に通し始めた。

リーゼロッテ

あ、アドルフさま、何を……?

アドルフ

言っただろう、お前を妻にすると。この指輪は代々皇帝が妻に贈るものだ。そうして将来息子が生まれたときに、お前から次の皇帝になる息子へ贈る。それがコルネリウス家の慣わしだ、覚えておけ



つまりは結婚の証に指輪を贈られてしまったのだと気付き、リーゼロッテは慌ててそれを返そうとする。

リーゼロッテ

だ、駄目です。こんなもの頂くわけにはいきません



けれども当然アドルフは彼女の手を押さえそれを外すことを許さない。

アドルフ

いいからしておけ。お前は綺麗だから放っておくと他の男に求婚されてしまうだろ。これはディアナが俺のモノだという証だ



とんでもない展開になってしまい、リーゼロッテは内心慌てふためく。



フォルカーの公妾候補として連れて来られたはずなのに、このままではアドルフの妻になってしまう。



どうやって指輪を返そうかと一生懸命考え、ソワソワとしていると。


突然アドルフが「あ、でも……」と何かを思い出したように眉間にしわを寄せた。

アドルフ

皇帝になったらあの女と結婚しなきゃいけないんだよな。……あいつは化粧が濃くてベタベタした声で喋るから好きじゃないんだけど、まあ仕方ない



そんなことを苦々しく呟いてから、アドルフは開き直った顔でリーゼロッテに向き直った。

アドルフ

さっきのは取り消しだ。お前は公妾にしてやる。俺はアレクサンドラと結婚しなくちゃいけないからな。そのかわり庭園に離宮を造ってやろう。舞踏会でも音楽会でも自由に開かせてやる

リーゼロッテ

アレクサンドラさま……? さっきフォルカーさまと踊ってらした婚約者の方が、アドルフさまと結婚?



アドルフの言葉に、リーゼロッテはますます混乱に陥る。



次期皇帝の座どころかアレクサンドラとの結婚までもアドルフのものになるのだろうか。


それではフォルカーは一体どうなってしまうのだろう。

アドルフ

なんだ? それじゃあ不満か?



疑問に思っているリーゼロッテの顔をズイと覗きこむと、アドルフはなんと彼女の手を取って甲に口付けてきた。

リーゼロッテ

えっ!?



しかも今度は素早く頬にまで口付け、さらには顔を寄せて唇を奪おうとする。

リーゼロッテ

あの、待ってください……!



驚いて思わずアドルフの身体を押し退けてしまうと、彼は眉をしかめて見せた。

アドルフ

正妃には出来ないが変わりにキスをしてやる。俺の初めてのキスだ、ありがたく思え



――そんなことを言われても、とリーゼロッテはこめかみに汗を垂らした。



男女の口付けについてはディーダーに色々と教わった。



けれどそれはフォルカーのために学んだことであり、リーゼロッテはフォルカー以外の者とキスすることなど考えたこともなかった。

リーゼロッテ

いや……! いくら皇子殿下とはいえ、フォルカーさま以外の男性と口付けるなんて……!



知らぬうちに芽生えていた貞操観念が、フォルカーへの一途な想いが、リーゼロッテにアドルフのキスを拒ませる。



けれど、相手が少年とはいえ小柄なリーゼロッテでは力づくでは逃げられない。

リーゼロッテ

だ、駄目です、アドルフさま! お許しを……!

アドルフ

なんだと? この俺のキスを拒むっていうのか?



明らかに不機嫌な表情を浮かべたアドルフが、強引にリーゼロッテの身体を抱き寄せたときだった。


兵士

今あっちから声が聞こえたぞ!

役人

アドルフさま、いらっしゃるのですか!?



ふたりのやり取りを耳にした近衛兵が、こちらへ向かってくる足音が聞こえた。

アドルフ

ちっ。見つかったらまたあのつまらん座学に戻されちまう



アドルフは舌打ちをするとパッと噴水の縁から飛び降り、

アドルフ

ディアナ、キスはお預けだ。けどお前は俺のものだからな。勝手に他の男にキスさせるなよ!



そんな強気な台詞を残して、再びモッコウバラの茂みへと走り去っていってしまった。




リーゼロッテはその後姿を見つめながらポカンとする。



けれど兵士たちの足音が近付いてきたのを感じて、リーゼロッテも慌ててその場を走り去った。






























リーゼロッテ

なんだったんだろう……? アドルフさまの言ってたことは、私の知ってることと違うことだらけだったわ……



いつものディーダーの書斎を目指し廊下を駆けながら、リーゼロッテはさっきの出来事を不思議に思った。



そして、返しそびれてしまった指輪を眺め、少し困ったように眉を顰める。

リーゼロッテ

とにかく、ディーダーさまに相談しよう。分からないこともディーダー様に聞けば、きっと教えてくださるわ



そう結論付けたリーゼロッテだったが、彼女は忘れていた。



勝手にいなくなったリーゼロッテを心配して、ゼルマが真っ青になって心配していることを。





当然、部屋に戻ったリーゼロッテがゼルマから愛あるお説教をたっぷりと受けたのは言うまでもない。








【つづく】




◇四章 計策のロンド(2)

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