フェインリーヴが旅立ってから二週間……。
命じられた通りに、撫子は薬学術師見習いとしての日常を過ごし、大人しくしている。
騎士団長のレオトが様子を見に来てくれたり、ポチが遊び相手にもなってくれているので、退屈もしない。
そう……、何の問題もない、平穏な日々。
ふぅ……。今日も、問題なく終了、と。
フェインリーヴが旅立ってから二週間……。
命じられた通りに、撫子は薬学術師見習いとしての日常を過ごし、大人しくしている。
騎士団長のレオトが様子を見に来てくれたり、ポチが遊び相手にもなってくれているので、退屈もしない。
そう……、何の問題もない、平穏な日々。
今日は、新しい薬草の調合も上手くいったし、調合学のテストも自己採点で良い点が取れたし、ふふ、お師匠様が帰ってきたら、すぐに報告しなくちゃ。
自室の机に向かっていた撫子は、ふと……、羽ペンの切っ先を日記帳から浮かせてしまった。
ぽたりと……、黒いインクの滴が紙に滲んでいく。
お師匠様……、どうしてるのかなぁ。
今頃は新種の薬草を前に大喜びで研究に勤しんでいるのだろうか。
まだ、たったの二週間……。
子供でもないのだから、保護者的存在がいないくらいで寂しがる年齢でもない。
けれど……、充実した日々を過ごす中、撫子の心は常にそれを感じている。
――隣にあるべき存在の喪失感を。
ふぅ……。いつまでもお師匠様に甘えていては、駄目なんだから。
丁度良かったのだ。
この異世界で自分を救い上げてくれたフェインリーヴと、心を落ち着けて距離をとる為には。
そうでなければ、撫子はきっと……。
違う……、違う。ただの勘違いだから。
椅子から立ち上がり、自分にそう言い聞かせながら、撫子は窓辺へと向かって行く。
満点の美しい星屑が煌めく夜の世界……。
この、どこまでも繋がっている広い空の向こうに、彼女が慕う保護者もいるはずだ。
異世界から迷い込んできた撫子を、親身に気遣い、世話をしてくれている人……。
その存在に縋ってから……、もうどれだけの月日が過ぎ去ったのか。
フェインリーヴの優しさに触れれば触れるほどに、撫子は、彼の望まない存在となっていく。
気のせい、気のせい……っ。違う、絶対に、違うっ。
フェインリーヴの優しさを裏切るような事だけは、絶対にしたくない。
あの人の思い遣りを、温かさを、別の意味で求めてはいけないのだ……。
けれど、……撫子の胸の奥で命の鼓動を刻むそれは、彼女の偽りを剥ぎ取っていくかのように、――ひとつの真実を奏でている。
……散歩にでも行こう。
自分を誤魔化す為に、訴えてくる感情を押し流す為に、撫子は部屋を出た。
はぁ……。
世界が違っても、見上げた先にある光景だけは、きっとどこも一緒……、なのかな。
王宮の中を特に目的地も定めずに彷徨っていた撫子は、庭師が毎日欠かさず手入れをしている中庭へと辿り着いた。
訪れた者がひと息つけるようにと、中庭には至るところに屋外用の長椅子が設置されている。
特に気を遣うような人影が見当たらない事に安堵し、撫子はゆっくりと腰を下ろす。
まるで、美しい煌めきの金平糖が降り注いできそうな、どこにでもあるその闇夜の奇跡に、感嘆の息を吐く。
綺麗……。
この広大な空の下では、ちっぽけな自分など何の意味も持たない存在なのだろう。
数多の命を包み込む夜の帳……、その壮大さに圧倒されながらも、撫子はどこかほっとしている。
こうやって何も考えず、視界を満たす自然界の大きさを感じていると、煩わしい何もかもを、忘れていられるから……。
そういえば、お師匠様とも前に、ここで一緒に時を過ごしたんだっけ。
それはまだ、撫子が異世界に飛ばされて、一ヶ月も経たなかったある晩の事……。
療養を続けながら王宮で過ごしていた撫子は、ふと、持て余す不安に耐えきれなくなり……、辛く感じられる身体をどうにか動かして、この中庭へとやって来た。
どこを見回しても、自分の知らない景色ばかり……。
ここは自分の生きていた世界ではない、姉や、大切な家族のいる自分の居場所ではない。
役目さえ果たせず、凶獄の九尾を再封印する事も出来ず、……この惨めな姿はなんだ。
姉様……、皆……。
あの時、確かに……、撫子は凶獄の九尾と共に、陣から飛び出してきた黄金の龍に飲まれた。
だから、きっと、皆は無事でいてくれる……。
そう信じてはいるが、一方で、これからの事を考えると、どうしても……。
凶獄の九尾……。お前は一体、どこにいるの?
一緒に飛ばされて来たのなら、きっと、憎むべき宿敵はこの世界のどこかにいる……。
けれど、見知らぬ世界というものは、撫子を酷く、孤独の底に追い詰めるものだった。
幸いな事に、あの薬学術師……、フェインリーヴのお陰で日常の会話に支障はないが、他は駄目だ。
この世界に関する知識が、何もない。
異質な存在である撫子が、一体どうやってこの世界で宿敵を見つけ出せばいいのか……。
覚悟をしていたつもりではあったが、いざ、封印から目覚めた凶獄の九尾を相手にした撫子は、痛感してしまったのだ。
力の差がありすぎる……。
ただ正面から立ち向かうばかりでは、きっと打ち倒す事は不可能。
あ……。
孤独と、責任の重圧に押し潰されそうな撫子の目に映ったのは……、夜闇の腕(かいな)に抱かれた、星々の世界。
とても小さな淡い光が身を寄せ合い、大きな闇に抗うのではなく、互いを尊重し合うかのように共存している光景……。
光と闇は別物なのに……、どこの世界も、そっと一緒に寄り添っているかのように、穏やかなのね。
全く違う世界の空。
けれど、不思議と……、この光景だけは、慣れ親しんだ愛しい存在のように思える。
この空の下を……、ずっと、歩いて行ったら、姉様達に、会えるかな。
それをしたいなら、まずは完治を目指すんだな。
え?
長椅子に座っていた撫子は、回廊の方から近付いてくる異世界の男の姿に目を瞬いた。
長い髪の、見目麗しい……、撫子のいた世界の者とは違う印象の、異世界人。
薬学術師であり、撫子を救ってくれた恩人。
フェインリーヴさん……。
どこまでも広がるこの空は、確かに世界で一番の物知りだろう。地上のどこにいても、そこに生きる者は、天上の母から逃れる事は叶わない。
ニコニコとはしているが……、その背後から立ち昇っている静かな怒りの気配に、撫子は気まずくて視線を彷徨わせた。
この王宮で保護された当初、重傷であるにも加河和らず自分の役目を果たそうと訴えた撫子を、彼は容赦なく叱りつけた事がある。
普段は甲斐甲斐しく薬や食事の世話をしてくれるが、怒ったら物凄く怖い恩人……。
フェインリーヴは、撫子の隣へと腰を下ろしてきた。
だから、お前が部屋を抜け出しても、俺はお前の許に辿り着く事が出来るわけだな。
す、すみません……。勝手に外に出たりして。ちょっと、外の空気を吸いたくて……。
ならば、せめて俺に声をかけろ……。そんな身体で野垂れ死にでもされたら、寝覚めが悪い。
……気を付けます。
また怒鳴られてしまうのだろうか……。
癒義の巫女として生きてきた撫子は、叱られるという立場には慣れている。
けれど、この恩人の怒りは、他とは違うのだ。
まるで、撫子の姉や、その家族が彼女の事を心から心配して感情をぶつけてくる時のような、ある意味で、幸せな立場。
出会ったばかりの他人から、家族達と同じものを感じてしまうのは変だと思ったが、彼に怒られるのは……、なんだか、妙な心地で。
怪我が癒えたら、幾らでも付き合ってやる。だから、あまり心配させるな。
フェインリーヴさん……。
目を覚ました当初、撫子の錯乱ぶりは酷いものだった。
大怪我を負い、生死の境から現実に舞い戻ってきた撫子の目に飛び込んできた『異世界』。
髪の色も、目の色も、顔の作りも、寝床や調度品など、ありとあらゆるもの全てが、彼女の知らないものだったから……。
そんな彼女を、フェインリーヴは必死に宥め、少しでも不安に満たされるその心に安息を届けようと、ずっと傍についていてくれた。
そんな彼に心配をかけてしまった事、探しに来させてしまった事が、申し訳なくて……。
本当に、すみませんでした……。
反省しているなら、それでいい。さぁ、戻るぞ。
……。
ん? どうした?
立ち上がり、差し出された男性の頼もしい大きな手。撫子はその前に撫でられた頭に手をやりながら、じっと……、恩人の顔を見つめる。
ここには、姉様も皆もいないけれど……。
どうしてかな? 目の前のこの恩人は、彼らにとてもよく似ている。
それは、姿形ではなく、心の在り様といったもの。
全身に沁み渡るかのように広がっていた不安の気配が、彼といると……、薄らぐように感じられる。
大丈夫、目の前に差し出されている温もりは、信じても裏切らない、優しい存在だ。
お手数をおかけしますが、よろしくお願いします。
重ねた手を、彼の力強いそれがぎゅっと包み込んで立ち上がらせてくれる。
怪我で辛い撫子の身体を支え、そっと微笑む恩人。
お安い御用だ。まぁ、怪我が治ったら、その分の恩はしっかり返して貰うがな。
ふふ。治ったら、一生懸命御恩をお返ししますね。
……お師匠様。
その時の事を思い出し、撫子の口元には優しい笑みが零れていた。
心優しい薬学術師、撫子の身体だけでなく、不安に翻弄されていた心さえも、救い上げてくれた恩人。
彼の事を想うと、この数ヶ月の楽しい日々を思い出すと、胸の奥に沢山の喜びが溢れてしまう。
……。
……。
……お師匠様っ。
まだ、たったの二週間……。
それなのに、あの人が傍にいないだけで、どうしてこんなにも……、心が苦しくなるの?
恩人であり、頼るべき、敬うべき、撫子のお師匠様。彼に対してこんな想いを抱いてはいけない……。
そう、わかっているのに……。
離れてしまえば少しは落ち着くって、そう思ってた。……だけど、これじゃあ逆効果じゃないっ。
逆に、姿が見えなくなった事で、フェインリーヴを想う撫子の心には、逃れようもない蕾の開花が早まってしまった。
決して……、――叶わぬ、淡い、恋情の、花。
絶対駄目……っ、お師匠様に気付かれたら、きっと。
あの心優しい恩人は、撫子から遠く離れて行ってしまう。
だから、元の世界への帰り方を、焦るように、また探し始めたのに……。
ご、ごめんなさい、……ごめんなさいっ。私……、私っ。
あぁ、撫子君。やっと見つけた!
え……。
愛狼のポチと共に駆け寄ってきたのは、フェインリーヴが不在の中、撫子の保護者代理を務めてくれている騎士団長のレオトだった。
その手には、上品な装飾が施された、楕円形の鏡がひとつ。
撫子は服の袖で涙を拭うと、長身の彼を見上げた。
フェインがね。君と話がしたい、って。
お、お師匠様……? でも、今は他国に。
うん。だから、魔術を使った連絡用のこの鏡を持って来たってわけ。はい、どうぞ。
……。
そっと、撫子の足が……、後方に一歩下がってゆく。
ワフ?
撫子君?
心の中に思い描いていた人からの連絡。
嬉しい、そう思う気持ちとは別に、怖い、という感情が湧き上がってくる。
ご遠慮します……。
え……。
あ、明日も早いので……。
でも……。
お、おやすみなさい!!
ええええええええええええええええ!?
ワンッワンッ!!
レオトとポチの目の前で、撫子は脅威の俊足を見せつけながら去って行ってしまったのだった……。