人間や他種族達が住まう表側の晴れやかな天気とは正反対に、その日の魔界は憂鬱さを誘う薄暗い雲が群れていた。
フェインリーヴの生まれ故郷、幼き頃より自身を育んだ城……。
出迎えに出て来た側近の男に外套を預けると、フェインリーヴは予想通りの回答を得た。
お帰りなさいませ、陛下。
現状を報告しろ。あれから何か進展はあったのか?
人間や他種族達が住まう表側の晴れやかな天気とは正反対に、その日の魔界は憂鬱さを誘う薄暗い雲が群れていた。
フェインリーヴの生まれ故郷、幼き頃より自身を育んだ城……。
出迎えに出て来た側近の男に外套を預けると、フェインリーヴは予想通りの回答を得た。
生憎と、まだ調査は続行中です。申し訳ありません。
別に謝る必要はない。身内の厄介事を押し付けているのは俺だからな……。
何を仰いますか。我らは陛下の手足。貴方様のお役に立てるとあらば、誰しもが喜んでその身を捧げましょう。
喜んで、か……。
魔界を統治する者、一般的には魔王と恐れられるその地位は、フェインリーヴが先代……、つまり、父親から受け継いだ為、今は彼のものとなっている。
数多くの魔族達を束ね、その秩序を守る絶対の存在……。
普段はレディアヴェール王国の薬学術師として王宮に仕えているフェインリーヴだが、定期的に魔界へと通い、魔王の仕事をこなしている。
何故、自分の居城であるこの場所に、故郷に生活の基盤をおいていないのか……、その事情を知るのはほんの僅かの者達だけだ。
とまぁ、こんな事を言われても、貴方があまり喜ばれないのは知っておりますけどね。それでも、我らの仕えるべき、命を捧げるべき主は、貴方ただ御一人だという事実をお忘れなく。
わかっている……。
ならばよろしい。では、久しぶりのご実家に戻られてすぐに何ではございますが、捜索の方はこちらで進めますので、まずは溜まっているお仕事の方をお願いしてもよろしいですか?
も、戻って来て早々か?
確かに、この半年近く、撫子の面倒を見るので手一杯で、あまり魔王業の方はこなせずにいたが……。
凶獄の九尾の行方を捜す為に戻って来たというのに、何故帰還早々、地獄の書類処理に追われねばならないのか。
げっそりと再確認したフェインリーヴに、側近の男は笑顔で非情だった。
かなりの量が溜まっていますからね~!! 魔王陛下としての久しぶりのお仕事としては、やり甲斐抜群ですよ!!
……はぁ。
とりあえず、普段不在で迷惑をかけている責任を取るとするか。
フェインリーヴは溜息を吐きながら、魔王の執務室へと向かうのだった。
――、――、ぐっ、――はぁ、……、くぅっ。
陛下~、どうでございますか~? 忘れかけていた魔王としての自覚がぶわぁぁあっ!! と、蘇ってきましたか~?
――おらぁああああああああ!!
休憩用にとお茶菓子を乗せたワゴンを押して執務室に入って来た側近の目に映ったのは……。
書類仕事をしているはずなのに、何故か正体不明の強敵と戦っているかのような魔王陛下こと、フェインリーヴの姿。
雪崩を起こしそうな書類の山が物凄い速さで片付けられ、一時間もしない内にその半分以上が処理済みとなった。
側近の男は満足そうに微笑み、テーブルの方に休憩用の茶菓子を並べていく。
さぁ、陛下!! ご褒美ですよ!! 休憩は三十分!! それが終わったら第二部です!!
はぁ、はぁ……っ。ぐぅぅっ、魔王職なんか、嫌いだっ。
席から立ち上がり、よろよろと休憩の席に向かったフェインリーヴは、そのまま力尽きた旅人のように柔らかなソファーに倒れこんだ。
自業自得とはいえ、溜め込んだ仕事と向き合うのはいつも骨が折れる。
第二部が終わり次第、魔界の視察に向かうからな……。
かしこまりました。ですが……、陛下からご連絡を頂いた時にも思いましたが、まさか……、あの方が再び戻って来られようとは。どんな悪趣味な運命なのか……。
死んだものと、そう思っていたからな……。まさか別の世界で生き延びていたとは、誰も思わなかったはずだ。
三百年前……、この魔界を揺るがしたある戦いの折に、フェインリーヴがその手で追い詰めた存在。
それが、――凶獄の九尾の在りし日の姿。
この魔界においては、忌むべき存在として語り継がれている……、彼の。
相当の深手、でしたからね……。生き延びたその執念には感服いたしますが、何故逃げずに、この魔界に舞い戻ったのか……。
それはわからん……。だが、あれほどの目に遭っておきながら、また俺に抗ってくるとは、……思いたくはない。
お気持ちはわかりますが……、三百年という歳月は、憎悪を育てるには十分なものですよ。失った力を取り戻し、いつか陛下に復讐するその時を願っていたとしても、不思議はありません。
側近の警戒と、これからの凶獄の九尾がとる行動の予測には頷ける部分もある。
一度はフェインリーヴに敗れ、命からがらに異世界へと逃げ延びた。
それは、本人の意思ではなく、偶発的な事故のようなもの……。
捕らえた子狐の記憶から読み取れたのは、その事実と、凶獄の九尾が見知らぬ世界で惑いながらも、生きる場所を手に入れた事。
惨めに追い立てられた自身の境遇を呪い、フェインリーブを呪い、あてもなく彷徨った九尾。
自身の業が招いた事とはいえ、果たして……、本当に九尾だけに問題があったのか?
全てが終わり、魔王の地位に就いてからも……、フェインリーヴの中には苦い記憶と謎が消えずに残っていた。
三百年前……、アイツは本気で俺を殺そうとした。それに対し報いを与えた事に後悔はない。だが……、『アイツを動かしていた黒幕』を炙り出せなかった事だけは、今でも俺の罪のひとつとなっている。
怪しい者は数多く、あの方を唆した元凶を突き止めるには材料が少なすぎました。恐らくは、先代の魔王陛下を支持していた者達の中に、狡賢い反逆者がいたのでしょうが……。
だろうな……。俺は、先代の魔王である父上を無理矢理にその座から引き摺り下ろした親不孝者だ。恨まれる心当たりは山のようにある。
仕方ありませんよ。自身の力を過信し、傲慢になり果てた挙句に民を蔑ろにした挙句、表の世界に侵攻する計画まで立てるような方だったのですから……。先代の魔王陛下を支持していたのは、貴族階級の権力者達ばかり。魔界の民を救おうと動いた貴方様と相反し、敵対するのは当然です。
それに関しても、フェインリーヴが後悔した事は一度もない。
良識のある臣下がどれほど諫めても聞かなかったのは先代の魔王だ。
身勝手な欲望を抑える事なく押し通し、民を虐げた罪は重い。
だが……、先代を支持する貴族達は皆、フェインリーヴを父殺しの罪人だと断じた。
アイツは……、父上そのものに心酔していたからな。先代を殺した俺に対し憎悪を抱き、魔王の座を奪う事に執念を燃やしていた。
凶獄の九尾……、いや、かつては、フェインリーヴの弟であった男。
魔界における強者優位の思想は根深く、弟は自身も父親のように絶対的な力を揮う者に強い憧れを抱いていた。
けれど、フェインリーヴはその真逆。
母親似の心優しい性格をしていた……。
だから、理不尽に踏みつけられる魔界の民を見ていられず、最後には肉親である父親をその手で裁いたのだ。
そして、彼は一番口にしたくない言葉で、喚く殺気の権化となり果てた貴族達を強制的に従わせた。
先代の魔王を屠った自分に、無力なお前達が逆らうのか? と……。
ある意味で、魔界における弱肉強食の掟は功を奏した。騒々しい奴らを牽制出来たからな……。
陛下が損な役回りを全部引き受けただけですけどね……。当時の弟君は本当にお子様過ぎて、そりゃあ操りやすい刺客になった事でしょうよ。けれど、そのあとにまさか……、他所の世界にまで迷惑をかけるなんて……、あぁ、先代の魔王陛下が残した残念な遺伝によるものですかね~。
いや……。確かにアイツはどうしようもなく手のかかるお子様だったが、向こうの世界で最後には改心したようだ。愛する者と出会い、それを守る為に動いたアイツを、兄として誇りに思う。
でもですねぇ、かなりの被害を出したのでしょう? 陛下が菓子折り持って出向いても、きっと許して貰えませんよ。
異世界の魔王が菓子折り持って気まずそうに訪ねてきても、向こうの世界の者達は反応に困る事だろう。
けれど、三百年前の戦いが原因であちらに被害を出すきっかけを作ってしまったのは事実……。
自分がもっと、弟の心を思い遣って正しい道に導けていたら、撫子も犠牲になる事はなかった。
癒義の巫女、でしたっけ? 彼女はこの事についてどこまでご存じで?
九尾がこの世界の、魔界の者である事は伝えた。こちらが責任を取るべき立場だと……。
また大雑把に教えたものですねぇ……。重要部分を何もお伝えしていないじゃないですか。もしかして……、彼女からの反応を恐れでもしましたか?
……言う必要なし、と、そう判断したからだ。
長年自分の片腕をしている側近の目は欺けないのか……。
フェインリーヴの言葉ではなく、その胸の奥に隠れている本音を読み取っているかのように、側近はその眼鏡越しの目を細めた。
ティーカップを手に取り、互いにひとくち……。
私も一度遠目に拝見しましたが、とても可愛いお嬢さんでしたね~。師匠と弟子、でしたっけ? 元々世話焼きの性格とはいえ、陛下の親身な接し様には、少々驚きました。
ちょっと待て!! いつ見た!? 何をどこまで知っている!?
確かに、自分と撫子の関係と経緯は説明してある。
だが、側近のニヤけた物言いは、それ以上の事を知っているようにも見えて仕方がない。
ふふ、『生憎と撫子は俺の所有物も同じでな』とか、可愛らしい弟子を背に庇って男らしく牽制していたそのお姿は、かなりの見ごたえがありましたね~。
なっ、なななななななななっ!!
遠見の術でバッチリ! 拝見させて頂きました~。ついでに、そのあとに落ち込んでいるお弟子さんを甲斐甲斐しく頭を撫でたり抱きしめたり。
やめろぉおおおおおおおお!! それ以上はもう何も言うなぁあああああっ!!
俺が命じた仕事そっちのけで盗み見とはいい度胸だなぁああああああっ!!
はははっ!! 休憩時間にやってましたから、ノープロブレムですよ~!!
どこがだぁああああああああっ!!
このぶんでは、他にも色々と把握されているような気がしてならない。
しかし、フェインリーヴがどんなに絶叫して怒鳴り散らそうと、側近は逆に上機嫌になっていくばかりだ。
あぁ……、そのニヤけ全開の笑みに、心の底から腹が立つ!!
まぁまぁ、いいじゃないですか~。味気のない陛下の人生に、甘く潤った彩りが舞い降りたんですよ~。ふふふふふ、側近の私も大変嬉しく思います♪
今までの俺の人生が枯れまくってたみたいに言うなぁあああああっ!!
有能な側近だが、たまにこうやってフェインリーヴをおちょくるかのようにネタをぶっこんでくるのが悩みの種だ。
そして、大抵はこの側近のお茶目に振り回されて息切れになる。
はぁ、はぁ……。お前の相手をすると、ホント疲れるっ。
ふふ、私は陛下と遊べて心の底から楽しいですけどね~。
俺は楽しくない!!
え~、相変わらずつれない御方ですね~。放置プレイばっかりされちゃうと、謀反しちゃいますよ~。
ふんっ!! やれるものならな!!
べしんっ!! と、側近にクッションを投げつけると、それをあっさりとかわされ、フェインリーヴは悔しそうに奥歯を噛み締める。
苛立たしげに座り直し、ティーカップから紅茶をぐいっと飲み干す。
でもまぁ、私が謀反しちゃう事は絶対にありませんが、……他はそろそろ、といった感じかもしれませんね~。
怪しい動きでもあったわけか?
まぁ、少々……。陛下を支持して下さらない貴族の中に、あまり相手にはしたくない方が面倒な動きに入られたようで……。もしかしたら、凶極の九尾と呼ばれるようになったあの方に繋がるかもしれません。
詳しく話せ……。
居住まいを正した側近の目には、己の職務を果たす者の真摯な光が浮かんでいる。
フェインリーヴもまた、嫌な予感を覚えながらその話に耳を傾けるのだった。