◇第四章 計策のロンド(1)
◇第四章 計策のロンド(1)
それから数日後。
皇后バルバラの主催する舞踏会が宮廷で開かれた。
名目上は遠征していた騎士団の帰国を労って催されたものだが、実際はバルバラが自分の華美さと、更なる領土拡大を見せる帝国の威厳を他国に知らしめるためだ。
周辺国の王族貴族まで招かれたそれは、モンデグリー帝国の繁栄を象徴するように豪奢で華々しかった。
バルバラはここぞとばかりに飾り立て、高く結い上げた髪に、たっぷりと膨らんだドレスのスカートの表面に、あげくには扇にまでダイヤやエメラルドの宝石をあしらった。
過美を通り越しもはや悪趣味だと思いながら、フォルカーは会場の隅のソファーに腰掛けながらうんざりと溜息を吐き出す。
どうせあの宝石も一度使っただけで侍女や招いた客にやってしまうんだろう。同じ物は使いたくないなどと言って。全く、業突張りなくせに見栄っ張りで手が付けられんな
例え血が繋がっていなくてもあれが自分の母だと思うと、フォルカーは嫌悪さえ抱いた。
あまりの不快さに彼女の姿が見えない場所にでも行こうと、腰を上げたときだった。
フォルカー皇太子殿下。婚約者を舞踏会で放ったらかすだなんて、紳士失格ですわよ
この舞踏会に招待されていたフォルカーの婚約者、アレクサンドラが声をかけてきた。
ああ、これはアレクサンドラ姫。申し訳ない、少し気分が優れなかったもので
生涯の伴侶になる女性に声をかけられたというのに、フォルカーは気が晴れるどころか更に憂鬱さを増す。
アレクサンドラはゴッテリと化粧を乗せた目もとを微笑ませると、黒い毛皮で出来た扇で口もとを覆い「あらあら」などとおどけた声をあげた。
未来の皇帝陛下ともあろうお方が、舞踏会でそんな不甲斐ないことを仰るだなんて。フォルカーさまは惰弱……いいえ、繊細でいらっしゃるのね
はたして、これが夫となる男にかける言葉だろうか。
温厚な性格のフォルカーもさすがに眉根を寄せる。
労わりどころかまるで蔑むような笑みを見せるアレクサンドラを思わず睨みつけ、フォルカーはソファーから立ち上がると彼女の手を取った。
我が友ロマアール王国が連日やっかいな問題を起こしてくれるのでね。少々心労が溜まっているんだ。けれど舞踏会で婚約者を放っておいたことは反省しよう。さあ、アレクサンドラ。ホールの中央へ
フォルカーは半ば強引にアレクサンドラの手を引くと、人混みを掻き分けてホールの中央まで進み出た。そして曲が変わると同時に彼女を抱き寄せ、ワルツを踊り出す。
彼のステップは完璧だ。しなやかで力強いリードに、ターンをするたび揺れる黄金色の髪。見目麗しいフォルカーのダンスに、ホールにいた女性客達はうっとりと釘付けになった。
けれど荒らんだ心のまま踊るワルツなど少しも楽しくない。フォルカーは口もとを引き結んだまま、ただ義務をこなすように淡々と踊り続けた。
そんな婚約者を上目で見つめ、アレクサンドラは真っ赤に塗った唇を歪めてクスクスと笑う。
フォルカーさまは妻の母国がお嫌いなのかしら?
嫌いではない。あなたとの結婚を機に我が国の権限緩和や条約の勅許を認めるのは、ロマアール王国を友だと思っているからだ。御国を信用してるからに他ならない
だったらもっとこちらのお願いを聞いてくださっても良いのに
例の資源の税金撤廃か? 荒れ放題だった岩山を整え炭鉱として機能させてやるために我が国がどれだけ尽力したと思っているんだ。技術のない御国が豊かな資源国に成長したのはモンデグリー帝国の統治があってこそだ。その恩を忘れることは、友好とは言わない
……まあ、いいですわ。その税金もわたくしがモンデグリーの皇后になったら、どちらにしろわたくしの自由になるんですものね
アレクサンドラの隠しもしない卑しさに、フォルカーは密かにキリ、と奥歯を噛みしめる。
自由になどさせない。俺は父帝とは違う。国民の血税で贅を嗜むなど、俺が皇帝の座についたら決して許さない
低く威圧的な忠告は、密着しているアレクサンドラにしか聞こえない。
ふたりは優雅にダンスを踊りながら威信と私益の議論を交わす。
厳しく口を引き結ぶフォルカーと上目遣いに彼を睨むアレクサンドラの間には愛情も敬意も感じられなかったが、麗しい皇太子と艶かしい姫のダンス姿は周囲のものには仲睦まじく華麗なものに映っていた。
今日はディーダーさまはお仕事なの?
いつもならこの時間は公務が終わりディーダーはとっくに部屋に戻ってくるはずなのにと思い、リーゼロッテは書斎で与えられた本を読みながらゼルマに尋ねた。
今日は宮廷舞踏会が行われているのですよ。公式のものなので侍従次官であるディーダーさまもフォルカーさまに付き添われてるのです
舞踏会? いいなあ。私も広いダンスホールで踊ってみたい
無邪気な感想を零すリーゼロッテに、ゼルマもほっこりと笑みを浮かべる。
しかし。
私も“公妾”になればフォルカーさまと舞踏会で踊れるようになるのでしょう? 早く公妾になりたいなあ
なんの疑問も憂いも持たずに言ったリーゼロッテの言葉に、ゼルマは今度は少しだけ眉尻を下げた。
リーゼロッテは公妾という立場の複雑さを未だよく分かっていない。
もしこの後リーゼロッテが本当にフォルカーの公妾になったとしても、非常にしたたかでプライドが高いと噂されるアレクサンドラが、果たして彼女を素直に認めるだろうか。
バルバラと同じで過美に着飾り賞賛と注目を集めなければ気のすまないアレクサンドラが、煌めく美貌を持つリーゼロッテと夫が幸せそうに踊ることなど、絶対に許さないだろう。
ありとあらゆる手を使ってアレクサンドラは彼女を消し去るに違いない。社会的にか、それとも命ごとか。何の後ろ盾も身分もないリーゼロッテがアレクサンドラに敵う見込みは皆無だ。
ディーダーは自信を持ってリーゼロッテを公妾にしたがっているが、ゼルマはアレクサンドラとの確執を考えると、それがリーゼロッテのためになるとはあまり思えずにいた。
……そうですね。あの、わたくし、ちょっとランプのオイルを頂いてきますね。もうすぐ切れそうだから
何も知らず無垢な希望を描くリーゼロッテが痛ましくて、ゼルマは彼女から逃げだすように部屋を出ていった。
残されたリーゼロッテはしばらく大人しく本を読んでいたが、ふと思いついて席を立つと部屋のクローゼットを漁り出した。
彼女が手にしたのは金髪の鬘(かつら)。当時貴族の間で鬘はお洒落のひとつで、婦人たちは帽子のように美しい鬘を嗜んでいたのだ。
リーゼロッテは持ち前の美しい髪があるので使ったことはないが、ディーダーがファッションの勉強にと以前置いていってくれた物がある。
それを被り自分の銀に輝く毛を全て隠すと、念のために扇も持ってリーゼロッテは部屋を出た。
少しだけ……ほんのちょっとだけ見に行ってもいいよね
ダンスの好きなリーゼロッテは好奇心に抗えず、舞踏会の行われている広間へと向かったのだ。
途中、見回りの兵士や女官とすれ違ったが、客人が多い日だったせいか怪しまれずに通り過ぎることが出来た。そして、賑やかな声が漏れ聞こえる大広間の側までやって来る。
夜も更けてきたせいか、帰る客や部屋に戻る客も多く出入りが激しい。
広間の一番大きな扉は開け放たれ、リーゼロッテは廊下の柱に隠れながらコッソリ中を覗き見た。
うわ、あ……。たくさんの人。それもみんな凄く綺麗な格好をしている
彼女の目に映る婦人も紳士も、みな各々着飾り威厳や品の良さを醸し出していた。賑やかで活気はあるが、街で見た商人たちとは雰囲気が全然違う。
そんな中で一際目を引いたのが、真紅の薔薇のドレスを着た黒髪の女性だった。
……綺麗なひと。……でもなんだろう、あのひとから嫌なものを感じる……。少し、怖い感じ……
リーゼロッテの胸に芽生える不思議な嫌悪感。初めて味わうその感覚は冷たくザラついた布のように、背筋をゾクゾクと怖気立てる。
知らないうちに腕に鳥肌を立てたリーゼロッテだったが、双眸に驚くべき光景が映った。
金色の髪を持つ優美な紳士が、その女性をダンスに誘ったのだ。
――それは、フォルカーだった。
リーゼロッテの大きく見開かれた瞳には、フォルカーと黒髪の女性――アレクサンドラが密着して踊っているさまが映し出される。
……フォルカーさま……
リーゼロッテはフォルカーが自分以外の女と踊るのを初めて目の当たりにした。
舞踏会なのだから当然だと分かっていても、初めて見るその光景はキリキリと彼女の胸をしめつける。
なんだろう、すごく胸が痛い……嫌な気分……
相手が妙な嫌悪感を抱いた女性だからなのか、それとも違う理由なのか。どうしてこんなに胸が痛むのか、彼女は分からない。
知らず知らずに込み上げてきた涙が視界を滲ませ、リーゼロッテが苦しくてたまらなくなったときだった。
いけない子ですねえ、部屋を抜け出してこんな所まで来ちゃって。おまけに――見なくていいものまで見ちゃったみたいですね
ディ、ディーダーさま……!
声をかけられ驚いて振り向けば、そこには困ったように眉を顰めて立つディーダーが立っていた。
ご、ごめんなさい。どうしても舞踏会が見てみたくて私……
あわてて涙を拭うと、ディーダーはそんな彼女の頭を軽くポンポンと撫でてやる。
おいおい教えていこうと思ってたんですけど……見てしまったものは仕方ないですね
今フォルカーさまと踊っている方が属国ロマアール王国第一王女アレクサンドラさま――フォルカーさまのご婚約者で、将来のモンデグリー帝国皇后になられるお方です
……婚約者……あの方が……
アレクサンドラの正体を知って、リーゼロッテの小さな胸はますます痛みを覚える。再び涙が溢れそうになって、あわてて唇を噛みしめてこらえた。
あの方が……フォルカーさまと結婚して妃になられるんですね……
気持ちを落ち着けようとしても、不穏な胸のざわつきは治まらない。
未来の皇后陛下にそんな嫌悪を抱いてはいけないと必死に自分に言い聞かせるリーゼロッテだったが……ふと見上げると、ディーダーもまたアレクサンドラに冷ややかな眼差しを向けていた。
ディーダーさま……?
不思議そうに声をかけると、ディーダーはパッといつもの笑顔に戻りリーゼロッテを落ち着かせるように優しく頭を撫でてくれた。
さあ、あなたはそろそろ部屋に戻りなさい。ゼルマが心配しているんじゃないですか?
は、はい……
ディーダーに促されリーゼロッテは頭を下げてから素直に廊下を戻っていく。
けれど彼女の胸には沢山の不安の種が根付いてしまった。アレクサンドラ自身に抱く謎の嫌悪感、ディーダーの彼女を見やる冷たい目つき。
そして、リーゼロッテが初めて知る胸の痛み――嫉妬。
さまざまなものを知ってしまい、せっかく見た舞踏会の華やかさも、リーゼロッテの気持ちを明るくしてくれる糧にはなり得なかった。
【つづく】